[QMA SS #:夏の終わりに]


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境内は文字通り年に一度の賑わいを見せていた。参道の両脇には屋台が立ち並び、その看板伝いに張り巡らされた電線には電球の提灯がぶらさがっている。夕闇には早く、西の空の残照が辺りをぼんやりと柔らかい色に染め上げている。
「ひとつください!」
赤い浴衣に身を包んだ少女が大声で呼ばわった。右手には既に硬貨を握って突き出している。
綿飴売りは大きな手で硬貨を受け取りながら、思わず口許をほころばせた。「あいよ、どれでも持ってきな」
「じゃあ、これもらうね」 少女はためらわずに綿飴の入った青い袋をひとつ手に取った。
「毎度あり」「どうもー」
少女は両手で抱えるように綿飴袋を持って、参道を入り口の方へ歩き始めた。足には下駄を履いているが、足取りはごく軽やかだ。ゆるい下り坂の勢いを借りて、人ごみを縫うようにからんころんと足を進める。肩に届かないくらいの紅い髪がぴょこぴょこと揺れた。
ちょうど入り口の鳥居が見えたところで、少女は少し歩速を緩めた。周囲にくるっと視線を送り、どうやら目指していたものを見つけると、そちらに向かってまた足を速めかけ、二歩進んだところでぱっと立ち止まった。
視線の先には少年二人が立っていた。一方は茶色ががった赤い髪の少年で、いかにも落ち着かない様子でねずみ色の浴衣を着込んでいる。もう一方は銀髪と言っていいほど色素の少ない髪の少年で、こちらは半袖のシャツにジーパンというくつろいだ恰好だった。
二人の話し声が聞こえてくる。なにやら真剣な様子だ。
「問題」 
銀髪の方が言う。「2002 年にジャパンカップダートとジャパンカップを制覇した騎手はランフランコ・デットーリですが、」
「“ですが”かよ」
赤髪が言うが、銀髪の少年は表情すら殆ど変えずに先を続ける。「その父親で 2000 ギニー2連覇などの実績がある騎手は誰・デットーリでしょう」
「うわあー」
赤髪は悲痛な声をあげて頭を抱える。「えーと、あー、『シアンフロッコ』・デットーリ」
「…不正解だ」
「じゃあ『ブロッサー』・デットーリ」
「………きみ、わざと言ってないか?」「言ってねえよ!」
少女はふたりの方に近付いて行きながら言った。
「『ジャンフランコ』じゃなかったっけ?」
「正解」 
銀髪の少年は言ってから、少女の姿を認めて軽く眉を上げた。「やあ、ルキア」
「クイズ好きだねー、セリオス」
「おお、ルキア」
赤髪の少年は相棒とは対照的にあけっぴろげな笑顔を見せた。「なんだ、仮装なんてして来るから気がつかなかったじゃねえか」
「なにー」
「レオン、仮装に失礼だぞ」 セリオスと呼ばれた少年が赤髪の肩に手を置きながらたしなめるように言う。
ふう。
ルキアと呼ばれた紅い髪の少女は小さくため息をついた。このふたりのことだから、こんなものだろうとは思っていたけれど、それにしても張り合いのないことおびただしい。
まあ、仕方ないか。少女は手に抱えている青い袋から綿飴を一本取り出した。
「おまたせ、皆さん」
よく通る声にルキアが顔を上げると、下ろせば背中まで届く美しい金髪を結い上げた少女が入口の石段を上ってきたところだった。黒地に青い花柄のあしらわれた浴衣を着て、背筋を伸ばし微笑む姿はなんともさまになっていた。数秒の間、通りかかる人の視線がその少女に集まった。
「わあ……、」
ルキアは思わず一歩踏み出して、金髪の少女の目の前に立っていた。失礼だとは思いながら、上から下まで眺めてしまう。「シャロン、綺麗……」
「ありがとう」
シャロンと呼ばれた少女は澄んだ青い目をわずかに細めて微笑んだ。「ルキアも似合ってるわよ。でも綿飴二本は欲張り過ぎじゃないかしら」
「片方はシャロンのだよ」 ルキアはにっこりと笑って、綿飴をシャロンに差し出す。
「え……」
シャロンは一瞬虚をつかれて顎を引いた。「……遠慮しておくわ。手が砂糖まみれになってしまうし…」
「いいから、もらってよ!」
ルキアは持っていた袋をセリオスに半ば投げるように預け、シャロンの右手を左手で掴むと、たちまち無理矢理にその手に綿飴を握らせてしまった。
「うん、お祭りっぽくなったね」 ルキアはちょっと下がってシャロンの姿を眺め、にっと笑った。
「……そうかしら」
シャロンは困惑した面持ちで右手の綿飴を見やったが、それをルキアに返そうとしたりはしなかった。
