日本百名城(朝日文庫 中山良昭著)巡り

各城の歴史は上記朝日文庫、Internet Wikipedia、各城のパンフレット等から引用しています。上記文庫は2004年発行で2006年(財)日本城郭協会が発表した百名城とは28城が異なっており,先に発表され戦国時代を中心に選定されている朝日文庫の日本百名城に魅力を感じました。又歌・詩吟・俳句等に於いても魅力を感じた。

荒城の月:作曲滝廉太郎、作詞土井晩翠
 「春高楼の花の宴 巡る盃影さして 千代の松が枝分け出でし 昔の光今いずこ」
 「秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて 植うる剣に照り沿いし 昔の光今いずこ」
 「今荒城の夜半の月 変わらぬ光誰がためぞ 垣に残るはただ葛 松に歌うはただ嵐」
 「天上影は変わらねど 栄枯は移る世の姿 映さんとてか今も尚 ああ荒城の夜半の月」

 晩翠は仙台青葉城・会津若松鶴ケ城・富山城を、また崇敬をしていた謙信の漢詩能登の石動山城・七尾城を、廉太郎は大分竹田市の岡城・富山城がモデルではないかと言われているようです。

九月十三夜陣中作 上杉 謙信
 「霜満軍営秋気清 数行過雁月三更 越山併得能州景 遮莫家郷憶遠征」

 七尾城攻め時に長期戦となり、謙信が石動山城を築城し陣中で観月の宴を催した時。

春望 杜甫
 「国破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心 烽火連三月 家書抵萬金 白頭掻更短 渾欲不勝簪」

 中国唐時代詩仙と言われた李白に対し詩聖と言われた杜甫の作で、玄宗時代の末期安禄山の乱に巻き込まれ長安での軟禁状態時に作成されたもの。城は城壁に囲まれた町のことで長安(現西安市)のこと。

「奥の細道」平泉高館にて 松尾芭蕉
 「夏草や 兵どもが 夢の跡」

 奥の細道の前文に平安時代に繁栄した藤原3代の栄耀一睡の中にして、源頼朝に追われた義経が秀衡の死後泰衡に攻められ最後の地となった義経居城の高館跡に立ち約500年前を崇敬する杜甫の春望を思い作成したようです。

白虎隊 作:佐原盛純
 「南望鶴城砲煙揚 痛哭飲涙且彷徨 宗杜己亡我事畢 十有九人屠腹彊

 作者は会津若松の幕末の志士で明治維新後は若松にて教育者。15・16の少年が団結した白虎隊は一国の急に難にあたり死を決して戦ったがやぶれ飯盛山に登り、遥か鶴ケ城を望み十九人が自刃した。

古城:歌手三橋美智也、作曲細川潤一、作詞高橋掬太郎
 「松風騒ぐ丘の上 古城よ独り何偲ぶ 栄華の夢を胸に追い ああ仰げば侘びし天守閣」
 「崩れしままの石垣に 哀れを誘う病葉や 矢弾のあとのここかしこ ああ往古を語る大手門」
 「甍は青く苔むして 古城よ独り何偲ぶ たたずみおれば身にしみて ああ空行く雁の声悲し


今後の予定100首里城(那覇市)
火災後再建中で、2026年秋頃完成予定のため2027年に行ければと思っています。

99福岡城(福岡市)
時:2023年3月15日 大阪出張時足を延ばし単独見学
感想:JR博多駅よりタクシーにて見学。秀吉の軍師であった黒田官兵衛(黒田如水)は九州平定後,秀吉に警戒され豊前中津12万石が与えられ長政に家督を譲り隠居した。しかし関ケ原の合戦により対立が長引くと見た如水は周辺の諸城を制圧したが関ケ原は長政等の活躍もあり1日で決着した。そこで制圧した諸城は家康に返上し、黒田家は筑前52万石の大名となった。場所は古代に外国要人を迎える鴻臚館があった丘陵地の福崎を如水の父祖の郷里である備前国福岡に因み福岡と改め梯格式平山城を築いた。以降明治まで福岡藩黒田氏の居城となった。流石黒田藩で城跡は非常に広く現在城跡は舞鶴公園と大濠公園等となり、現存櫓・城門・石垣・堀、復元された櫓・城門が点在している。なお立派は現存天守台からの360度の眺めは素晴らしかった。続いて中小の天守台もあるが天守閣は当時有無の論争もあるようです。また「黒田節」で有名な旧母里太兵衛邸長屋門あるようです。春の福岡城桜祭りには黒田孝高・長政・二十四騎等のパレードがあるようです。


98月山富田城(安来市)
日時:2022年10月5日岡山墓参時に単独で見学
感想:前日鳥取米子泊。5日早朝JR米子駅から安来に行き駅前より広瀬行きバスにて市立病院前にて下車し徒歩10分程度の歴史資料館駐車場の月山登山口から登った。千畳平・山中鹿之助幸盛銅像・山中御殿・七曲・三ノ丸・二ノ丸等を見学しながら徒歩約1時間で本丸標高190Mの月山富田城跡に到着。本丸跡から城下を見渡し「兵どもの夢の跡」を偲んだ。天然の地形を利用した難攻不落の要塞といわれ「天空の城」ともいわれたようです。戦国時代に山陰の覇者尼子氏が本拠を構え尼子氏6代の盛衰の舞台となった。経久時に整備・地域拡大し一時大内氏に攻められたが撃退し晴久時代に山陰・山陽8ケ国を領有した。晴久死後毛利元就に攻められ籠城の末開城した。その後毛利方は吉川氏が入城したが、一時旧臣山中鹿之助ら尼子再興軍が攻めたが敗退した。その後山城は不便なため吉川氏は米子城を築いて移り、関ケ原後は堀尾氏が入城したが、近世では海も遠く城下町経営には不便で松江城を築城して移り廃城となった。遺構は土塁・石垣で現在は武家屋敷跡等が一部田畑等となり富田川も洪水等で変化して昭和40年後頃から発掘調査が行われ多くの出土品が掘り出されているようです。飯梨川(旧名富田川)川岸の三日月公園には尼子経久の銅像があり、この地は尼子・忠義の武将山中鹿之助の「ふるさと」であることを実感した。その後近くの世界で日本一の庭園と言われている足立美術館を見学して帰路に着いた。


95平戸城(平戸市)・96島原城(島原市)・97佐賀城(佐賀市)・9熊本城
時:2022年9月12-15日百名山を踏破した友人Yさん同行
感想:12日東京より新幹線を乗継ぎ佐世保からバスにて平戸桟橋着。当日は天皇所縁の国際観光ホテル旗松停に宿泊。翌早朝フランシスコザビエル記念碑・三浦按人の墓・展望台を散歩後、平戸城を見学。平戸は九州の最西北端に位置し、平安時代から松浦(まつら)氏が幕末まで治めた。松浦氏は軍学者山鹿素行と親しく素行が縄張りをしたといわれ山鹿流の築城とされている三方を海に囲まれた梯格式平山城である。廃藩置県により廃城となり遺構は櫓・堀・石垣で昭和37年に模擬天守・櫓等が再建されて天守内は松浦氏等の資料館となっていた。天守からの平戸大橋・九州本土等の眺めは絶景であった。現在は亀岡公園となり市民グランド等があった。午後バスにて佐世保に帰り諫早より島原鉄道島原駅より徒歩5分にて島原城を見学。有明海に臨み雲仙岳の麓に位置する連郭式平城で長く高い石垣が特徴で破風を持たない5層5階建て。大坂の陣後キリシタン大名有馬氏に代わり元大和筒井順慶の家臣だった松倉重政が4万石で乗り込み、分不相応な巨城を築き領民を圧制し、更にキリシタンへの弾圧のため1637年島原の乱が暴発した。その後譜代大名が入れ替わり明治以降は廃城処分となり、昭和39年に天守が復元されキリシタン資料・藩政時代の歴史資料館となっていた。現在は城跡公園となっている。当日は残念ながら天守の外装工事が行われており全体の姿は見学できなかったが、天守から東有明海・熊本方面、東南天草方面、西雲仙方面の眺望は素晴らしかった。14日早朝佐賀城跡を見学。佐賀市の中心に位置し北に長崎街道がある輪郭梯郭式平城で、石垣は本丸の北と西のみで、あとは土塁で平野を縦横に走るクリークがあり、「沈み城」ともいわれたようです。低地で石段の低い天守台からの展望は高いビルが少ないため佐賀市外を360度見ることが出来た。城主鍋島氏は戦国末期に主君龍造寺氏を乗っ取り肥前の領主として秀吉に安堵された土着系大名で、龍造寺氏の居城を修築して佐賀城を築いた。天守は小倉城を参考に築城されたようだが、享保の火災により焼失し以後再建されなかったようです。明治7年江藤新平率いる不平士族の反乱佐賀の乱で城の主要部は炎上し現存する鯱の門に当時の弾痕が残っていた。本丸跡には幕末西洋の先進技術を導入して近代化した佐賀藩10代藩主鍋島直正の銅像があった。現在は佐賀城公園として整備され本丸周辺は堀・土塁が復元され、また県庁・博物館・図書館等公共施設が立ち並ぶ佐賀県の政治経済の中心地となっている。当日午後久留米市の高良大社参拝後、熊本に行き2度目の熊本城を見学。2016年4月の熊本地震後2021年3月に天守の修復が完了したようで仮設歩道橋にて天守閣に入り歴史資料を見学後、最上階からの展望は流石再建ではあるが清正の縄張りで見事なものであった。今後も櫓等の修復工事が行われやがて仮設歩道橋のない広大な熊本城が見学できるものと思われます。


93萩城(萩市)・94岩国城(岩国市)
日時:2022年5月10-13日妻と旅行
感想:10日松下村塾・松陰神社参拝後,翌日東萩駅前よりタクシーにて萩城跡を見学。萩城は関ケ原で西軍の総大将となった毛利輝元(銅像あり)が戦後周防・長門の2国36万石に減転封となり指月山に梯格式平山城を築城したもの。幕末吉田松陰を初め多くの志士が輩出し260年後、同じ関ケ原の負け組みであった薩摩藩島津家と共に幕府を打倒するエネルギーになったようです。明治7年廃城令により破却され遺構は旧厚狭毛利家長屋・石垣・堀等で北の総門・土塀等一部が復旧再建されている。現在は指月公園として整備され天守台から萩市を展望した。又武家屋敷も綺麗に整備されており高杉晋作誕生地・木戸孝允旧宅等を見学した。当日午後高速バスにて新山口駅に行き新岩国駅よりタクシーにて錦帯橋を見学し近くのホテルに宿泊した。翌日ロープウエイにて岩国城を見学。この城は関ケ原後、伯耆・出雲を領していた吉川広家が米子城から移封になり山陽道の東端に東からの徳川に備えるため錦川を外堀とする山城を築城した。広家は毛利家の現状維持を条件に関ケ原の合戦で家康に通じたが、戦後は無視され毛利家を取り潰し2ケ国を広家への申出を固辞し毛利家を救った立役者とされたが、毛利家には猜疑心が残ったようで城の完成後7年で一国一城令により廃城となった。遺構は石垣・堀等で、現在は吉香公園として整備され横山山頂には天守閣が再建されており、天守閣から展望した錦川の錦帯橋は見事であった。また宮本武蔵と戦った佐々木小次郎が岩国出身のようで佐々木小次郎ツバメ返しの銅像があった。

91米子城(米子市)・92鳥取城(鳥取市)
時:2022年4月13-14日鳥取の城・一宮一人旅
感想:13日JR米子駅より徒歩にて10分米子城跡を見学。鳥取城を本拠とした池田氏は因幡・伯耆を領地としていた。一国一城とはいえ長州の毛利を牽制し山陰道の守りのため存続された。毛利は尼子の月山冨田城を攻略し制海権を求め一族の吉川広家が湊山に築城中に関ケ原で破れ、中村氏が移り5層天守の梯郭式平山城を完成させた。その後1617年に池田光政が領主となり米子城は家老の荒尾氏が預かり明治を迎えた。遺構は石垣・桝形虎口・堅堀等で明治12年に取壊され、現在は湊山公園として整備され天守台からは360度の展望で北は日本海、西は中海、東南は街並み、又山陰道から山陽道への要衝であり絶好のロケーションであった。14日伯耆・因幡の一宮に参拝後、宇部神社よりタクシーにて鳥取城跡を見学。久松山の鳥取城は山名氏の居城であったが、戦国期秀吉が「鳥取城の餓え殺し」と言われる兵量攻めで攻略した。その時部下や城に避難した民衆の命と引き換えに自刃した吉川経家の銅像が内堀端にあった。その後関ケ原後池田氏が入城し梯郭式平山城に改修した。池田家は池田輝政の弟・長男・次男がおり岡山藩池田家と交代等したが、両藩とも池田家で明治を迎えた。明治に取壊され遺構は天守台・石垣・堀等。信長が「堅固な名城」と評したこの城は山中幸盛・吉川元春・豊臣秀吉に各2度計6度落城した経緯あり。天球丸の天守台からの展望は鳥取市街が一望でき現在は大手登城路の復元整備等が行われていた。