そのやりとりの間に、レオンは無遠慮にふたりの周りをぐるっと一周していた。
「シャロン、ほんと浴衣似合うな」
レオンは正面に戻って来てから改めて言った。「胸がない方が浴衣似合うってほんとだな」
「今のは聞かなかったことにしてあげてもいいわ」 
間髪入れずにシャロンは応じた。眉がほとんど真直ぐになるほどつり上がっている。「でも二度と口にしてごらんなさい、必ず後悔することになるわよ」
「ご…めんなさい」
レオンは物理的に身体を押されたかのように退がりながら頭を下げた。
セリオスが声を殺して笑う。「天才的だぞレオン、一言でふたり同時に敵に回すなんて」
「え?」
その時ようやくレオンは赤い浴衣の少女の眼差しに気付いた。
「あ、いや、悪気があって言ったわけじゃない、んだけど、な」
「そうだろうね」
ルキアはにこりともせずに言う。
誰が言い出すでもなく、四人は参道を本殿へ向かって歩き出した。天気に恵まれたこともあって人出は多く、暦の上ではとうに秋とはいえ昼の間に熱された空気は中々冷めない。独特の熱気が辺りには漂っていた。


「あっ」
薄紙が破れ、乗っていた小さな金魚がぽちゃりと水面に落ちた。再び自由を取り戻した赤い小魚は、逃げるように遠くへ泳ぎ去る。
艶のある茶色の髪を頭の両側で三つ編みのおさげに結った少女は、右手に持つ大きな穴の空いた“ぽい”を呆然と見つめた。左手に持つ椀には水だけがむなしく揺れている。丸い眼鏡の裏の瞳には困惑とわずかな焦燥の色が浮かんでいた。
「そんなに水すくっちゃ駄目だよ」
長方形の水槽の向こうに座る店主が笑いながら言う。「魚だけ取んねえとさ」
「ええ……」
少女は微かに目を伏せた。
「クララ、ありがとう、もういいよ」
金魚すくいに挑んでいる少女の脇に立っている、より年下の少女が言う。「結構難しいんだね、金魚すくいって。あたしが下手なだけかと思ってたけど」
「ううん、多分わたしも下手なんだと思う」
クララと呼ばれたおさげの少女は振り返って応じた。「ごめんね、アロエ、力になれなくて。誰か他の人に会ったら頼んでみようよ」
「うん、こっちこそごめんね、勝手なお願いしちゃって」
「いや、それは全然いいんだけど……」
クララは反射的に左右を見渡した。そう都合よく知り合いが通る筈もない――と思いきや、タイミングよく同級生が歩いて来るのが目に入った。長身で肩幅が広く、大股でゆったり歩いてくる姿は遠くからもよく目立つ。色素の薄い髪と瞳のために年齢すら判然としない、クラスでもっとも謎めいた男子生徒だった。
声をかけたものか逡巡していると、大声でアロエが呼ばわる。
「サンダースさん!」
「ん……」
男子生徒は足を止めて、仮面のような無表情のままふたりを見下ろした。
クララはどう切り出していいかわからなかったが、先にアロエが言った。「あの、ちょっとお願いがあるんだけど……」
「金魚が欲しいんです。えっと、つまり、アロエが、です。」
クララは慌てて後を引きとった。「それで、わたしもやってみたんですけど、全然だめで…、それで、もし、よろしければ、取ってあげてもらえませんか?」
サンダースは身体はぴくりとも動かさなかったが、わずかに眉をひそめたように見えた。
「私が、か?」
「…ええ。」
しゃべり始めてみると、意外に普通に話せる。「もしよかったら、です」
「………」
サンダースはすぐには応じなかった。
それどころか、そのまま微動だにせず10秒近く沈黙していたが、唐突に口を開いた。「構わんが、掬えるかどうかは保証できんぞ」
「それはいいですよ。わたしだって取れませんでしたし」
「うむ…」
サンダースは肯いて、ゆっくりとふたりの方に歩いて来ると、ポケットから小銭入れを取り出した。無言のまま貨幣を握った拳を突き出すと、店主が気圧されたようにそれを受け取り、反対の手でぽいと椀を手渡した。
背筋をピンと伸ばしたまま、サンダースはすっと膝を曲げてしゃがみこんだ。左手に碗を持ち、右手にはぽいを水平よりわずかに傾いた角度に構える。所作に無駄がなく、不安定な姿勢なのにゆらぎがない。
クララは斜め後方からついじっと観察してしまう。大きな背中。太い腕。とても自分と同じ年齢には見えないけれど、でもわからない。アロエやラスクのように、同じクラスだから同じ年とは限らないが、それでもあんまり歳が離れた者をひとりだけ入れるとも考えづらい。