88浜田城(浜田市)・89津和野城(津和野町)・90広島城(広島市)
日時:2019年9月9-10日岡山墓参時に帰路足を延ばし3城を見学
感想:9日午前JR浜田駅よりタクシーにて梯郭式平山城の浜田城跡を見学。関ケ原戦後に毛利氏は中国6州から防長2国に押し込まれ石見は銀山もあり当初幕府直轄領であったが大坂の陣後古田重治が新藩主として築城した。古田は2代目で改易となり、その後譜代・親藩が治め長州藩に対する山陰側の最前線となていた。幕末の長州征伐で長州藩の大村益次郎に攻められ松平藩主は浜田城等に放火して松江に逃走し灰燼に帰した。遺構は階段状の石垣・土塁で現在は城山公園として市民の憩いの場となっており天守台からの眺望は格別であった。本丸跡で北前船寄港の1港として日本遺産に登録された外ノ浦の港を見ながら昼食をした。なお登城口に司馬遼太郎の碑文「浜田藩追懐の碑」(司馬遼太郎は大村益次郎の小説「花神」の取材のため浜田に滞在)があった。午後JR津和野駅からタクシー・リフトにて連郭式山城の津和野城跡を見学。津和野城跡は霊亀山の標高370Mにあり歴史が古く蒙古襲来後に吉見頼行氏により築城され、その後大内・毛利氏の配下になったが家康は関ケ原合戦後に千姫事件で有名な坂崎出羽守を封じた。坂崎は一代で亀井氏に代わり亀井氏にて明治を迎えた。遺構は櫓・石垣・空堀。当日はリフト下車後徒歩約10分で本丸跡に到着後、眼下の津和野町を展望。その後稜線を歩き太鼓谷稲成神社に参拝し、山陰の京都と言われるなまこ壁の殿町通りを武家屋敷・鯉の泳ぐ水路等昔を偲びながら歩いた。麓の森鴎外記念館は残念ながら休館日でした。その後新山口経由広島泊。翌朝広島駅よりタクシーにて輪郭式平城の広島城を見学。広島城は毛利輝元が上洛して大坂城・聚楽第を見学後、太田川のデルタ地帯に5層5階の天守・多数の櫓等の広大な平城を築城したが、関ケ原の功績により福島正則が入城した。福島氏は大規模な城郭整備等により短期で改易となり浅野長政が入場して浅野氏で明治を迎えた。幕末の長州征伐時は徳川慶勝総督は本営を置いたが戊辰戦争時は官軍につき城の戦災はなかった。その後軍部等に使用され天守は残り国宝に指定されていたが昭和20年8月6日原爆投下により焼失した。遺構は石垣・堀で昭和33年に大天守・櫓等が再建された。現在の天守は鉄筋コンクリート構造の外観復元天守として「歴史博物館」となっており、天守から360度の廣島市を展望した。広島平和記念資料館・原爆ドーム等と共に広島市の必見施設となっている。その後京都に途中下車後、白峯神宮・北野天満宮・平野神社に参拝後帰路に着いた。天気は良好であったが30度超えの非常に暑い2日間であった。

85盛岡城(盛岡市)・86久保田(秋田市)・(19)弘前城・87松前城(北海道松前町)
日時:2019年8月25日〜27日Yさんと盛岡・秋田・北海道松前旅行、晴れ
感想:25日午前JR盛岡駅よりタクシーにて盛岡城跡を見学。築城したのは南部信直氏で南部氏は小田原合戦に参陣して所領を安堵された鎌倉時代の御家人以来同領地を維持し明治を迎えた。幕府への遠慮から天守は築かれず御三階櫓で代用した。北上川・中津川合流地の花崗岩の丘陵地に築城された連郭式平山城であった。廃藩置県により廃城となり遺構は見事な石垣と土塁・堀で現在は岩手公園として市民の憩いの場所となっており公園内には宮沢賢治の詩碑や石川啄木の歌碑(不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心)等があった。その後見学した近くの樹齢360年の石割桜はシーズンではないが見事であった。午後JR秋田駅より徒歩で千秋公園の久保田城跡を見学した。戦国時代より水戸を本拠に常陸を席巻した佐竹氏の居城。佐竹氏は関ケ原合戦で東西いずれにも兵を出さない曖昧な態度をとり戦後秋田に追いやられた。築城した佐竹義宣は雄物川近くの独立丘陵に石垣のない土塁で3段階段状の平山城を築いた。移封による財政難と幕府への気兼ねから質素であった。戊辰戦争時には奥羽越列藩同盟に加わらず徳川家に1矢報いた。明治13年の大火により城内の建物は全焼し、遺構は土塁・堀・門・番所で本丸隅櫓と表門が復元されており、現在は千秋公園として市民の憩いの場所となっている。夕食の郷土料理比内鶏のきりたんぽと高清水の地酒は美味であった。26日午前JR弘前駅よりタクシーにて以前見学した弘前城を再度見学した。現在は石垣の補修のため現存天守は移動されていた。その後新青森駅経由で初めて北海道新幹線にて青函トンネルを通過した。木古内駅下車後函館バスに1時間半乗り津軽海峡の北岸を松前に向かった。途中福島町の横綱千代の山・千代の富士の記念館前を通過した。当日松前温泉旅館矢野での夕食は新鮮な魚介類・ちゃんちゃん焼・地酒等美味でYさんとの会話がはずみ非常に楽しかった。27日午前松前公園の250種の桜の木・寺・松前神社・松前城を見学。再建された天守から日本海・津軽海峡・竜飛岬等の絶景を見ながら江戸時代北前船や鰊で賑わった昔を偲んだ。松前藩は蝦夷地と本土との交易管理が基盤で簡単な舘であった。幕末ロシア等列強に対峙する最前線として特例として築城を命ぜられ3層の天守が築かれた。しかし戊辰戦争で土方歳三率いる幕府軍に攻略されたが翌年新政府軍が圧倒的な軍勢で旧幕府軍を打ち破った。その後天守は昭和24年火災で焼失したが昭和36年に再建された。遺構は本丸御門・御殿玄関・石垣・土塁・堀で現在は松前公園として桜の名所になっている。その後近くの道の駅を見学後城下通りで人気の松前漬等の土産を購入して帰路に着いた。


83大分城(大分市)・84中津城(中津市)
日時:2019年5月26日〜28日妻と大分・福岡旅行時に見学
感想:26日JR大分駅前で大友宗麟の立像を見てタクシーにて大分城跡(府内城)を見学。鎌倉時代以来、豊後の守護職・戦国大名として活躍した大友氏の居館であった。大友宗麟の死後、石田三成の娘婿福島直高が河口近くの府内に築城した。その後関ケ原の後、竹中半兵衛の一族竹中重利が入城し梯郭式平城を完成させた。その後2氏を経て松平忠昭が入城し明治維新まで大給松平氏が居城した。現在は大分城址公園として市民の憩いの場所となっている。遺構は西隅櫓・宗門櫓・堀・石垣で廊下橋が復元されている。27日宇佐神宮参拝後JR中津駅よりタクシーにて中津城を見学。豊臣秀吉は九州平定後、軍師黒田如水(官兵衛孝高)を中津16万石に封じ如水が河口に梯郭式平城(3大海城の一つ)築城した。関ケ原後細川忠興が京都田辺より豊前・豊後32万石で入城して完成させた。その後細川氏は小倉城から熊本城に代わり中津城は小笠原・奥平と代わり奥平氏で明治を迎えた。遺構は堀・石垣で鉄筋の模擬天守が昭和39年に再建され一般公開されている。五層の天守からの360度の展望で落着いた旧中津藩を偲んだ。当日は近くの福沢諭吉記念館を見学後博多に向かった。

82出石城(豊岡市)
日時:2019年4月22日四国88ケ寺巡礼時帰路見学
感想:22日姫路より早朝播但線・山陰線に乗りJR豊岡駅下車後バスにて出石下車し出石城跡を見学。出石城は応仁の乱で西軍を率いた山名氏の本拠であったが、戦国期2回秀吉の攻めにより落城。その後小出・松平・仙石と代わり仙石氏で明治を迎え明治の廃城令により取壊された。遺構は辰皷楼・石垣・堀で隅櫓・登城門・登城橋等復元され登城橋河川公園として整備され観光地となっている。大手門通り歩き武家屋敷・土産物・蕎麦屋等で昔の雰囲気を味わった。また当地人気の皿そばは仙石氏が信州より転封になった時の職人が普及させたようです。交通の便は良好ではないが可なりの外国人観光客がいた。

81津山城(津山市)
日時:2018年9月9日岡山墓参時の帰路見学
感想:9日JR津山線にて津山駅下車雨天のためタクシーにて中山神社参拝後、津山城跡を見学。築城者は織田信長の小姓として本能寺で信長と共に炎に包まれた森蘭丸の弟の森忠政。関ケ原の功で山陰と山陽を結ぶ中間点の津山に18万石で封じられ築城したが、4代で終わり、その後越後高田藩より松平氏が10万石で入封し9代続き明治を迎えた。吉井川とその支流を外堀として鶴山という丘陵地に梯格式平山城が築かれ往時は77棟の櫓が立ち並び5層の天守があった。明治6年の廃城令により、破却され、遺構は石垣・堀。現在は鶴山公園として桜の名所になっており、三の丸・二の丸・本丸の梯格式の石垣は見事で圧巻であった。午後因美線にて鳥取城跡の見学を予定していたが大雨のた不通となり岡山経由にて一路東京へ。

77鹿児島城(鹿児島市)・78佐伯城(佐伯市)・79臼杵城(臼杵市)・80小倉城(北九州市)
日時:2018年16〜19日妻と鹿児島・宮崎旅行中に見学
感想:17日JR鹿児島駅より城山までタクシーにて行き鹿児島城跡を見学。薩摩藩主島津氏は鎌倉時代以来の薩摩守護で鹿児島を本拠にしたのは南北朝末期以後のことで、鶴丸城とも呼ばれ関ケ原の合戦後1601年島津家久が築いた。石高77万石の島津氏は壮大な城郭を築いても不思議でないが幕府に遠慮してか、城山の山麓に天守はなく石垣で囲んだ居館のようであった。島津氏は独特の外城制で領内に小規模な城が百箇所以上あり半農半武士の郷士が、これを守り、大きな城の必要が無かったのかも知れない。明治維新を迎えて城内に私学校が設立され旧藩士の子弟が学んだ。後に新政府への不満から西郷隆盛を担いで西南戦争を起し、最後は城山で多くが自刃した。遺構としては石垣・堀・私学校跡地等で現在は城山公園となっている。当日は途中で西郷洞窟を見学後、城山展望台から煙の昇る櫻島の絶景を展望した。下山は徒歩で前日桜島爆発により灰が残る階段・坂道を下り、西郷隆盛銅像・鶴丸城跡の西南戦争時の夥しい弾痕が残る石垣を見学。NHK大河ドラマ西郷どんの年で観光客も多かった。18日夕方JR佐伯駅前よりタクシーにて城入口に行き約10分の整備された山道を上り佐伯城跡を見学。佐伯城は関ケ原後に豊後の日田から移ってきた毛利高政によって築かれた平山城。高政は元来森姓で本能寺の変の時、秀吉が大急ぎで毛利と和議を結び、その時毛利方に人質に出されたが輝元に可愛がれ毛利姓を与えられた。高政は城の東南を埋め立て城下町を形成し、その町並みが現在も特色となっている。また森林伐採を制限したため、佐伯城下の海は豊かな漁場となっている。天守は1617年に焼失し、その後再建されず毛利氏で明治を向かえ廃城令により破却され、遺構は石垣と三の丸櫓門。19日JR臼杵駅より猛暑のためタクシーで臼杵城跡を見学。以前は臼杵湾に浮かぶ島で天然の要塞であったが、現在は周囲が埋め立てられいる。この城を築いたのは戦国時代に豊後を拠点に北九州全域に勢力を伸ばした大友宗麟で、宗麟は拠点を府内(大分城)としたが、毛利元就との合戦に破れ、毛利水軍を警戒してこの城を築いた。キリスト教に改宗した宗麟のもと南蛮船が行きかい教会も造られ異国情緒の漂う城下町だった。義統が朝鮮の役で敵前逃亡の咎めを受け改易と成り、やがて関ケ原の合戦後美濃郡上八幡より稲葉家が入り15代続き維新を迎えた。明治に撤去され遺構は石垣・堀・櫓で現在は都市公園として整備されている。午後JR小倉駅よりタクシーにて復興小倉城を見学。小倉城は秀吉の家臣であった森勝信(後毛利に改姓)が築いたが、毛利勝信・勝永父子が関ケ原で西軍に付き改易となり、細川幽斎・忠興父子の関ケ原の合戦での功が認められ丹後より九州の豊前・豊後40万石を与えられ、最初黒田氏の築いた中津城を居城としたが、小倉城を改築して毛利の牽制等として五層の天守のある輪郭式平城の小倉城を整備した。当時佐々木小次郎・宮本武蔵の巌流島の決闘があったようです。やがて細川氏が54万石で肥後に去って後、譜代の小笠原氏が播磨明石から15万石で入り、関門海峡と毛利を監視し幕末まで続いた。しかし幕末長州に攻められ自ら城に火を放って逃亡し維新は長州に占領されたまま迎えた。明治には陸軍師団庁舎が建てられていたが、昭和34年鉄筋コンクリート構造で天守が復興された。主要遺構は石垣・堀で現在天守閣広場は桜の名所として観光・市民の憩いの場になっている。

76徳島城(徳島市)
日時:2018年4月21日、四国88ケ寺参拝時帰路見学
感想:早朝JR徳島駅の北にある徳島城跡を散歩した。戦国時代は阿波の地は群雄が割拠していたが、1582年土佐の国長宗我部元親が平定した。1585年秀吉の四国征伐に勲功があった蜂須賀家政が阿波一国賜わり連郭式平山城を築城した。以後江戸時代を通じて徳島藩蜂須賀氏25万石の居城となり明治を迎えた。明治6年の廃城令により取壊され一部が現徳島中央公園となっている。遺構は石垣・堀。秀吉は水軍を重視し瀬戸内の水軍を押えている毛利を意識して四国や紀伊半島の水軍を組織したようです。そこで紀伊は弟の秀長に任せ鳴門の森水軍を蜂須賀氏の配下とした。徳島は古くは吉野川河口に浮かぶ小高い島であったが、吉野川の土砂が堆積した三角州に築城されたもの。天守は元和年間に取壊し東二の丸の御三階櫓が廃城令まで代用された。現在は正門とされていた鷲の門が復元され標高61mの城山はミニハイキングとなり本丸跡の広い頂上からは木々の間から360度の眺望ができる。又境内には蜂須賀家政の銅像、博物館等があり阿波踊りの練習にも利用され市民の憩いの場になっている。

71七尾城(七尾市)・(6)金沢城・丸岡城(坂井市)・72福井城(福井市)・73一乗谷館(福井市)・74岩村城(恵那市)・75岐阜城(岐阜市)
日時:2017年10月9〜12日、山の友人Yさんと能登・加賀・越前・美濃の国の城廻
感想:9日JR七尾駅よりタクシーにて七尾城跡へ。七尾は古代から能登の中心で七つの尾根を意味する急峻な山で戦国時代能登守護畠山氏が城主であった。重臣たちの暗闘に七代畠山義綱が謙信に助けを求めたが、日本五大山城とも言われる難攻不落の山城は謙信も攻めきれず重臣を篭絡して開城させた。落城前の謙信の漢詩は有名である。謙信は七尾攻め後の半年で死去した。その後信長の手に落ち本能寺・賎ケ岳の後、越中・加賀・能登の太守となった前田利家が入城し既に山城の時代でなく利家は海沿いに小丸山城を築き七尾城は1589年廃城となった。遺構は堀切・石垣・土塁で現在は標高300mの城跡から七尾湾が一望でき,二の丸・三の丸と歩いて下山すると急峻な遺構等が見学でき謙信の苦労も納得できた。帰路羽咋駅で途中下車して能登国一宮気多大社に参拝した。10日午前中1962年の学生時代以来の金沢城跡・兼六園を見学した。石川門から入城すると金沢城は石垣の博物館とも言われ城跡は金沢大学も移転され五十間長屋・菱櫓等が復元され城内も開放されて広い公園となっていた。三名園の兼六園も久し振りに散策した。午後JR丸岡駅よりタクシーで往復して丸岡城を見学した。丸岡城は現存天守12城の1城で信長が越前朝倉氏を滅ぼして以来、越前を領していた柴田勝家の甥勝豊により築かれた連郭式平山城で屋根瓦には笏谷石を使用し天守は二重三階の望楼型。勝家は秀吉に滅ぼされ丹羽長秀の領地となり、その後関ケ原以降は家康の次男結城秀康が越前に入城したが、やがて福井藩の減封により丸岡藩として独立し明治は有馬氏で迎えた。明治の廃藩置県で廃城となり天守以外は解体された。現在は霞ケ城公園として桜の名所でもあり市民のシンボルとなっている。家康の譜代で鬼作左と言われた本多作衛門が妻に宛てた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」が見本の日本一短い手紙の舘があり、このお仙が初代丸岡藩の本多成重であった。当日は宿泊の休暇村陸前三国に到着早々にレンタルサイクルにて東尋坊を見学した。翌11日午前中JR福井駅西側の柴田神社・福井城跡を見学した。信長は一乗谷の朝倉氏を滅ぼし越前は柴田勝家に任せた。勝家は山間の不便な一乗谷を捨て平野の北ノ庄に城を築いた。その後賤ケ岳の合戦で秀吉に負け妻・お市と共に自害した。北ノ庄天守台跡の柴田神社には勝家・お市の方・三姉妹の銅像があった。関ケ原の合戦後家康の次男結城秀康が68万石で入り北ノ庄城を拡張して福井城と改めた。姓も松平と改め更に歴代トラブルが続いたが明治は32万石で迎えた。遺構は天守台・堀・石垣で本丸跡には福井県庁・県警察本部があり、結城秀康の銅像があった。午後福井駅東口よりバスにて復元街並に行き一乗谷朝倉舘遺跡を見学した。応仁の乱以後越前守護になった朝倉孝景より5代130年にわたって一乗谷を拠点とした。家臣や町人が多数住み京からも足利義昭が逃れ、越前の中心として栄えた。しかし信長に姉川の合戦で破れ衰亡し、この地は見捨てられ越前の中心は福井に移った。田畑の下に埋もれた遺跡が400年後昭和42年から発掘調査が行われ堀に囲まれた朝倉氏館跡、庭園等が発掘され武家屋敷や町人街等が復元されている。当日は観光バス数台に多くの自家用車が駐車しており永平寺等と並び福井の観光地となっていた。翌日JR恵那駅より明知鉄道に乗換え岩村駅下車後タクシーにて日本三大山城の一つで最も高い標高717mの岩村城跡を見学した。この城は鎌倉時代初期に築かれ東美濃の拠点となり戦国時代は武田・織田の争奪戦となった。城主遠山氏に嫁いだ信長の叔母おつやの方は夫亡き後、幼少の城主(信長の五男)を擁して女城主として武田勢と奮闘したが、幼主の家督を条件に武田の武将秋山氏の妻になった。信長はこれに怒り長篠の戦の後、岩村城を陥落させ叔母を磔刑に処した。政務は麓で行われ城主も何度か替わり明治は松平氏で向かえ廃城令により解体されたが、遺構として見事な石垣・井戸等が残っていた。また麓の岩村は昔の面影が残る見事な町並みであった。各家には奥様の名前を入れたブルー暖簾と当地幕末の偉人佐藤一斎の「言志四録」の言葉が吊るされていた。午後JR岐阜駅よりタクシー・ロープウエイにて山城の岐阜城を見学した。岐阜の名は織田信長が天下布武を実現するため中国の故事にちなんで命名したようです。元稲葉山城といわれ美濃一国を乗っ取った斎藤道三の居城であった。その後信長は斎藤龍興を滅ぼし本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し整備改修・岐阜城と命名して安土に移転するまでこの城を本拠とした。その後嫡男信忠、本能寺の変後三男信孝、秀吉系の大名が交代し、関ケ原後家康の娘婿奥平信昌が居城を加納に移し、廃城となった。遺構は堀・石垣で、現在の鉄筋コンクリートの3層4階の復興天守が昭和31年再建され岐阜市民のシンボルとして観光客も多いようです。天守閣から濃尾平野を展望し木曽川・長良川・名古屋駅近辺の高層ビル等を遠望して道三・信長が注目した岐阜城の重要性が納得できた。


69高松城(高松)・70備中松山城(高梁市)
日時:2017年9月8-9日、墓参・中学同窓会出席時、備中松山城はKさんと見学
感想:前日高松市に宿泊して8日早朝JR高松駅東側の高松城跡・玉藻公園を見学。戦国時代、瀬戸内海は海を支配する水軍が跋扈していた。秀吉の天下になった時、西半は毛利に任せ東半を押える拠点として生駒親正に輪郭式平城の高松城を築かせた。今治城・三原城と並び三大海城とも言われ白亜の三層三階の天守は船頭歌にも「讃州さぬきの高松さんの城が見えます波の上」と歌われたようです。生駒氏は関ケ原の合戦では親子東西に分かれ巧みに生き残ったが4代54年で除かれ水戸光圀の実兄松平頼重が入り讃岐東半を領した。頼重は隠居時に栗林公園を造築したようです。松平氏は城郭を増改築をしたが明治維新後に廃城となり、現在天守台は復元され高松市立玉藻公園として市民の憩いの場所となっている。遺構は城門・櫓・堀・石垣。9日JR備中高梁駅からタクシーで中学時代の友人と登山口まで行き徒歩20分にて三大山城の一つ備中松山城を見学。高梁市北東の臥牛山に最初に築かれたのは鎌倉時代で戦国時代は争奪戦の対象となり最終的には毛利氏が支配していた。関ケ原後は備中の代官として小堀正次が派遣された。その子が茶人・作庭家でもある小堀遠州である。小堀遠州は、のちに駿府城・名古屋城・大坂城等の築城や将軍の茶の湯指南役として活躍した。備中松山城は山陰・山陽を結ぶ要衝で縄張りは連郭式山城で本丸を中心に尾根上を南北に曲輪を展開し石垣で囲まれている。天守は二層二階で標高430Mという現存天守の最高所にある。城主は目まぐるしく譜代が交代し幕末は板倉家で向かえた。その時の執政であった陽明学者山田方谷の決断で無血開城し現在備中高梁駅前に銅像がある。城は高所のため明治以降放置されていたが地元市民の熱意で修理された。昨年はNHK真田丸の影響もあり非常に多くの見学者があったようで当日も多くの方が見学をしていた。

67篠山城(篠山市)・68名古屋城(名古屋市)
日時:2017年7月6-7日、大阪出張時帰路見学
感想:6日午前中JR福知山線篠山口駅からバスに乗り二階町にて下車し篠山盆地の中央部に位置する篠山城跡を見学。篠山は山陰・山陽・畿内を結ぶ交通の要衝で関ケ原後に徳川家康が松平康重を封じ、藤堂高虎等20大名に夫役を命じて天下普請で大阪城の豊臣氏包囲網として築城させた。輪郭式の平山城で天守台は築いたが天守は築かれなかった。二の丸に建てられた大書院は二条城に匹敵する壮大な建築で、もし豊臣氏が戦わず臣従した場合は篠山城に移す説もあったようです。その後譜代が入り明治は青山家で迎え明治6年に取壊されたが大書院は残された。本丸跡には青山神社が建立されており天守台から篠山市が一望できた。遺構は堀・見事な石垣で大書院は昭和19年に焼失したが平成12年に再建され市民のシンボルとなっており、又三の丸広場では毎年デカンショ祭やABCマラソンが開催されているようです。7日午後名古屋駅より地下鉄にて市役所下車して名古屋城を見学。名古屋城は織田信長誕生の城と云われ今川氏の城を信長の父織田信秀が奪った那古野城で、その後信長が本拠を清洲城に移し廃城となっていたが徳川家康が関ケ原後に西国豊臣系大名への牽制・財力の費消等のため加藤清正・福島・前田・黒田等を動員して天下普請で徳川御三家筆頭の九男義直のために築かせた。城下の地割・町割は「清須越し」と云われ清州城から引越したようです。又伊勢音頭の「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ尾張名古屋は城でもつ」と言われ金の鯱でも有名な5層の天守をもつ梯郭式平城は見事であったようです。尾張徳川家は17代続き明治を迎えた。遺構は櫓3棟・門3棟・庭園・石垣・堀で天守は昭和20年5月の空襲により焼失したが、その後鉄筋で再建された。現在は名城公園として熱田神宮等と共に名古屋の観光地として本丸御殿等も整備されおり大勢の観光客で賑わっていた。又当日は愛知体育館で行われれる大相撲名古屋場所の準備が進んでいた。


66相馬中村城(相馬市)
日時:2017年5月29日、陸奥国一宮塩釜神社参拝時に那須在住の友人Oさんと見学
感想:JR福島駅東口より相馬行きバスに85分間乗り相馬中村城跡を見学。この城は平安初期奥州鎮撫のため坂上田村麻呂が最初に築いたとされる。その後南北時代以降中村氏が支配し戦国時代初期には相馬氏が入城した。この時期伊達氏との抗争が激しく関ケ原後本城を中村城に移転して中村藩6万石の政庁となった。17代利胤は近世城郭に改修して3層の天守を持つ梯格式の平山城を完成したが、天守は60年後焼失し、その後再建されなかった。明治も相馬氏で迎えたが戊辰戦争で政府軍の攻撃により陥落し廃藩置県により廃城となった。本丸跡には相馬神社建立されており、昔を偲び相馬市を眼下に見ながら昼食を摂った。遺構は大手門・堀・石垣で現在は馬稜公園として市民の憩いの場となっている。有名な「相馬野馬追」は相馬氏の祖である平の将門が軍事訓練として原野に放してあった野馬を捕らえ神前に奉納したことに始まるといわれ現在も7月24-25日に行われており大勢の観光客が見学をしているようです。


62丸亀城(丸亀市)・63今治城(今治市)・64三原城(三原市)・65福山城(福山市)