サンダースは目を細めて水面を見つめた。ほとんどにらむような目つきで、鋭い眼光は水中にまで届きそうだ。このまま視線を送り続ければそのうち金魚の一尾や二尾浮かんでくるんじゃないかしら。
アロエも固唾を呑んで見守っている。期待する立場の筈なのに、どちらかといえば不安そうな表情だった。なにかそうさせる気配を、この男子生徒が発散していた。
店主すらサンダースから目を離せず、じっと様子をうかがっている。
サンダースは金魚の動きを視野に収めたまま、なお数十秒そのままの姿勢を保った。
そしてついに、サンダースが動いた。右手をすうっと水面に近いところまで下げて、軽く右に引く。そして水面近くを走らせるように1尾の金魚の背後から近づけて――
ぱしゃっ。
激しく水しぶきが上がった。クララにはその瞬間何が起きたかは正確には見えなかった。ただ再びサンダースは不動の姿勢に戻り、その右手には先ほどと変わらずぽいが握られている。そこに張られている薄紙には、大きな穴があいていた。
左手にも、先ほどと変わらず椀が握られている。張られた水の中には生きるものの気配もない。
「…………。」
店主を含む全員が声もなくサンダースを見つめた。サンダースも言葉を発さず椀をにらむ。
1分も続いたかと思われた沈黙は、実際にはせいぜい10秒ぐらいだったろうか、クラスメートである男子生徒の一切屈託のない声によって破られた。
「サンダース、まったくセンスねえなあ!」
レオンはたまたま通りがかっただけなのに、何の遠慮もなしに言い放った。数秒前までの緊迫した空気がばかばかしく思えるほど、その言葉は普段と変わりなく、当たり前に響いた。
「…………。」
サンダースはやはり表情を崩さなかったが、クララには何故かその顔がほっとしているように見えた。

人ごみを避けるために脇道に逸れて、さらにひとつ角を折れると、急に屋台の店並みが途切れて人通りの殆どない道にさしかかった。ぽつんと立った外灯に照らされて充分な明るさはあったが、それが余計に寂しさを増している。
早まりそうになる足を抑えながらシャロンはむき出しの土の上を進んだ。道はゆるやかに右にカーヴしていて、そのカーヴに隠れていたところに低く細長いテーブルが置かれていた。テーブルは薄い合板で作られており、道の脇にふたつ並んでいる。10人弱の少年がそのテーブルを囲んでしゃがみこみ、うつむいてなにか一心に作業をしている。ふたつのテーブルの間には店主と思しき男が椅子に腰掛けているが、さて何を売っているのだろう。声を発するものさえ余りなく、一種異様な空気がその一角を包んでいた。
シャロンは好奇心に負けて一旦足を止めたが、いささか恐ろしい印象も否めず、再び歩を進め始めかけた。と、しゃがんでいる少年たちの中に見覚えのある後ろ頭を発見し、シャロンは後ろから近付いた。
「タイガ」
不思議な髪型の少年は振り向く前に返事をした。「おー、お嬢」
「お嬢と呼ぶのは止めなさい」
「へいへい…」 タイガと呼ばれた少年はようやくしゃがんだまま振り向くと、「浴衣かー。可愛いなぁ。よう似合ってるわ」
「ありがとう」
シャロンは素直に肯いてから、「ここは何のお店なの?」
「なんのって、見たらわか……らんよなあ、シャロンには」
タイガは勝手に一人合点する。「型抜きっつってな、この四角いのから画鋲使って線に沿って綺麗にくり抜いたら、あー、、チョコレートがもらえんねん。」
側で作業をしていた少年が小さく吹き出したが、シャロンには何が可笑しいのかわからなかった。
「で、形によってもらえる枚数は違う。単純な形なら簡単やけどあんまりもらえんし、複雑な形なら難しいけどたくさんもらえる。そんだけや」
そう言ってタイガは側に置いてあったノートほどの大きさのカードケースを手に取った。中に挟まれている紙には形の見本が20種類ほど並んでいて、その下にそれぞれ三桁ないし四桁の数字が書かれている。なるほど、単純な形は数値が小さいし、ややこしい形のものは大きいようだ。しかし数字自体の意味はわからなかった。まさかチョコレートが 500 枚も 1000 枚ももらえるとは思えないのだけど……。
「やってみるか?」
「面白そうね」 シャロンは言っていた。
「なら、あのおにーさんから型抜き菓子を買ってきな」 タイガは椅子に座った男を指し示した。
「買うの?」「ああ」
こともなげに言われて、シャロンは仕方なくそちらに近付いた。店主の側には「カタヌキ教室」と書かれた看板が出ていて、値段も書かれていた。
「すみません」