日時:2017年4月17日と20日、四国88ケ寺参拝時途中下車して見学
感想:17日JR丸亀駅より小雨の中徒歩10分にて現存天守のある丸亀城を見学。丸亀城は秀吉時代讃岐を領した生駒親正が高松城の支城として輪郭式平山城を築城。元和の一国一城令により廃城となるも、その後西讃岐の丸亀城に肥後富岡から山崎家治が入城。3代で改易になり播磨龍野から京極氏が入城し明治を迎えた。遺構は3重3階の天守・門・石垣・堀で本丸・二の丸・三の丸の石垣は見事であった。又小振りではあるが現存天守で昔の面影も窺えた。現在は亀山公園として市民の憩いの場となっており天守より讃岐富士・市街は見渡せたが残念ながら雨の為瀬戸大橋等は遠望できなかった。次いで途中下車してJR今治駅前の「タオルと造船の町」の看板に迎えられたが雨の為タクシーにて今治城を見学。この城は瀬戸内海の最も狭い来島海峡を通過する西国大名を牽制するため徳川家康が宇和島より転封した藤堂高虎に築城させた輪郭式平城で日本三大海城の一つ。その後高虎は伊勢津城に転封になり伊勢長島より松平氏が入城し松平氏で明治を迎えた。明治2年に廃城になり遺構は石垣・堀であるが昭和55年5層6階の天守が鉄筋コンクリートで再建された。見事な石垣を見ながら上り現在天守は展示室・展望室となっており最上階からしまなみ海道の来島海峡大橋等の眺望を期待したが雨の為残念であった。城内には藤堂高虎の騎馬像有。四国88参拝の帰路しまなみ海道を通過して20日三原城・福山城を見学。JR三原駅構内に隣接した三原城は毛利元就の三男小早川隆景が築城した。山陽道の中間に位置し瀬戸内海の水軍を支配する梯郭式平城は三大海城の一つと云われる。隆景は秀吉の中国攻めの時も毛利の代表として交渉し、その後秀吉の四国・九州平定でも活躍し秀吉の甥秀秋を養子にした。隆景死後、秀秋は関ケ原で西軍を裏切り東軍の勝利に貢献したが2年後に死去し小早川家は断絶となり三原城は広島城福島の支城となった。福島改易以降は紀伊より浅野家が広島城に入りその支城として明治を向かえ廃城となった。遺構は天守台・石垣・堀で現在は公園化されている。昔を偲びながら昼食を摂った。JR福山駅に隣接する福山城は一国一城発布後に築城された近世城郭最後の例で輪郭式平山城。家康は大阪の陣後に広島城の福島正則を改易し、その後紀州の浅野氏を入れると共に一部分割して家康の従弟である水野勝成を大和郡山から転封して丘陵を利用して5層の天守をもつ福山城を築城させた。瀬戸内海を東に向かう西国大名を監視するためと云われている。水野5代で天領・松平・阿部と変わり阿部で明治を向かえた。その後廃城令により本丸以外は売却され昭和20年8月の空襲により天守も焼失した。昭和41年福山市市制50周年記念事業で天守・月見櫓・御湯殿が再建され、二の丸には水野勝成・阿部正弘の銅像があった。現在は公園として整備され市民のシンボルとなっている。


60大和郡山城(大和郡山市)・61高取城(奈良県高取町)
日時:2016年10月19日、大阪出張時高校の同期生O氏K氏と3人でK氏の車で見学
感想:近鉄郡山駅徒歩10分の大和郡山城跡にて待合せ。大和は戦国時代土着の豪族や宗教勢力が群立していたが、筒井順慶が郡山城を築城した。本能寺の変後の山崎の合戦では洞ヶ峠で様子見をしたが、大和の国は安堵された。その後順慶の死後筒井氏は伊賀上野城に転封となり秀吉は弟秀長に紀伊・和泉・大和を与えて100万石余の大名として郡山城を築き直させた。そのとき石材不足のため近隣の大寺院等から石を切出し石垣とした。関ケ原後解体されたが、大阪の陣後復活され譜代が入城し、やがて柳沢吉保の息子吉里が入城し柳沢氏で明治を迎えたが、廃城令により破却された。遺構は石垣・堀で城跡には柳沢神社が創建されており、大手門・櫓等も再建されている。当日は天守台は工事中であった。現在は日本さくら名所100選にも選ばれ庶民の憩いの場となっていた。郡山城跡で落合った友人K氏の車で壺阪口から高取城跡に行った。高取城は日本三大山城の一つで国の史跡に指定され高取藩の藩庁であった。標高583M曲輪の連なった連郭式の山城で南北時代南朝方の越智氏が築城。その後織田信長により大和の国は郡山一城となり一時廃城となったが、大和の国を配下にした筒井順慶が支城とした。順慶の伊賀上野への転封後、大和は豊臣秀長の配下となった。秀長の重臣本多氏が入り見事な石垣の広壮な山城に整備した。その後関ケ原時には本多氏は東軍に属した功を認められ初代高取藩の藩主となったが本多氏には嗣子なく終焉し、やがて旗本の植村氏入城。幕末に天誅組の攻撃を撃退し植村氏は14代続き明治を迎えた。その後版籍奉還により廃城となり殆んどの建物は失われたが、遺構として打込みはぎの石垣や堀が残っている。この山城の見事な石垣は体感しないと写真や話ではその迫力は分からないと思われる。百聞は一見にしかず難攻不落の素晴らしい石垣の山城であった。また巨木もあり、その生命力・歴史を感じた。山頂の本丸跡での高校同期との昼食は遠足気分を味合うことができ二人に感謝。途中「壺阪霊験記」で有名な眼病平癒祈願にまつわる沢市・お里の夫婦愛の西国33ケ寺の壺阪寺もあり観光・ハイキングコース等としても人気があるようです。帰路日本三大文殊の安倍文殊院に参拝後一路東京へ。



(山頂高取城跡本丸天守台前にて高校の同期OさんKさんと)

55津城(津市)・56松阪城(松阪市)・57伊賀上野城(上野市)・58安土城(近江八幡市)・(15)彦根城・59小谷城(長浜市)
日時:2016年9月25〜27日、三重・滋賀県城廻,山の友人Yさんと2人
日程:東京8:03=10:09名古屋10:37=11:30津(津城・昼食)津新町12:50=13:07松阪(松阪城・本居宣長記念館)14:40=伊勢中川=伊賀神戸16:14=17:00上野市(泊・伊賀上野城・伊賀流忍者博物館・芭蕉翁記念館)11:09伊賀上野11:19=11:36柘植12:01=12:45草津13:00=13:19安土(安土城)=15:50彦根(泊・彦根城)10:06=10:30米原11:10=11:30河毛(小谷城)14:21=14:42米原14:58=17:10東京
感想:JR津駅よりタクシーにて津城跡に到着。津城は戦国時代伊勢を統一した信長が、弟信包に築城させた。その後富田氏が入城、関ケ原では東軍に属し毛利・長宗我部軍3万相手に奮戦し落城したが、その功により加増後、四国宇和島に移った。その後に大阪城を牽制するため築城名人の藤堂高虎が入城。高虎は有事の際に伊賀上野城を、伊勢の拠点として輪郭式平城の津城の2城を確保した。明治は藤堂家で迎え廃城令により取壊された。遺構は石垣・堀で現在は藤堂高虎の騎馬像があるお城公園とお城西公園として市民の憩いの場所となっている。松阪城は松阪駅徒歩15分程度で戦国時代織田信長の伊勢平定合戦の功により蒲生氏郷が伊勢に封じられ築城した。その後小田原合戦の功により60万石で会津に移る。これは氏郷の才を恐れた秀吉が追いやったとも伊達牽制のためとも言われているようです。その後譜代が入り、やがて南伊勢は紀州徳川家の領地となり城代を置いて存続し明治の廃城令により取壊された。梯郭式平山城で遺構は天守台・本丸・二の丸・野面積み石垣等で城跡も広く天守台からの展望も絶景であった。現在は城址公園となっており本居宣長記念館等もあり、松阪牛等と共に松阪の観光地となっている。翌日近鉄上野市駅近くの伊賀上野城を見学。伊賀上野城は織田信長が伊賀を平定した際に家臣滝川氏により最初に築かれ、その後大和の筒井氏が移されて整備されたが、本格的な築城は関ケ原後に大阪城の包囲網として織田・豊臣・徳川に仕えた藤堂高虎により築城中に大阪の陣で豊臣家が滅亡し、この城の戦略的な意味が失われた。以後一国一城令などもあり、そのまま城代が置かれ、この城は未完成となった。藤堂家は津城を藩庁として幕末まで続いたが、鳥羽伏見の戦いでは徳川に弓を引き変わり身の早さを見せたが明治の廃城令により取壊された。城は梯郭式平山城で遺構は日本一の高石垣・堀で昭和10年に模擬天守として再建されている。木造での再建は昔の雰囲気も窺われ天守からの眺めも絶景で魅力的であった。現在は上野公園として芭蕉翁記念館・伊賀流忍者博物館等と共に観光地となっている。その後伊賀上野・柘植・草津経由にてJR安土駅に下車して安土城跡を見学。広い石段の大手道を上り始め左右の羽柴秀吉・前田利家屋敷跡等を通過して更に何度も曲がりながら上り、二の丸の信長公本廟に参拝。その後本丸跡から天主台に上り琵琶湖を見ながら遅い昼食をした。下山はハ見寺本堂跡・三重塔・二王門を下った。織田信長が築いた平山城の安土城は日本の城郭史上特異な城だったようで要塞・実用性よりも権威・装飾性等を重視したようで寺院建築・吹き抜け・壁の装飾・直線の石段大手道等があり天下布武の気概を示しているようです。本能寺の変後、明智光秀の娘婿が入ったが、山崎の合戦後に信長の次男信雄が入った。信雄は明智の残党を掃討するために火を放ったが、これが城に燃え移って炎上したともいわれているようです。その後廃城となり埋もれていたが平成元年より発掘調査と整備が行われ、次第に明らかになりつつある。以前映画「火天の城」を鑑賞したが、その時の広い直線の大手道・天主の心柱礎石等を見学して、流石信長の城は凄いと感動した。翌日2度目の国宝彦根城を見学後JR河毛駅より戦国五大山城の一城と言われる小谷城跡を見学。河毛駅前で浅井長政・お市の方の銅像を見学後タクシーにて中腹の番所跡で下車。ここからは石段ではなく整備された登山道で御茶屋跡・御馬屋跡・大広間跡等を通過して本丸跡に到着。兵どもの夢の跡を懐古しながら昼食。その後大堀切・京極丸跡・山王丸跡まで行き全山浅井3代の要塞に感動した。この要塞を攻め落とした信長の戦力も凄かったようです。浅井は亮政・久政・長政の3代で滅びたが三女のお江が徳川秀忠に嫁ぎ浅井の血筋が続き戦国のロマンを感じるようです。一方織田信長は美濃斎藤氏を挟撃するため浅井氏に同盟を求め妹お市を娶らせた。信長はまたたくまに畿内を支配して北陸に手を伸ばした。そこには浅井氏の盟友朝倉氏がおり長政が迷った末信義を重んじ朝倉氏に加勢した。しかし信長の勢いには勝てず姉川の合戦で大敗をした。その後時代を動かす茶々等三人娘の落城秘話は現代に至るまで語り継がれてきた。小谷城に入った秀吉は小谷城の建築・資材を移し長浜城を築城した。遺構は堀・石垣・土塁等で、現在はハキングコースとして人気があるようです。

53田辺城(舞鶴市)・54福知山城(福知山市)・(2)姫路城・(3)大阪城
日時:2016年7月24〜26日
日程:妻と夏休み天橋立・姫路城等旅行中に途中下車をして見学
感想:天橋立に行く途中西舞鶴駅で下車して徒歩4分の田辺城跡を見学。田辺城は平城で信長の命で丹後を平定した細川氏によって築かれた。細川氏は足利将軍家に仕えていた家柄で藤孝(幽斎)は朝廷の有職故実等に熟達し明智光秀とともに足利義昭と織田信長を結びつける役割を果たし丹後一国を与えられ宮津を本城とした。嫡子忠興の妻は光秀の娘ガラシャであるが本能寺の変では光秀に味方をせず秀吉に忠誠を誓った。その後自らの隠居城として田辺城を築いた。関ケ原の合戦では東軍に属し忠興が主力を率いて家康側に行き藤孝は僅か500の兵で西軍15,000の兵を向かえ50日間籠城をした。西軍は関ケ原に間に合わず、その貢献で豊前39万石として移った。その後京極高知が入り京極3代の後、牧野氏が入り明治を迎えた。現在は田辺城跡公園として市民の憩いの場となっており遺構は石垣で二層櫓が再建されている。翌日天橋立から姫路に行く途中福知山駅で下車して福知山城を見学した。この城は連郭式平山城で明智光秀が築いた。畿内を押さえた織田信長は、秀吉と光秀に中国攻めを命じた。山陽道から進軍した秀吉に対して光秀は山陰道側から入った。光秀は横山氏を攻略して丹波一国を平定し信長から丹波を与えられ亀山城から新たな居城として福知山城を築いた。築城開始3年後、安土城での徳川家康接待に失態をおかし秀吉の加勢を命じられ突如方向を変えて本能寺の信長を襲った。光秀はこの城に帰ることなく関ケ原の合戦後に入った有馬氏が完成をさせた。その後変遷があり明治は朽木氏で迎えた。遺構は曲輪・石垣等で三層三階の天守と二層二階の小天守が昭和61年に復元されいる。現在は福知山城公園として整備され東から西に流れる由良川、城周辺の多数の桜等素晴らしい眺めで福知山市のシンボルとなっている。その後世界遺産で平成の大修理を行った姫路城と鉄筋で復元されて5Fまでエレベータで上れる大阪城天守閣より市内を一望した。両城とも外国人の観光客が非常に多かった。

49岡豊城(南国市)(7)高知城(高知市)・50宇和島城(宇和島市)・51大洲城(大洲市)・52松山城(松山市)

日時:2016年4月13〜16日
日程:四国88ケ所巡り(第35〜43番札所)の前後に見学

感想:久し振りに瀬戸大橋を渡り土讃線の景勝地大歩危・小歩危を車窓より眺め、やがて土佐の国に入り後免駅にて下車。雨の為タクシーにて岡豊城跡に行った。岡豊城は標高97mの岡豊山にあり戦国時代に四国の覇者となった長宗我部氏の連郭式山城であった。戦国時代末期に廃城となり現在は岡豊山歴史公園として石垣・曲輪・土塁・空堀等が残り国の史跡として整備されていた。鎌倉時代初期に長宗我部氏が信濃より土佐に移住し戦国時代に元親が土佐を平定し、更に1585年四国を統一した。しかし羽柴秀吉の侵攻により土佐一国に押し込められた。その後本拠を高知城に移したが、治水の悪さのため浦戸城を築き岡豊城を廃城にした。麓の高知県立民俗資料館は素晴らしかった。帰路地元の親切な方にJR土佐一宮駅まで車で送っていただいた。翌早朝関ケ原後に土佐は山内家となり現存天守のある高知城を見学した。2度目で板垣退助像に加え追手門前の山内一豊の騎馬像と杉の段の千代と馬の像が建立されていた。素晴らしい石垣・門等を見ながら三の丸から二の丸に上がり高知市街を展望した。天守拝観は9時からのため見学せず、急いで路面電車等を見ながら四国88ケ所ツアー待合せの高知駅に向かった。15日43番札所参拝後JR卯之町駅でツアー解散となり宇和島に向かった。JR宇和島駅前で闘牛の像を見学後タクシーで宇和島城に到着。宇和島城は築城の第一人者と言われた藤堂高虎によって築かれた不等辺五角形の縄張りの梯郭式平山城である。高虎が今治城に転封となり大坂の陣後に伊達政宗の長男秀宗が10万石で入城し伊達家が明治まで続いた。明治以降は大半の建物が撤去され天守・門・石垣が現存する。三層三階の天守は市街からもよく見え、今も宇和島のシンボルとして親しまれているようです。16日早朝宇和島駅を出発し伊予大洲駅にて下車。駅よりタクシーにて大洲城に到着。若い頃に大洲にいた中江藤樹の銅像を見学して天守閣に上った。大洲城は梯郭式平山城で伊予を南北に繋ぐ大洲街道・宇和島街道に、東は土佐に出る街道,西は外港とも言われる八幡浜がある交通の要衝に鎌倉末期に守護代宇都宮豊房により築かれた。その後戦国時代に長宗我部・毛利等に変わり1595年藤堂高虎が入城し城郭として整備した。その後洲本から脇坂安治、米子から加藤氏が入城し加藤氏で明治を迎えた。維新後は殆んど破却され現在の天守は平成16年伝統工法で4重4層にて再建され、遺構の櫓・石垣・堀等共に大洲市のシンボルとなっている。掛川城等と共に木造で再建された天守閣は素晴らく、木造での再建を検討している名古屋城等関係者が見学に訪れるようです。その後肘川を渡り徒歩にて駅に帰り松山に向かった。松山駅前で「春や昔15万石の城下哉」の子規の句碑を見学してタクシーでロープウエイ山麓駅に行きリフトで松山城に到着。現存天守のある山城を築いたのは賎ケ岳七本槍の一人加藤嘉明である。関ケ原では東軍に属して活躍し標高132mの勝山に連立式平山城を築いた。その後加藤氏は会津に転封となり蒲生氏郷の孫が入城したが、短期で断絶となり松平氏が入城し15万石で明治を迎える。当初の天守5層であったが、焼失して現在の3層の天守は江戸末期に再建されたようです。松山城は姫路城と並び連立式で大小天守・櫓・石垣・門等が多く残り一部再建もされ、天守閣からの眺めは見事であった。帰りは二の丸を経由して路面電車等を見ながら松山駅へ歩いた。今回は四国88ケ寺巡りと高知・愛媛の城廻を堪能することができた。

45龍野城(たつの市)・46赤穂城(赤穂市)・47明石城(明石市)・48和歌山城(和歌山市)
日時:2016年3月8〜10日、岡山墓参・中学ミニ同期会参加後見学
程:東京=岡山=長船(墓参)香登=岡山(泊)=本竜野(龍野城)=播州赤穂(大石神社・赤穂城・泊)=明石(明石城)=大阪=和歌山(和歌山城・日前神宮)=鳳(大鳥大社)=新大阪=東京
感想:龍野は「播磨の小京都」と呼ばれる閑静な城下町で姫新線本竜野駅前の「童謡赤とんぼのふる里」(三木露風の出身地)銅像を見学して、日本三大そうめん「揖保乃糸」を育んだ清流揖保川を渡り、再建された立派な龍野城本丸御殿を見学した。龍野城は戦国初期の守護大名赤松村秀により鶏籠山に築かれた山城で赤松4代後、豊臣秀吉により落城し姫路に入った秀吉の支城として蜂須賀・福島・木下等めまぐるしく城主が変わった。関ケ原後姫路に入った池田・本多の支城扱後、小笠原・岡部・京極と続き京極が丸亀に移封され廃城になった。その後信濃飯田から脇坂安政が5万3千石で入り山麓に居館を再建した。脇坂10代200年続き明治を向かえ廃城となった。遺構は石垣で御殿・櫓・門塀が再建されている。赤穂は義士一色でJR播州赤穂駅前の大石内蔵助の銅像を見学後、整備された道路脇の義士のモニュメント等を見ながら大石神社に到着。大石神社の参道の47士の銅像・宝物館等は見事で、平日にも拘わらず多くの観光客が参拝していた。赤穂城は関ケ原の合戦後は姫路城を居城とした池田輝政の三男が封じられ支藩となったが、その後継となる輝興が発狂して改易。備中松山藩主水谷勝隆預かりとなったが、常陸笠間にいた浅野長直が5万3千石で入城し新城を築いた。山鹿素行の助言もあり変形輪郭式の平城で幕府に遠慮してか財政のためか天守は造営されなかったようです。元禄14年3代長矩の吉良義央に対する刃傷事件で改易となり、播磨龍野藩主脇坂安照の預かりとなったが、やがて永井氏入封後、森長直が入り森氏で明治を迎えた。その後廃城令により取壊され遺構は石垣・堀で、現在は国の史跡に指定され本丸庭園・二の丸庭園は名勝に指定されている。また12月14日に開催されている赤穂義士際には大石神社と共に多くの観光客で賑わうようです。JR明石駅の北側の明石城は関ケ原の合戦後、姫路と大阪の大藩の間に姫路城主本多忠政の娘婿で小笠原忠真が築城した。縄張りは連郭式の平山城。小堀遠州が作庭に宮本武蔵が町割りに協力したようです。山陽道にある明石は北には丹波の国・但馬の国への道に分かれ、淡路島・四国のルートがあり、古来より交通の要衝であった。城主は度々変わり越前家の松平が6万石で入城し松平氏で維新を迎えた。天守は築かれず、遺構は櫓・石垣・堀で現在新幹線から見えるのは坤櫓のようで、県立明石公園として整備され市民の憩いの場となっていた。「百聞は一見に如かず」で思っていたより立派な石垣・城跡で広々としていた。近くには東経135度の子午線が通る「明石市立天文科学館」がある。JR和歌山駅西方徒歩約30分にある和歌山城は流石に徳川家御三家として立派な城であった。紀州雑賀衆等を平定した秀吉が弟秀長に命じ虎伏山の峰に創建したのが和歌山城。関ケ原の戦いの後、浅野幸長が37万6千石の領主となり大規模な増築を行い城下町を整備した。1619年家康10男頼宣が55万5千石で入国し御三家紀州藩が成立した。紀州徳川家は「南海の鎮」として西日本を監視する役割を担い八大将軍吉宗・十四代将軍家茂を輩出した。明治4年に廃藩置県により陸軍省の管轄に成り明治34年に和歌山公園として一般公開された。天守は1945年の空襲により焼失したが、昭和33年鉄筋コンクリートで再建され、遺構の立派な石垣・城門・堀と共に見事な城となっていた。


40米沢城(米沢市)・41山形城(山形市)・42鶴岡城(鶴岡市)・43新発田城(新発田市)・44春日山城(上越市)
日時:2015年11月23〜25日、忘年山形・新潟城廻旅行、Yさんと2人
日程:東京7:12〜9:24米沢(米沢城跡・上杉神社・稽照殿・昼食)13:07〜14:26山形(山形城跡・最上義光歴史記念館)15:46〜17:04新庄(泊)8:12〜余目9:03〜9:13鶴岡(鶴岡城跡・致道館)11:06〜12:34新発田(新発田城跡・昼食)14:57〜新潟16:00〜吉田16:51〜16:57弥彦(弥彦温泉泊・弥彦神社)8:20〜吉田8:39〜柏崎10:28〜直江津11:11〜11:16春日山(春日山城跡・春日山神社・昼食)14:38〜上越妙高14:37〜16:28東京

感想:共に日本百名山を踏破し一緒に甲州街道を歩いたYさんと忘年山形・新潟城廻旅行をした。米沢城は戦国期に伊達政宗の祖父晴宗以降3代にわたって居住し会津方面に勢力を拡大したが、小田原合戦への参加が遅れ秀吉の顰蹙を買い会津は蒲生氏郷の領地となった。一方上杉景勝は石高の過少申告等で越後より120万石で会津に転封となり米沢には重臣直江兼続を入れた。更に関ケ原の合戦で家康に反旗を翻し米沢30万石に減らされた。その後継嗣問題で5代綱憲(吉良上野介の息子)の時代に15万石に減らされ困窮し、のちに名君10代上杉鷹山「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」を出し明治維新まで上杉氏の居城となった。明治6年にすべて破却された。天守は構えず2基3階櫓で代用し遺構は土塁・堀で現在は松が岬公園として市民の憩いの場となっている。今回は公園内の謙信公を祀る上杉神社と松岬神社に参拝した。松岬神社に祀られいる鷹山公を米国大統領ジョンFケネディが政治家として尊敬していたと説明があった。次に出羽山形は戦国時代最上・伊達氏に二分されていたが、伊達氏が太平洋側に去り最上義光が山形城57万石の大大名となり拡大・修築を行った。しかし息子の代に内紛を起し近江に1万石で改易となり以後山形・新庄・庄内と分け代々譜代大名が送り込まれ5万石の水野氏で明治を迎えた。明治になり陸軍駐屯地となり城内の櫓・御殿等は破却された。遺構は石垣・堀・移築門で現在は霞城公園として市民の憩いの場となっている。さすが57万石の城で城郭は広く立派な石垣等が昔の面影を残していた。最上義光騎馬像を見学後、近くの最上義光歴史記念館を見学して新庄に向かった。鶴岡城は庄内藩の藩庁で元は大宝寺城といい南北朝時代に武藤氏が築城。その後上杉と最上の争奪となったが、上杉景勝の領地となり在番が置かれ修築したが、関ケ原後に東軍に組した最上義光の隠居城となった。その後最上氏はお家騒動による改易となり信濃の国松代より譜代大名酒井忠勝が入り大改修を行った。9代忠徳は藩校「致道館」を設けた。明治維新は奥州越列藩同盟として徹底抗戦をし廃藩置県により廃城となった。本丸跡に藩祖酒井忠勝を祀る荘内神社が設けられ、また藩校致道館は国の史跡に指定された。遺構は土塁・石垣・堀・藩校・庭園で現在は「鶴岡公園」として市民の憩いの場・桜の名所等となっている。なお作家藤沢周平(藤沢周平記念館有)は鶴岡出身で、その時代小説に登場する「海坂藩」はこの庄内藩を指すようです。致道館を見学後新発田に向かった。新発田城は新発田藩の藩庁で築城時期は不明であるが、地元の土豪新発田氏の居城であったと云われている。その後上杉景勝に滅ぼされたが、上杉が会津に転封となり堀秀治が越後を領し、その与力大名として溝口秀勝が6万石で入封し再構築した。明治維新まで溝口氏が続き廃城令により一部を残し破却された。その後陸軍歩兵連隊が置かれ、後に三階櫓と辰巳櫓等が復元された。現在は城郭の大部分は陸上自衛隊新発田駐屯地となっており一部は新発田城址公園となり市民の憩いの場となっている。なお城跡には初代藩主の溝口秀勝と堀部安兵衛の銅像がある。この堀部は父が辰巳櫓焼失の責任をとり浪人となり「高田の馬場の決闘」で名を上げた中山安兵衛で、その後赤穂藩士堀部家の養子となった赤穂浪士の堀部安兵衛である。当日は弥彦温泉に宿泊。翌早朝由緒ある越後国一宮弥彦神社に参拝後、春日山城へ向かった。春日山城は上杉謙信の前姓長尾氏の居城として南北朝時代から利用され次第に拡張され謙信時代に天然の難攻不落の要害・巨大山城として整備された。謙信は毎年のように関東・信濃・能登等に出陣し天下統一等の野望は無く「義」のために戦い続けた。留守中の後顧の憂いをなくす為、堅固な城を必要とした。上杉が会津に転封の後に入った堀氏は他に城を築き、その後に高田に家康の6男松平忠輝が新城を築きこの地域の中心が高田に移った。城跡には明治34年上杉謙信を祀る春日山神社が創建され、昭和44年に上杉謙信公銅像ができた。遺構は土塁・空堀で謙信がよく籠った毘沙門堂が再建されている。標高180mの春日山からの越後平野の展望は絶景で、良いハイキングコースとなっていた。今回は上杉謙信と赤穂義士に関係が深い城廻になったようです。