どう言ってよいかわからずおそるおそる値段通りの貨幣を差し出すと、店主ははいよ、と思ったより愛想のいい声で答えて、引き換えに「かたぬき菓子」と書かれた薄紙に包まれた3枚の小さな板を差し出してきた。シャロンはそれを両の掌に載せて、そろそろとタイガのところまで運んだ。
「いや、そこまで壊れやすくないけどな」
ちょっと呆れたようにタイガが言う。シャロンはその隣りにしゃがみこんだ。
「とりあえず全部開けてみ」
タイガに言われて、包みを一枚ずつ開いてみる。何やら粉で作られているようで、質感はわずかに落雁に似ているだろうか。形はむしろ子供向けの板ガムに似ていた。その表面に、カードケース内の見本に描かれている形が彫られている。一枚はけん玉のような形、一枚は飛行機の形、もう一枚はアメーバのようなうねうねとした形だった。見本と照らし合わせると、飛行機が一番大きな数字、その次がけん玉、アメーバが一番小さい。
「んー、まずはこれで練習かな」
タイガはアメーバを手に取りかけたが、結局けん玉を選んだ。「その辺の画鋲適当に使って」
シャロンは一番手近な画鋲を一本手に取った。
「抜き方はまあ、十人十色や。どれが正しいっちゅうのは無い、と思う。例えば最初は手で割るなんつう豪快な奴も居るし、ずーっとちまちま彫ってく奴も居るし。おれはどっちかって言えばちまちまやる方が好きかなあ」
それからタイガは大雑把なこつを教えてくれた。平たいところにきちんと置くこと。急に力を加えないこと。元々刻まれている溝を少しずつ深くしていくイメージで彫ること。
あとは好きにしたらいい、と言ってタイガは自分の作業に戻ってしまった。
シャロンは画鋲を右手で持ち、型抜き菓子の溝をなぞり始めた。まずはけん玉の柄の部分に当たる、長い直線を彫ることにする。針先がわずかずつ溝の底を削り、削り屑がかすかに浮き始める。
これを根気よく繰り返していけばいいわけね。
単純な作業だったが、ほどなくシャロンは没頭し始めた。ゆっくりと画鋲を往復させるにつれて、少しずつ切先が深く埋まるようになる。溝の中に溜まってきた粉を、軽く息をかけて吹き飛ばす。どのくらいまで力を込めていいものなのだろうか。この程度では全く彫れてないのではないだろうか? いやそんなことはない。先ほどより、確実に溝は深くなっている。
要領がつかめて来て、少しずつ動きの効率がよくなってきた。リズミカルに手を動かすと、溝が目に見えて深くなって行く。結構、面白い――
「あ」
思わずシャロンは声を出していた。少し力を入れすぎたらしく、型抜き菓子は見事にふたつに割れてしまった。
「割ったか?」
タイガが訊いて来た。
「割れてしまったわ」
「最初にしちゃ頑張った」 タイガは割れた欠片を手に取って眺めた。
「それはどうするの?」
シャロンは思い立って訊いてみた。「お菓子というからには、食べられるのでしょう」
「あー、まあ、喰えることは喰えるなあ」
タイガは笑みと心配の入り混じったような表情を浮かべた。「喰ってみるか?」
「……ええ」
少しためらわれたが、シャロンは思い切って肯いた。
――何事にも触れてみるべし。生の知識こそが強く心に刻まれるものと知れ。
小さな欠片を指でつまみ、ゆっくり口許へ運んだ。一旦舌の上に乗せてから、前歯で挟んで噛み砕く。思った以上に歯応えもない。小さく咀嚼して飲み下す。
「……どうや」
「不味いわ。とても」
「だよなあ。なにをどうするとそういう味になるのかわからんのや。一種の企業秘密やろな」
タイガは冗談とも本気ともつかない調子で言い、シャロンは曖昧に肯いた。
「さて、次からは本番や。今のでこつはわかったやろ?」
あまりわかったとは言えないように思えたが、タイガが意外なほど真剣な顔で訊いてくるので、シャロンはつりこまれるように肯いていた。
「これなら素人でもなんとかなるかも知らん。頑張りい」
渡されたのは先ほど一旦手に取りかけた「アメーバ」だった。一番数値が小さかったから、つまりは一番簡単なのだろう。
作業に入ってみてすぐにわかったが、緩い曲線は思っていたよりもずっと簡単になぞれた。角があるように急に曲がっている方がはるかに難しい。菓子自体はとてももろいので、細い部分があると折れやすい。アメーバはどちらにも当てはまらない形で、だからこそ数値が小さい。
シャロンは直観的にどこか一箇所を深く彫らない方がいいらしいことに気付き、溝の全部を少しずつ深くしていった。同じ区間で針先を何回か往復させてから、前の区間と重なるように次の区間を決めてまた針を往復させる。ある程度進んだら板菓子を回し、自分の手の影が邪魔にならないようにする。削り屑が溜まってきたら吹き飛ばす。