39水戸城(水戸市)
日時:2015年10月27日、晴れ、Yさんと2人
日程:日本遺産弘道館・千波湖・偕楽園・好文亭等水戸市散策

感想:水戸城は戦国時代に江戸氏が居城したが、小田原合戦後秀吉に味方した常陸の佐竹氏が入城して水戸城を整備した。しかし関ケ原合戦で佐竹氏はあいまいな態度をとったため出羽に移封され家康の11男頼房が入城し徳川御三家の一つとなった。紀州・尾張家が将軍の継嗣が絶えた時の備えであったが、水戸は将軍の補佐を任とし2代黄門の光圀は「天下の副将軍」ともいわれた。9代斉昭は日本遺産になった藩校弘道館と日本三名園の偕楽園を開いた。水戸城は当初より天守は無く三階櫓であったが昭和20年の空襲で焼失した。遺構は薬医門・藩校・土塁・空堀で現在は水戸高・茨城大學の付属校等になっており昔の面影はなかった。当日三の丸跡の弘道館で曝書・曝涼が行われおり蔵書・版木等の見学もでき素晴らしい説明を聞くことができた。午後から千波湖を一周し偕楽園の好文亭よりの展望は見事であった。

37淀城(京都市)・38伏見城(京都市)
日時:2015年10月5日、晴れ、単独
日程:旧中山道ウオーキング終了後見学
感想:淀城は宇治川・桂川の合流付近で豊臣秀吉が側室茶々の産所として築かせた淀城は少し北にあり秀次が謀反の疑いを掛けられた際に廃城になった。その後江戸幕府が現在の位置に松平定綱に築かせ譜代稲葉氏で幕末を迎えたが明治に廃城になった。なお天守は江戸中期に落雷で焼失して再建されなかった。遺構は天守台・石垣・堀等で現在は京阪淀駅の近くで京都競馬場の反対側にあり淀城公園として市民の憩いの場となっている。伏見城は平山城で大坂と京都を結ぶ要衝の地で3度に渡り築城された。最初は秀吉は甥の秀次に関白を譲り隠居城として築くも大地震により崩壊した。直ちに再建したが1年後にこの城で没した。その後秀頼が大坂城に入り家康が伏見城に入ったが、会津征伐のため鳥居元忠に託したが、三成牽きうる西軍に攻められ炎上落城した。関ケ原後再度家康が築城したが、大坂の陣が終わると駿府城に移り、伏見城は廃城にして桃の木を植えたようです。部材は二条城・淀城・福山城等に移築され、跡に桃の木を植えたようで、これが桃山と云われるようになったようです。現在は明治天皇・昭憲皇太后の御陵が築かれ伏見桃山運動公園となっており、京阪・近鉄の丹波橋駅より坂を上り約20分。遺構は石垣・堀で大天守・小天守が昭和39年再建されているが耐震基準に問題あるとかで現在は内部非公開となっていた。

36上田城(上田市)
日時:2015年8月10日、晴れ、妻と2人
日程:信州旅行中に見学
感想:上田城は甲斐武田氏の旧臣である真田昌幸により築城された平城。真田昌幸と信之・幸村父子により2度にわたり徳川軍の大軍を撃退した名城。1度目は徳川家康が北条氏と提携しようとして真田氏父祖伝来の上州沼田を北条氏に引き渡すよう命じられ、それを拒否して幸村を人質に上杉景勝に送り臣従し徳川軍約7000人の大軍を守勢2000人で退けた。2度目の1600年の関ケ原合戦で昌幸・幸村は西軍に属し中山道から関ケ原に向かう秀忠率いる約3万の大軍と対峙して守り、このため秀忠軍は関ケ原の戦いに間に合わなかった。のち真田父子は高野山に幽閉されたが幸村は脱出し大坂の陣で活躍した。昌幸は生き残り策として長子信之を東軍に送り関ケ原後信之は上田城に居住したが、やがて松代に移封になった。現在は上田城跡公園として櫓・石垣・土塁等が遺構として残り花見の季節には多くの観光客で賑わう。真田氏の上田城居住は約40年であったが現在でもシンボルの六文銭真田氏を誇りとしている。また2016年NHK大河ドラマ「真田丸」が確定しており、更に脚光が浴びると思われる。当日は真田神社へ参拝後南北櫓・市立博物館を見学したが大勢の観光客で賑わっていた。

35岡崎城(岡崎市)
日時:2015年6月29日、曇り、単独
日程:旧東海道ウオーキング中に見学
感想:岡崎城は15世紀前半守護代西郷頼嗣によって築城され、その後1531年松平清康(家康の祖父)が現在の地に拡張整備した。1542年家康はここ岡崎城で誕生し6歳で織田信秀(信長の父)・8歳で今川義元の人質となり、1560年に桶狭間の合戦で今川義元が戦死して以来岡崎城を拠点に天下統一への基礎を固めた。1570年本拠を浜松に移し嫡男信康を岡崎城主とした。1579年信康自刃後重臣を城代としたが、1590年家康の関東移封により秀吉は家臣田中吉政を城主とした。その後家康が江戸幕府を開いてからは本多・水野・松平等譜代大名が城主となり本多氏で明治を迎えたが、廃城令により天守以下の建物が撤去された。1959年鉄筋コンクリート造で天守が再建されおり遺構は石垣・堀で現在は桜の名所ともなっており境内には家康の銅像もあり3階の天守からは岡崎市街が一望でき岡崎公園として市民の憩いの場となっている。

34浜松城(浜松市
日時:2015年6月10日、晴れ、単独
日程:旧東海道ウオーキング中に見学
感想:浜松城は今川氏を滅ぼして三河・遠江の領主となった徳川家康が、居城の岡崎城を長男信康に譲り浜松に築城した。家康は29歳から45歳までの17年在城し拡張・改修した。その後本拠を駿府に移したが、その間三方ケ原の合戦で武田軍に生涯最大の敗北を喫した。家康以後秀吉は家臣の堀尾吉晴を置いたが、関ケ原の合戦後出雲に移封となり、その後譜代大名が入り天保の改革の水野忠邦等が幕府の要職となりこの城は出世城ともいわれた。明治維新後に廃城となり城址は浜松城公園となった。1958年鉄筋コンクリートで復興天守が再建された。遺構は石垣・堀で石垣は野面積みといわれる不整形の自然石で、近くの天竜川から流されてきた石等が使用されたようです。また城址には若かりし家康の立像があり市民の憩いの公園となっている。

33唐沢山城(佐野市)
日時:2015年5月26日、晴れ真夏日、Yさんと2人
日程:東武佐野線田沼駅9:30ー11:00唐沢山神社(唐沢山城本丸跡・昼食)・天狗岩ー12:30東武田沼駅
感想:唐沢山城の説明板の一部「唐沢山城は佐野市の北、高さ240mの山全体をいい往時の広さ550町歩と言われ周囲を急崖にかこまれ眺望は関東平野を一望に遠く北より日光連山、西に群馬連山・秩父・南アルプス・秀峰富士、東に筑波と、まことに自然の要塞である。当社御祭神藤原秀郷公により1千年前の延長年間築城とされ、公はこの城を中心に天慶の乱を鎮定した。その後700年間多少の変遷はあったが、公の子孫佐野家代々の居城として現在の形を整えたとされている。江戸初期、山城禁止令により佐野市の坂山公園の地に城換えとなって、唐沢山城の歴史が終わるが、明治になり唐沢山神社が建てられると全山境内地になり県立自然公園に指定された。」ここの現地を踏み遺構の石垣・堀や断崖を見学して上杉謙信が10度攻めたが落城せず、また天狗岩に登った眺望は江戸城の火災にいち早くはせ参じた話も納得ができた。

32大垣城
(大垣市)
日時:2015年5月12日、曇り、早朝単独
日程:旧中山道ウオーキング中美江寺宿より大垣駅前に宿泊して早朝に見学
感想:大垣城の10km程度西に関ケ原があり、壬申の乱・関ケ原の合戦と2度にわたって東西分け目の合戦があり、大垣城は戦略上の要地であった。秀吉は家康に備えるため池田恒興・豊臣秀長等重臣を置き、石田三成はこの城を本陣としたが、家康がこの城を通り越し関ケ原近くに陣取ったため、三成も城を出て関ケ原に陣取った。その後短期で城主が変わったが譜代の戸田氏で明治維新を迎えた。天守は昭和20年大垣空襲で焼失し昭和34年復元された。遺構は石垣程度で、現在は大垣公園として市民の憩いの場となっているが、3層3階の平城で天守台からの眺望は望めなかった。

31八王子城(八王子市)

日時:2015年5月2日、晴れ、Yさんと2人
日程:JR高尾駅北口9:30ー八王子城跡入口ー北条氏照墓ーガイダンス施設ー管理等棟ー12:00本丸跡・各曲輪(昼食)ー管理棟ー御主殿跡ー(会食)JR高尾駅
感想:八王子城は関東屈指の山城で小田原に本拠をおいた北条氏の三代目氏康の三男北条氏照の築城。豊臣秀吉の関東制圧の一環で1590年6月23日前田利家・上杉景勝等の大軍に攻められ半日で落城。その後小田原城は開城し北条氏は滅亡した。この時小田原に籠城中の氏照は兄氏政と共に城下で切腹した。JR高尾駅北口から山頂460m本丸跡まで徒歩約2時間。途中松木曲輪を守備した中山勘解由家範の子孫が建てた北条氏照及び家臣お墓を参拝して「ガイダンス施設」で小休止。この施設は展示・パンフレット・休憩スペース・駐車場等が八王子市によって完備されていた。管理棟にはボランテイアガイドがおり、案内標識等も整備されていた。管理棟から山側を登り、小宮曲輪・八王子神社・本丸跡を見学後松木曲輪で昼食。ここから八王子・新宿等の眺望は良好であった。下りは金子曲輪を通過して、御主殿跡・自刃で血に染まったといわれる悲しい滝・曳橋跡等を見学した。近くには人気の高尾山があるが、歴史愛好者にはこの八王子城跡の見学は健康ハイキングコースとしても非常によいようです。


30掛川城(掛川市)
日時:2015年4月23日、晴れ、単独
日程:旧東海道ウオーキング中掛川宿にて見学・昼食
感想:掛川城は駿河の守護大名今川氏が家臣に命じて築城させたのがはじまりで、戦国時代には関東移封の家康の押さえとして秀吉が律儀な山内を配属。山内一豊はその後土佐の大名となるが、掛川に10年間在城し、城郭等を整備した。関ケ原以降は東海道の要地として譜代・親藩の大名が入り最後は太田道灌の子孫太田氏が明治維新を迎えたようです。現在の掛川城は平成6年「東海の名城」として3層の日本初の「本格木造天守閣」として復元されたもので、天守閣からは掛川市が一望でき、往時の思いを偲ぶことができるようです。


29駿府城(静岡市)
日時:2015年1月14日、晴れ、単独
日程:旧東海道ウオーキング中府中宿にて見学
感想:駿府城は室町時代駿河の国の守護大名となった今川氏の居城で家康は19歳までの12年間人質として駿府で過ごした。その後本能寺以降は家康の居城としたが、秀吉の小田原合戦以降関東移封となり、一時離れたが将軍職を秀忠に譲り、大御所として駿府城を3度目の居城とした。家康の死後は城代が置かれ幕府の直轄領として西への備えとしたようです。明治2年に廃城となり現在の遺構は石垣と堀のみで、櫓と門が復元されており、駿府城公園として境内には家康の鷹狩の立像等があり、市民の憩いの場となっていた。


28高島城(諏訪市)
日時:2014年12月7日、晴れ、Yさんと2人
日程:旧甲州街道ウオーキング中上諏訪宿から下諏訪宿への途中見学
感想:高島城は諏訪湖に突き出した「諏訪の浮城」といわれたようですが、その後干拓が行われ水田ができたが諏訪湖からは離れたようです。この一帯は古くから諏訪神社神官の直系の諏訪氏が領していたようですが高島城を築いたのは小田原合戦後に豊臣の家臣日根野高吉で、その後関ケ原後の日野根氏の転封により譜代の諏訪氏になり明治維新まで続いたようです。現在の遺構は石垣・堀・門で、天守・櫓・門が復元され高島公園として市民の憩いの場となっていた。


27甲府城(甲府市)
日時:2014年11月22日、晴れ、Yさんと2人
日程:旧甲州街道ウオーキング中甲府宿にて見学
感想:甲府城は別名舞鶴城といわれるが、武田信玄は約3km程度離れた躑躅ケ崎館に居住していた。武田家滅亡後甲斐は織田信長領になり、本能寺の変以後家康領となったが、家康が築城中に関東移封となり秀吉の家臣が完成させた。関ケ原後は江戸の西を守る拠点として親藩の城となった。その後天領となり勤番を置いた。享保12年の火災で失われ復興されないまま明治を迎えた。現在の遺構は石垣と堀で、櫓と門が復元されており、舞鶴城公園として市民の憩いの場となっている。天守台からの甲府市・南アルプス等は絶景であった。近年天守閣復元の運動も行われているようです。

6宇都宮城(宇都宮市)
日時:2014年11月14日、晴れ、単独
日程:旧奥州街道ウオーキング(宇都宮宿〜氏家宿)が早く終了したため帰路途中下車見学
感想:宇都宮城は鎌倉時代以前から地元の名族宇都宮氏の居城として500年以上続き、江戸期に入り、家康が祀られた日光守護の城として重鎮本多正純が入城した。正純が城地を拡大・整備して後失脚。歌舞伎狂言「釣天井事件」としても知られているようです。幕末は会津を目指した大鳥圭介・土方歳三率いる旧幕軍と新政府軍が争い炎上したようです。現在の遺構は土塁のみで、櫓・土塁・堀・土塀が復元されており、宇都宮城址公園として市民の憩いの場となっている。

24川越城(川越市)・25岩槻城(岩槻市)
日時:2014年8月15日、晴れ、単独
日程:池袋=川越(川越城)=大宮=岩槻(岩槻城)=大宮=上野

感想:川越城は扇谷上杉氏が古河公方に対抗するため太田道灌に江戸城・川越城・岩槻城を築かせた。その後北条氏に攻略され上杉連合軍が攻めたが川越夜戦で撃退され北条氏の関東覇権が確立。小田原合戦後は関東に入った家康は北の守りとして譜代の家臣を配した(歴代老中数7名は全国でも最多の藩の一つ)。寛永15年の大火で消失したが、老中松平信綱が拡張・整備した。現在は本丸御殿の一部が残っており、東側に三芳野天神があり童謡の「通りゃんせ」はこの神社で帰りに道を間違えると本丸に入り打ち首必至で「行きはよいよい、帰りは怖い」と歌われた。なお少し離れた川越市役所に太田道灌の銅像がある。岩槻城は元荒川の蛇行地を利用して太田道灌により築城され浮城ともいわれた。その後北条氏の管轄になり、小田原合戦後は家康が関東に入り、川越城と同様に北を守る要地として譜代家臣を配した。天守も重層な櫓もなかったようで、現在の遺構は黒門・土塁等で岩槻城址公園として市民の憩いの場となっていた。

23土浦城(土浦市)
日時:2014年8月11日、晴れ、Wさんと2人
日程:予科練平和記念館と共に土浦市在住の友人Wさんの車で見学
感想:土浦城は平将門が築いたとの伝説もあり、当初は霞ヶ浦に近く亀城ともいわれ、戦国時代は近辺土豪の争奪の対象となった。小田原合戦時は佐竹氏や家康の軍勢に攻められ滅亡。秀吉は家康の次男で、自らの養子の秀康にこの地の名族結城氏を継がせたが、秀康は代官を置いた。江戸期には譜代家臣を配したが、幕末は元武田氏の家臣の家系の土屋氏で迎えた。天守は作られず、現在の遺構は太皷櫓門・土塁・堀で亀城公園として市民の憩いの場となっていた。


22高崎城(高崎市)
日時:2014年5月11日,晴れ、OさんOさんYさんと4人
日程:旧中山道ウオーキング中高崎宿にて見学
感想:戦国期西上野の中心は北方の箕輪城であったが、家康の関東移封後中山道の関東入口の碓氷峠、又三国街道との分岐でもあるこの地を重視して、譜代の井伊直政に高崎城を築城させた。井伊家が彦根に移封後は譜代大名が何度も入れ替わり明治維新を迎えた。明治6年第3師団官内分営所が置かれ、その後建造物は移築・破却され歩兵第15連隊の駐屯地となった。現在の遺構は乾櫓・東門・土塁・堀で、高崎城址公園として市民の憩いの場となっていた。

21二条城(京都市)
日時:2011年10月26日、晴れ、Tさんと2人
日程:西国33ケ所観音巡りの途中見学
感想:二条城は家康が将軍が京を訪れた際の宿所、また天皇の行幸を仰ぐ場所として、贅を尽くした本丸、二の丸御殿を築いた。二の丸御殿は黒書院・白書院等に狩野派の障壁画、庭園は小堀遠州作の回遊式庭園。1994年「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産に登録された。1611年家康と豊臣秀依頼の会見、1867年慶喜大政奉還等大舞台の場所となった。遺構は御殿・櫓・門・石垣・堀・庭園で天守台からの京都市の眺望は見事であった。

20五稜郭(函館市)
日時:2011年8月,晴れ、長男家族と家族5人
日程:長男家族と函館旅行時に見学

感想:五稜郭の築城は1854年日米和親条約が締結され下田と並び函館が開港地として選ばれたため。側に立つ五稜郭タワーから見ると雪の結晶のようで、どの方向の敵にも射撃ができる要塞になっていた。五稜郭が一躍有名になったのは、江戸開城後、榎本武揚率いる旧幕府軍が、幕府の軍艦を操りこの城を占拠したからである。その中に新撰組副長土方歳三(五稜郭タワーに銅像有)もいた。榎本は独立国家を計画したが、1869年新政府軍の攻撃により落城。土方は壮烈な戦死を遂げ、榎本は降伏してのち明治政府の大臣を歴任した。明治になり建物は解体され陸軍の連兵場として使用され、1914年から五稜郭公園として一般開放され、以来函館市民の憩いの場と共に函館山の夜景と並び函館を代表する観光地となっている。

19弘前城(弘前市)
日時:2006年8月30日、雨、Kさんと2人
日程:日本百名山の岩木山登山時の帰路見学
感想:弘前城は南部氏の家臣であった大浦為信が小田原合戦の際南部氏に先駆けて秀吉に朱印状を受け津軽氏に改名。関ケ原では東軍に付き家康より加増を受け4万7千石弘前藩が成立し築城。その後落雷で焼失したが、ロシア船の津軽海峡往来などの事態により1810年9代目が三層櫓を新築する許可を受け、現在の三層三階の櫓(天守)を建てた。現存する12天守の一つで、堀・石垣・土塁等城郭のほぼ全容が現存する。現在は弘前公園となり、境内の枝垂桜は有名で吉野・高遠城址公園の桜と並び日本三大桜の名所となり、岩木山と共に観光地となっている。

18小田原城(小田原市)
日時:2001年10月13日&2008年5月22日、晴れ、K&K&Tさんと4人
日程:妻&坂東33ケ所観音巡りの途中見学

感想:小田原城は室町時代に大森氏により築かれ、伊豆を支配していた早雲に奪われ、早雲・氏綱・氏康・氏政・氏真と北条5代の城であった。北条は版図を拡げ関八州を支配し、小田原を城郭都市として、上杉謙信や武田信玄の攻めにも耐えた。秀吉は20万の大軍で包囲し、石垣山に一夜城を築き、長い籠城と小田原評定の末5代氏真をもって滅亡した。家康は重臣大久保忠世を小田原城主とし、途中改易されたが、再度大久保氏が入封し、明治維新を迎えた。天守は明治3年に取り壊され、昭和35年に平山城の3層4階の天守が再建された。遺構は石垣・土塁・堀で、現在は小田原市城址公園として市民の憩いの場となっており、天守展望台からの眺めは相模湾・江ノ島・箱根等絶景で桜の季節には大勢の人で賑わっている。

17松本城(松本市)
日時:2000年7月15日、雨、Iさんと2人,2023年8月5日妻と
日程:日本百名山高妻山・焼岳登山時に松本に宿泊して見学
感想:
松本城は黒漆塗りの天守で別名烏城ともいわれ、戦国時代に信濃守護の小笠原氏の領であったが、武田信玄に追われた。その後武田家滅亡以後小笠原氏が取返したが、小田原合戦の後、秀吉により下総古河に移され、小牧・長久手合戦以後徳川家を出奔した石川数正が入城した。石川氏は大久保長安事件で改易になり、再度小笠原氏が復活するが短期で、その後譜代の松平・堀田・松平が続き明治を迎えた。5重6層の平城で現存天守12城の最古ともいわれ天守は国宝になっている。天守以外の遺構は石垣・土塁・堀等で現在は松本城公園となっており、天守は有料であるが、公園は無料公開されており、市民の憩いの場であり、観光地となっている。前回は登山の途中で天守に上る時簡に間に合わず今回は40分待ちで天守に上った。現存天守のため階段は急で狭く外国人等観光客が非常に多かった。


16高遠城(伊那市)

時:1998年9月5日&2000年6月月17日、晴れ&雨、Iさんと2人
日程:日本百名山仙丈岳&甲斐駒ケ岳登山時の帰路見学

感想:高遠城は室町時代から高遠氏の領地であったが、武田信玄に奪われた。信玄は駿河・遠江・三河方面への進出の拠点として堅固な城にした。信玄を継いだ勝頼は長篠の合戦で大敗し、異母弟仁科盛信を城主にし、勝頼は韮崎に新府城を築城したが、その後織田信長の長男信忠の大軍に攻められ盛信は玉砕し落城した。これにより勝頼も退却して小山田信茂の裏切り等があり天目山で武田家は滅亡した。その後高遠には秀忠の隠し子で家光の弟保科正之が配されたが後加増転封され鳥居氏をへて内藤氏で明治を迎えた。内藤時代に大奥で絵島生島事件がおこり絵島は内藤氏に預けられた。遺構は石垣・土塁・空堀・門で現在は高遠城址公園として全国的に有名な桜の名所となっている。仙丈岳・甲斐駒岳登山口の北沢峠に行くため通過・見学をしたが、青々とした桜の木が多数あり桜の季節は凄いであろうと思った

15彦根城(彦根市)
時:1998年5月2日、曇り、単独・2016年9月27日、晴れ、山の友人Yさんと
日程:日本百名山伊吹山登山時に見学、三重・滋賀の城廻り見学

感想:関ケ原の合戦後家康は北国街道・中山道・東海道が合流して京に入る拠点として徳川四天王の一人井伊直政に彦根城を築城させた。直政は関ケ原合戦の薩摩藩正面突破時の戦傷の悪化により間もなく死去したが、嫡子直継が完成させた。琵琶湖東南の地は織田信長が安土城、秀吉が長浜城を築城し三成を佐和山城に置き、いずれも重要視した地であった。幕末の井伊直弼等多くの大老を輩出し井伊14代の居城となった。また明治初期の廃城を免れ、平山城の3重3階地下1階の天守は国宝4城の1城で、その他の遺構として櫓・門・塀・馬屋・石垣・土塁・堀があり魅力ある観光地となっている。JR彦根駅前の初代井伊直政の騎馬像、直弼が青春時代に過ごした埋木舎も見学した。2016年9月は再度天守閣に上り玄宮園の庭園を見学した。

14小諸城(小諸市)
日時:1997年10月19日、晴れ、妻と
日程:妻と軽井沢・小諸旅行時に見学

感想:小諸城は戦国時代初期に大井氏により築かれ、その後北信濃攻略の拠点とするため武田信玄が拡張した。武田氏滅亡後一時織田家臣滝川一益が領し、本能寺の変後北条氏が奪取したが、小田原征伐後仙石秀久が入城。小諸は信州と関東を結ぶ要地としてその後久松・青山・酒井・牧野等譜代を置き牧野氏で明治を迎えた。現在の遺構は天守台・大手門・石垣・堀で城跡は市営小諸城址懐古園として、整備・公開され市民の憩いの場であり観光地となっている。園内には藤村記念館等があり、南西の千曲川の絶景の見える展望台の近くに文豪島崎藤村の有名な小諸なる古城のほとりの「千曲川旅情の歌」の詩碑がある。詩の一部「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ 緑なすはこべは萌えず 若草も籍くによしなし しろがねの衾の岡辺 日に溶けて淡雪流る」

13江戸城(東京都千代田区)
日時:1994年より何度も見学
日程:M社勤務中昼休&妻と1月2日に2度皇居参賀&友人の案内等
感想:江戸城は扇谷上杉氏の重臣太田道灌によって築かれた平山城で、扇谷上杉が北条に破れ、北条氏綱の支配下に入ったが、小田原合戦の後徳川家康が入城した。段階的に拡張・整備され天守は5重5階の壮大な城になり、城郭となった。明暦の振袖火事で天守等が焼失し、それ以降天守は再建されなかった。明治元年西郷隆盛率いる新政府軍が江戸に迫り、15代徳川慶喜は恭順を示して退却し、勝海舟との会談で無血開城となった。明治2年天皇は京都御所を出て、改名された東京に入り、江戸城を皇居とした。現在皇居として使用されているのは江戸時代西の丸、吹上御庭と呼ばれていた場所で、本丸・二の丸・三の丸の主要部分は皇居東御苑として公開されており、北の丸は日本武道館・科学技術館等がある北の丸公園となっている。現役時代の昼休みに何度も平河門から入城し、東御苑の都道府県の樹木や、忠臣蔵所縁の松の廊下跡や天守台を見学した。また1月2日の皇居参賀に妻と2度参加して眼鏡の石橋を渡り皇居正門から奥の2重橋を渡り、宮殿の前で天皇のお言葉をお聞きました。外苑には天皇をお守りした和気清麻呂の立像と楠木正成の騎馬像があり、更に皇居の廻り約5kmを何度も大勢の人に混じりジョギングをした。今後も何度も見学する機会があると思っています。