何周かそれを繰り返してから、ふと、恐ろしく肩に力が入っていたことに気付き、シャロンは画鋲を一旦置いて首を軽く回した。どうも気を入れ過ぎてしまっているようだ。
隣りのタイガは俯いて一心に画鋲を動かしている。今まで二人並んでこんなことをしていたかと思うとシャロンはちょっと可笑しくなった。
「ん? 割ったか?」
「いいえ。まだ大丈夫よ」
「そうか」 タイガはすぐに自分の作業に戻ってしまった。
シャロンも型抜きに戻る。
なぞっていくにつれて、どうやら底が見えてきた。つまり、溝の底部が型抜き菓子の裏に到達しそうになっているのがわかったのだ。ごく薄くなった菓子を透かしてテーブルの合板が見えたように思えた。シャロンははやる気持ちを抑えて、その部分をそのままにしてまたぐるりと一周なぞっていった。
薄い部分に戻ったところで、シャロンは針をほぼ垂直に持って一番薄い部分にゆっくり突き立ててみた。針先は菓子を貫いて、テーブルの表面まで届いた。
やった。
口には出さずに呟いて、その穴を溝に沿って広げてゆく。周囲も充分に薄くなっていて、穴は意外に早く細長くなっていった。
穴の端に接している部分を、針先を穴に落とすように少しずつ斜めに削って行く。これを一周続ければ抜けるんだ。ここまで来ればそれほど難しい作業でもない。もう少しで穴の長さが全体の半分を超える。ひょっとすると、本当に抜けるかも知れない。
そう思った瞬間、左手に力がこもり過ぎた。ぽきん、とわずかな衝撃が思わぬところから伝わってきて、シャロンは慌てて左手を離したがもちろん既に遅かった。なんと、針を持っている方ではなく押さえている手で菓子を割ってしまったのだ。
「飛びおるるともおりなむ、」
シャロンはため息とともに呟いた。
「あやまちは安きところになりて――」 タイガは応じてから顔を上げて、「って、そんな惜しいとこまで行ったんかい」
「あと半分ぐらいだったのだけど」
「はー、確かにこりゃ結構いいとこまで行ってるわ。惜しかったなあ」
タイガは割れてしまった型抜き菓子を見て評した。「……どうする? もう一枚残ってるけど」
「この辺にしておくわ」
シャロンは言いながら立ち上がった。もうこれ以上しゃがんで居られないほど脚が強張っている。血が通い始め、神経が痺れを伝えてきた。
「じゃあもらっていいか?これ」 タイガは先ほどの飛行機型の彫られた型抜き菓子をかざしてみせた。
「どうぞ、好きにして」
「ありがとう」 妙に嬉しそうな笑顔を見せたタイガを見て、シャロンはクラスメイトに対して普段からしょっちゅう覚える感覚を強く感じた。
でも、わかっている。自分はそのようには生まれて来なかった。
「投資するのよ、あなたに」
「……え?」
「だから、利益を上げたら配当を頂かないと。チョコレート、楽しみにしてるわ」
タイガは丁子を噛んだような表情を浮かべたが(隣に座っている少年が声を殺して笑い出し、背中を細かく震わせていたのにはシャロンは気付かなかった)、すぐににやりと笑った。
「任せとけ」
いい笑顔だな、と思った。
シャロンはそっと足を動かしてみて、痺れがなんとか我慢できるほどであることを確認してから、立ち止まる前に歩いていた方向に再び足を進め始めた。
石畳の敷かれていない細い道は、依然として明るくもなく人通りもなかったが、シャロンは一歩一歩踏みしめて歩いてゆく。


片端から食べる心算でいても、人間の胃袋には限界がある。ルキアはまずはどんな店があるかチェックして、作戦を立てることにした。参道は先ほど下から上まで歩いたので何があるかは大体わかった。ここから脇道をジグザグに辿って鳥居まで下りて、食べ歩きにかかろう。さっき綿飴をほぼまるまる一本食べたから、それぐらいまではおなかが保つ筈。まあ、どうしようもなければ途中で食べてもいいんだし。
来た道とは別の道をルキアは歩き始めた。からころと下駄の音が響く。
屋台はどういうわけか毎年同じ場所にあることが多く、見覚えのある店が見覚えのある角に立っていることが少なくない。とはいえ見て初めて思い出す程度で、何の手がかりも無しに全て思い出せると言うほどでもない。
ああ、いつもここはベビーカステラだったっけ。そうそう、隣にはカキ氷屋さんがあって、一昨年だったか、どういうわけか両方立て続けに食べたことがあったなあ。