12会津若松城(会津若松市)
日時:1988年9月24日、曇り、K&Mさんと3人
日程:日本百名山安達太良山・磐梯山登山時の帰路見学

感想:会津若松城は鶴ケ城ともいわれる平山城で南北朝時代は葦名氏の居城であった。1589年伊達政宗が攻め取ったが、小田原合戦後秀吉に召し上げられ、戦功のあった蒲生氏郷が92万石で入城し拡張・整備した。氏郷死去後家中騒動があり、下野国宇都宮へ移封となり、越後より上杉景勝が120万石で入城した。関ケ原後景勝は30万石で米沢に転封され、再度蒲生が入城したが短期で伊予松山に移封となり、代わって松山より加藤嘉明が入城した。その後加藤が改易になり、出羽山形より家光の庶弟保科正之が23万石で入封し明治維新まで会津松平家の居城となった。1868年戊辰戦争で白虎隊等も動員し1ケ月間籠城して防戦したが、板垣退助勢に薩摩の援軍も加わり開城した。明治になり破却され昭和40年5重5階の天守は鉄筋で再建され、現在は鶴ケ城公園として公開され天守は博物館となっている。
白虎隊の1節「南望鶴城砲煙揚 痛哭飲涙且彷徨 宗杜己亡我事畢 十有九人屠腹彊」


11二本松城(二本松市)
日時・日程:二本松の取引先出張時に見学
感想:二本松城は別名霞ケ城ともいわれる平山城で室町時代に畠山氏が築城した。1585年二本松(畠山を改名)義継は伊達政宗の父・輝宗に降伏を申出に輝宗のもとに出向いた時、輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとしたが、これを聞きつけた正宗に輝宗ものとも射殺された。翌年二本松城は開城し、二本松氏は滅亡した。正宗は城代を置いたが、小田原合戦後召し上げられ会津蒲生氏郷の支城となり、蒲生転封後会津上杉景勝の支城となった。関ケ原後蒲生・加藤と代わり、加藤改易後白河小峰城より丹羽長秀の孫・光重が10万石で入封し、明治維新まで丹羽氏の居城となった。1868年戊辰戦争で二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加し、二本松少年隊も動員して新政府軍と戦ったが1日にして落城した。その後再建はされず、遺構は天守台・石垣・堀で現在は霞ケ城公園として市民の憩いの場となっている。

10佐倉城(佐倉市)
日時・日程:妻とドライブ時見学
感想:佐倉は江戸を東から守る要地で、家康は重臣の土井利勝に築城させた。城主は徳川幕府の要職に就くことが多く、何度か入れ替わったが堀田氏が再入封してからは安定した。天守は3重4階の平山城であったが、1813年焼失。明治になり処分され、帝国陸軍歩兵第2連隊、その後歩兵第57連隊の駐屯地となった。遺構は石垣・堀で現在は佐倉城址公園として整備されており、その一区画に国立歴史民俗博物館があり、歴史愛好家や子供の歴史の学習等に非常によい博物館となっている。

9熊本城(熊本市)
日時:1971年4月19日、晴れ、妻と
日程:北九州新婚旅行時に見学

感想:熊本城は加藤清正が築城した名城。秀吉の九州征伐後、肥後に佐々成政が置かれたが、一揆が起こり、地元豪族と成政双方が処分された。その後肥後は加藤清正と小西行長に2分され、北半国の領主となった清正が隈本城に入城した。関ケ原の合戦の行賞により清正は肥後52万石の領主となり熊本と改名し、熊本城を完成させた。清正は尾張中村の秀吉と同郷の出身で、胆力・知力・土木築城技術等優秀で秀吉に重宝がられた。賤ケ岳七本槍・朝鮮出兵時の虎退治・二条城で秀頼・家康対面に同席等で有名。家康が一番警戒をしていた清正はこの対面時に毒をもられた巷説もあり対面の2年後に死亡し、息子忠弘もやがて改易になり、豊前小倉城主であった細川忠利が肥後54万石で入城し、明治維新まで続いた。細川氏が12代200年以上在城したが、熊本市民にとって郷土の英雄は加藤清正のようである。明治になり鎮西鎮台が置かれ、西南戦争で薩摩軍と戦い天守は焼失したが、谷干城指揮官の下3400人で籠城し西郷軍を退けた。清正の築城がいかに優れたかが証明されたようです。遺構は櫓・石垣・門・塀・堀で天守は昭和35年に鉄筋コンクリートで復元され、現在は熊本城公園として熊本一番の観光地となっている。

8犬山城(犬山市)
日時・日程:会社の営業課の旅行時に見学及び2015年5月10日旧中山道ウオーキング中犬山に宿泊遠望
感想:犬山城は荻生徂徠が李白の詩から別名白帝城と命名したと伝えられ、尾張と美濃を分ける木曽川の南岸にあり、美濃太田から犬山までの日本ラインの川下りとしても知られている。前身となる城は織田氏によって築かれ、江戸期には尾張藩の付家老が入城し、成瀬氏が明治に至るまで城主として居城した。明治24年の濃尾大地震で崩壊し、城の修理の条件で旧城主成瀬氏に譲渡された。現在は財団法人が管理し、現存天守の12城の1城であり、国宝天守4城(姫路・彦根・松本)の1城。前回の旅行(明治村・日本ライン・犬山城等)で天守に上ったが、今回の2015年5月10日は犬山橋より遠望し、ホテルの大浴場からライトアップした平山の犬山城は素晴らしかった。

7高知城(高知市)
日時:1963年7月24日、晴れ、Oさんと2人
日程:学生時代百名山剣山登山・高知旅行時に見学

感想:高知(土佐)は四国の名家である長宗我部氏が領していたが、長宗我部盛親が関ケ原の合戦で西軍に組したため改易となり、掛川より山内一豊が20万石で入城した。長宗我部は岡豊城にいたが、不便なため山内が高知のほぼ中央に高知城を築城した。山内一豊は会津征伐の途中三成挙兵による小山評定で,大阪方の人質となった妻千代の手紙を封も開けず家康に渡し豊臣系の大名の動揺を防いだ戦功により土佐一国が与えられた。一豊は織田の家臣時代は妻のヘソクリで名馬を購入して馬揃えで認められ、秀吉にも律儀な性格が信頼され、3人に仕え山内家は江戸期を通じて土佐一国の城主であった。現存天守12城の1城で天守・御殿と両方が残るのは高知城のみである。学生時代に行った時は境内の銅像は板垣退助像のみであったが、その後千代と名馬像・一豊の騎馬像ができたようで、現在は高知公園・桂浜・坂本龍馬記念館等と共に観光地となっている。

6金沢城(金沢市)
時:1962年8月9日、晴れ、Oさんと2人
日程:学生時代東北・北陸旅行時に見学

感想:金沢城は加賀百万石の前田家の名城で、戦国時代加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の金沢御坊が置かれていた。織田信長が攻め落とし金沢城を築いて佐久間盛政を置いた。その後賤ケ岳の合戦で秀吉に滅ぼされ、金沢城に前田利家が入城した。初代利家2代利長と拡張・整備した。3代利常は金沢を万全にするため、北に高岡城、南に小松城を、更に強固にするため息子に分藩して富山城と大聖寺城を守らせた。また北国街道沿いに寺院を集め、要塞としても使用できるように整備した。天守は5層であったが1602年落雷で焼失し、幕府に遠慮して3層の櫓を再建した。日本三名園の兼六園は5代綱紀が作成した大名庭園であった。明治になり城郭処分となり、陸軍第9師団司令部が終戦まで置かれた。遺構は石川門・石垣・堀等で私が見学した時は金沢大学のキャンパスで石川門・兼六園を見学しただけであったが、現在は大学も移転し金沢城公園として兼六園と共に観光地となっている。

5仙台城(仙台市)
日時:1962年8月2日、晴れ、Oさんと2人
日程:学生時代東北・北陸旅行時に見学

感想:仙台城は別名青葉山城ともいわれ、関ケ原後に家康の許可を得て伊達政宗が広瀬川が北西から南東に蛇行する青葉山に62万石の平山城として築城した。江戸時代に火災や地震等で何度も損害を受け、又奥州越列藩同盟として戊辰戦争を経ても一度も戦火を交えることなく堅固な要塞として機能した。明治になり廃城令で破壊され東北鎮台本営が置かれ、更に鎮台が師団制に変わると第二師団が置かれた。昭和20年の空襲によりすべて焼失した。戦後はアメリカ陸軍が進駐し、昭和32年に返還となった。返還後は東北大学のキャンパス・図書館・博物館等青葉山公園として市民の憩いの場となっている。遺構は本丸跡・石垣・堀等で、私が学生時代に行った時は園内に伊達政宗の白色袴の立像と土井晩翠像があったが、現在は政宗の銅像は騎馬像になっている。また豊後竹田城には「荒城の月」の作曲者瀧廉太郎の銅像と土井晩翠の詩碑があった。

4松江城(松江市)
日時:1962年3月14日、晴れ、Oさんと2人
日程:学生時代山陰・山陽旅行時に見学

感想:山陰で唯一現存天守である松江城は2015年5番目の国宝となった。4重5階の千鳥破風に黒板張りの平山城は宍道湖に映え優美であった。関ケ原で東軍に属した堀尾吉晴が家康に認められ遠州浜松12万石から移り24万石で堅固な城を築いた。戦国時代出雲は尼子氏が領し、月山富田城を本拠としたが山城のため松江に築いた。出雲は長州の毛利との関係で築城名人の堀尾が登用されたが3代で改易となり、その後親藩の結城秀康の3男松平直政が信濃松本藩より入り、明治維新まで続いた。遺構は現存天守・石垣・堀等で現在は松江城山公園として宍道湖等が眺望できる観光地となっている。

3大阪城(大阪市)
日時・日程:1954年小学校の修学旅行で見学記念写真有、社会人の時早朝ジョギングで大阪城一周、2016年7月26日妻と見学
感想:大坂城は豊臣秀吉によって築城されたもので、戦国時代末期、この地には石山本願寺があり信長との石山合戦・本能寺の変を経て秀吉が五重五階の難攻不落の堅固な城を築き、豊臣政権の本拠地となった。その後大坂冬の陣で堀を埋められ、夏の陣で豊臣氏の滅亡と共に焼失した。その後徳川は大坂城代を置き西日本支配の拠点とし、秀忠の時再建されたが、1665年落雷により焼失した。それ以後天守のない城で幕末に大政奉還により、一時慶喜が居住したが、鳥羽伏見の戦いで新政府軍に明け渡した。明治になり陸軍軍用地となり、太平洋洋戦争の空襲により壊滅した。昭和6年昭和天皇即位記念事業として市民の募金を募り復興天守が鉄筋コンクリートで完成した。遺構は石垣・櫓・門・堀で、現在は大阪城公園として大阪の象徴・観光地となっている。現役時代の大阪出張時早朝に大阪城を一周して大阪マラソンコースの一部を楽しんだ。


2姫路城(姫路市)
日時・日程:子供の頃遠足で見学、西国33観音圓教寺巡り時は平成の大修理中であった。2016年7月26日妻と見学
感想:姫路城は日本一の名城で別名白鷺城ともいわれる。江戸初期に建てられ天守・櫓等の主要な建築物が現存し1993年世界遺産に登録された。姫路城は南北朝時代赤松貞範により砦のような小規模なものとして始まり、その後小寺氏の家臣黒田重孝・職隆父子により完成された。戦国時代は山陽道・出雲街道・因幡街道の交通の要衝として黒田次いで羽柴氏が城代となった。備中高松城の水攻めの最中に本能寺の変が起こるや否や毛利と和睦して中国大返しを行い秀吉は姫路城で光秀との決戦の準備を行い山崎の合戦に向かった。その後豊臣秀長・木下と代わり関ケ原後戦功により三河吉田から52万石で池田輝政が入城し、大規模な城郭とした。大坂夏の陣後池田氏は鳥取に転封となり桑名から本多氏が入城した。その後譜代松平・榊原・青山等に代わり酒井氏で明治を迎えた。明治になり陸軍歩兵10連隊が置かれ一部取り壊されたが天守・櫓等が保存された。太平洋戦争では姫路も空襲に遭遇したが奇跡的に残り、その後昭和・平成の大修理を経て現在は姫路公園の中心として一大観光地となっている。


1岡山城(岡山市)
日時・日程:岡山県備前市出身のため子供の頃・学生時代・社会人になって等何度も見学
感想:岡山は山陽道・旭川・瀬戸内海という交通の要地で戦国時代の土着豪族宇喜多直家が石山城に入城し、その子の秀家が石山城を取り囲み岡山城を築城した。直家は当初は毛利氏と結んだが、秀吉が中国侵功を開始するとやがて寝返り、その子秀家を秀吉の実質養子として育てた。秀吉の天下統一後備前・備中・美作・播磨の一部を秀家に与え、また前田家の娘を娶らせ秀家は57万石で4重6階平山城の岡山城を築いた。外観は黒漆塗の下見板が特徴で別名烏城ともいわれる。関ケ原合戦で秀家は西軍の主力として戦ったため、戦後八丈島へ島流しとなり滅亡した。その後関ケ原合戦で去就が注目された小早川秀秋が入城したが、2年で病死。池田氏が淡路から入城したが、短期で同族の池田光政が鳥取より31万5千石で入城して明治まで続いた。光政の子・綱政が大名庭園後楽園を造営した。その後明治の廃城令により順次取り壊され昭和20年の空襲により天守も焼失した。その後昭和41年鉄筋コンクリートで天守等が再建された。遺構は櫓・石垣・堀で現在は烏城公園として整備され、隣接の日本三名園後楽園と共に観光地となっている。岡山城と後楽園は何度も見学したが、これからも行く機会があると思っている。

ホームのページへ.