もちろん全く同じということもなく、店は少しずつ入れ替わる。はやりすたりも多少はあるようで、例えば串焼きがやたら目につく年があったりするし、紐を引くくじは昔ほどは多くないように感じる。年中行事の中にも移ろいゆくものは必ずある。
ぶらぶらと脇道を下りてゆくと、馴染みのある紫色の髪の少女が行く先を歩いているのが目に入った。行くあてもなさそうに、手ぶらで歩を進めている。ルキアは追いかけて行って声をかけた。
「マラリヤー」
マラリヤと呼ばれた少女は黙って振り向いた。
「来てたんだね」
「食事を調達しに来たのよ」 マラリヤはにこりともせずに応じた。
「えっ、じゃああたしと同じだ」 ルキアは勢い込んで言った。「一緒に食べようよ。半分ずつ食べれば色んなものが食べられるよ」
マラリヤはふっと笑う。「いかにもあなたらしい発想ね。………ものによっては相伴してもいいわよ」
「ほんと? じゃあマラリヤ選んでよ。何が食べたい? あたし、なんでもいいよ!」
「………」
「そんな顔しないでよ」
マラリヤが歩き出すのに併せて、ルキアも隣りを歩き始めた。
さて、さっきはああ言ってみたものの、やっぱりさっきからあれを食べようこれを食べようと目をつけていたので、どうしても胃の方向がそちらを向いてしまっている。全然違うものばっかり食べたいって言われたらどうしよう。
マラリヤは迷いなくまっすぐに参道を目指す。
屋台が軒を連ねる並びでも、しかしマラリヤは立ち止まろうとしない。人並みに阻まれながらも、ゆっくりと何かを目指して歩き続ける。食べ物がふたりの左右を通り過ぎて行く。ソースの、砂糖の、肉の焼ける、蜂蜜の、バニラエッセンスの、様々な食欲をそそる匂いが鼻腔をくすぐる。
ああマラリヤ、あなたお好み焼きに興味はないの? 止まる様子なし。じゃあ熱々のじゃがバターは? 一瞥もくれない。綺麗なチョコバナナは? ちらっと見るだけ。ふわふわのベビーカステラは? 食べないの? べっこう飴は? 焼きそばは? ラムネは? 烏賊は?
……もう、なんでもいいから止まってよう!
ルキアがたまらず心の中で叫んだ時、マラリヤは不意に足を止めた。
「……ソースせんべい?」
散々数多の店を通過しながら立ち止まったのがここであることに、流石にルキアは驚いた。
「あなたが私に選べって言ったのよ」
マラリヤは表情も変えずに言う。
「うん、そうなんだけどさ。まあ、マラリヤが食べたいならなんでもいいや。食べよう食べよう」
ソースせんべいの屋台の例にもれず、その店にもアトラクションが設置されていた。ボードの中心に立てた柱の先端に水平に回転する横木がついていて、横木の片方の先から垂らした糸に縫い針が通されている。ボードは中心から放射状に直線で50ほどの不揃いな大きさの部分に区切られていて、12 から 100 までの数字が記されていた。横木を回して、止まった時に縫い針の先が接している部分に書かれている数値の枚数だけソースせんべいが手に入る。
「いらっしゃい」
店主に言われてもしばらくマラリヤは小首をかしげていたが、いきなり訊いた。
「100 のところに止まれば 100 枚もらえるの……」
「そうだよ。50 のとこなら 50 枚。100 のとこなら 100 枚。」
「こう?」
マラリヤは横木を手でつつっと回して、針先を「100」と書かれている細長い三角形の上にもってきた。
「ああ。くるくるって回してそこに止まれば、100 枚だよ」
「じゃあ、やってみるわ」
言って、そこで初めてマラリヤは硬貨を店主に渡した。
ルキアにはマラリヤの意図がさっぱりつかめなかった。お祭りが好きそうには見えないけど、だからってこれのルールを知らないとは思えない。だいたい、見ればわかるもんね、これ。
でも、マラリヤが理由もなくこんな会話をするとは、もっと考えづらかった。見知らぬ人と余計な口をきくなんて、全くらしくない。
などと思っているうちに、マラリヤは横木を軽く右手で持ってすっ、と時計回りに回していた。見た目よりかなり力がこもっていたが、横木の速度はすぐに落ちる。1回転半したところで急激に勢いを失い、ちょうど2回転したところで止まった。
そう、本当にちょうど2回転。
回す前と同じように、針先は「100」のところを指している。一瞬何が起こったのかわからなかったけど、これってつまり、
「わー、すごいじゃん、大当たり!」 ルキアは叫んでいた。
「ええ?!」
店主は目を剥いて盤面を見つめる。だが、明らかに針は 100 枚のところにあった。店主は横木をつかみかけたが、そこで諦めたように手を引いた。
「おめでとう、百枚当たりだ」
「ありがとう」
マラリヤはほんの一瞬微笑みを浮かべたように見えたが、ルキアがはっとして見直したときにはもう元の表情に戻っていた。
勘違いじゃなければ、その口許はわずかながら得意げに見えた。ということは、狙って回したんだろうか? わざわざ最初に 100 のところに合わせたのは、ちょうど2回転で当たるようにするためなんだろうか。
でも、そんなことがほんとに出来るのかな。初めて触る横木をぴったり2周回す力加減がわかる……なんて、流石にちょっと信じ難いよね。
そんなことをルキアが考えているうちに、
「ソースは何にする? いくつか選んでもいいよ、百枚もあるし」「全部チョコレートで。」
などという恐ろしい会話が交わされ、マラリヤの手元には小さな袋に入れてもらった 100 枚のソースせんべいと、プラスチックのケースに入ったチョコレートクリームが渡されていた。
「まいど!」
半ば自棄にも聞こえる店主の声を背中に聞きながら、ふたりは屋台を離れた。
「すごいね、マラリヤ。あたしこれまでの人生でも20枚が限界なのに」
「大したことないわ………原価だって知れたものでしょう、いくら 100 枚でも」
「うわ、やな感じでリアリスト」
「事実よ、単なる」
マラリヤは両手で袋を挟み、縦にしてみたり回してみたり、色々な角度で眺めている。
ふとルキアは本来の目的を思い出して言った。
「……でも、そんなにたくさんあると、ふたりで分けても晩ごはんそれだけで終わっちゃうね。どうしようか」
「………」
「そんな顔しないでよ」


引き金を引くと、情けないほど軽い音がして銃口から弾丸が飛び出した。辛うじて狙った箱には当たったが、ほんのわずか揺らいだか、という程度しか動かない。
セリオスは構えを解くと、ゆっくり首を横に振った。お話にならない。射的などそもそも標的を落とせるものではないとわかっていた心算だったが、ここまでどうしようもないとは知らなかった。
手元の皿にはあとひとつだけコルクの弾丸が残っている。しかしいま一度狙ったところで徒労に終わることは目に見えていた。それだったらキャラメルでも狙った方がまだ――
「やあ、セリオス!」
思い切り背中を叩かれて、セリオスはのけぞった。振り返ると予想通りの人物が立っている。
声の主は豊かな青髪を頭の後ろでひとつに結わえた少女だった。少しつり目だがどこか愛嬌のある顔立ちで、口許には子供じみた笑みを浮かべている。
「そろそろ加減ってものを知ってくれ、ユリ。」
「ごめんごめん」 
ユリと呼ばれた少女は悪びれた様子もない。「で、なにやってんの?」
「見ればわかるだろう、射的だ」
「全然取れてないじゃん。下手でしょセリオス。下手そうだもんね」 青髪の少女はたたみかけるように決めつける。
「……あれを狙ってたんだ」
セリオスは先ほどから目標にしていたゲームソフトを指さした。「だけど、取れるもんじゃないな、やっぱり。諦めるよ」
「………」
何故かユリは黙り込んでしまい、ゲームソフトの箱をじーっと見つめた。それから銃をちらりと見て、カウンターを見て、標的までの距離を測るように視線をゆっくりと奥へ運ぶ。先ほどまでの笑みも引っこんでいた。
セリオスは構わず、最後の一発を装填した。結局ゲームは諦めて、隣にあったボンタンアメを狙うことにする。と、ユリが一挙手一投足を観察しているのがいやでもわかった。
……どうも、やりにくいな。
セリオスは引き金を引いた。ぽん、と音がして弾丸が飛ぶ。コルクは見事ボンタンアメに命中したが、箱は後ろに倒れるに留まった。
「残念」
銃をカウンターに置こうとすると、ユリがいきなりその銃身を掴んだ。
「ねえ、セリオス、あのゲームほんとに欲しい?」
何を言い出すんだこいつは、と内心思いながらもセリオスは応じた。「欲しいことは欲しい。なかなか売ってるもんじゃないんだ」
「じゃあ、取ってあげるよ」
ユリは自信ありげな笑みを浮かべている。「弾を10個買ってくれたら、それで取るよ」
セリオスは少し迷った。弾丸10発といえば2回分で、既に1回分つぎ込んでいることを考えると少ない金額ではない。実際手に入ったとすれば安い買い物だと言う他ないが、判断するにあたっては取れたときのことは考えない方がいいだろう。あとは目の前のクラスメイトに、この金額を賭けていいかどうか、それだけのことだ。
「……わかった。やってみてくれ」
「え? ほんとにいいの」
てっきり断られると思っていたようで、ユリは少し慌てた様子だったが、セリオスは構わず店主を呼び止めて弾丸を10発追加で買った。
「腕を見せてくれ、名人」

ユリはまずもらった弾丸をひとつずつ手のひらに乗せて吟味し始めた。転がしてみて、横から見て、正面から見て、それから軽く握る。全ての弾丸をその一連の動作で確かめて、何らかの基準に従ってブリキの皿の上に順番に並べて行った。
慣れた手つきで銃の先端から弾を込めると、素早く構えに入って先ほどセリオスが狙ったボンタンアメにぴたりと銃口を向けた。そのまま2秒ほど何かを確かめるように動きを止めていたが、その間にも銃身はほとんどぶれていなかった。筋肉の使い方が巧いのだろう。セリオスが感心していると、意外に早く引き金を引いた。弾は箱の右端に当たり、倒すにも至らなかった。
「ふむ」
ユリは驚く様子もなく、淡々と二発目を装填し、無造作と言っていいほどあっさり構えてあっさり撃った。今度は弾は箱の上部中央の絶妙な位置に当たり、ボンタンアメは後方にもんどり打って倒れると奈落に落ちた。
続いてユリはゲームソフトと同じ段にある金属製のライターを立て続けに狙い、二度とも命中させて倒したが落とすには至らなかった。5発目はやはり同じ段に並んでいる合金の二足歩行メカの模型を狙ったが、これは土手っ腹に当てたものの揺らがせるまでだった。
……なんだ? 今銃身が一瞬ぶれたように見えたような……。
セリオスは何をしたのか訊ねようと口を開きかけたが、ユリの瞳に宿る真剣さに気圧されて声を発することができなかった。わずかに笑みこそ浮かべているが目はらんらんと輝き、獲物を見据えて動かない。いつもながら舌を巻くほどの集中ぶりだった。
次の弾から、ユリはとうとうゲームソフトを狙いにかかった。相変わらずテンポは早かったが、狙いは雑になったように見えた。6発目は箱の左の方、7発目は右の方に当たり、いずれも倒すにも至らない。8発目は左端をかすめるように飛んだ。
やはり無理か。
セリオスが半ば諦めかかると、ユリは銃を構えゲームソフトを見つめたまま呟いた。
「次で落とすよ」
「え?」
セリオスが驚いて聞き返すと、ユリは前触れもなく大きな声をあげた。「はっ!」
その場に居た何人かの客と店主が、一斉にふたりの方を向く。ユリは力みもなく、そのまま引金をしぼる。弾丸が射出される刹那、銃身が前方に一瞬ずれるように動く。
まただ――
セリオスは思いながら、ゲームソフトに視線を移した。コルクの弾は糸を引くような軌跡を描き、ソフトの箱の中央よりやや上に吸い込まれるように当たった。ぽこん、と音がしてソフトの箱は真後ろに何ミリか滑り、それから耐え切れずに後方に倒れた。
ぱたん、と音を立てた箱は棚板の端から半分以上がはみ出していた。一瞬そこで止まるかに見えたゲームソフトは、かくんと奥に傾くと上端から奈落に滑り落ちて行った。
「おおっ!」
セリオスは思わず叫んでいた。「落ちた!」
「落ちたよね?」 ユリはまだ銃を構えたまま訊く。
「落ちたよ。落としたよ、きみが」
「よかった」 ユリは銃を置いて、満面の笑みを浮かべた。「安請け合いしちゃったから、駄目だったらどうしようかと思ってたんだよ」
店主はちょっとの間信じられないという面持ちでユリとゲームソフトを交互に見ていたが、やがて立ち直ると大声でおめでとう、と告げ、奈落に落ちた箱を拾ってユリに渡した。ユリはありがとう、と応じてその箱を受け取ると、ボンタンアメと全く同じようにひょいとセリオスに差し出した。
「はい」
「……いいのか?」
「スポンサーさまのものだよ。それにあたし全く欲しくないぞこんなもの」
そう言われてようやくセリオスは手を差し出した。「ありがとう」
渡されたゲームソフトは予想したよりも軽かった。昔のゲームはこの程度のものだったのかも知れない。
「でも、セリオスも笑うんだね」
急にユリがそんなことを言った。
「え、どういう意味だ?」
ユリはそれには答えず、いつもの子供じみた笑みを浮かべた。「それで笑ったと思ったらファミコンのゲームだもんね。ほんとオタクっぽいよねセリオス」
「え、そう?……かな、……」
ユリは参道の方へ歩き出している。


(未完)


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