「英語と運命」

23.08.24

お断り
このコーナーは「推薦する本」というタイトルであるが、推薦する本にこだわらず、推薦しない本についても駄文を書いている。そして書いているのは本のあらすじとか読書感想文ではなく、私がその本を読んだことによって、何を考えたかとか何をしたとかいうことである。読んだ本はそのきっかけにすぎない。だからとりあげた本の内容について知りたい方には不向きだ。
よってここで取り上げた本そのものについてのコメントはご遠慮する。
ぜひ私が感じたこと、私が考えたことについてコメントいただきたい。


長く続いた新型コロナウイルス流行で、図書館の利用もいろいろ制限されていた。コロナ以前は書架をぶらつき面白そうな本を探すことができた。
本 しかしコロナ流行時は、借りるのはインターネットによる予約のみ、貸し出しは棚に置かれていて自分が予約したものを探して自動機でチェックアウトし、返却は自動機に放り込む。
職員は一人くらいしかおらず、何か相談とか問い合わせがあれば、アクリル板で仕切られた窓口で話をするだけ。書架の入り口は衝立が並び進入禁止であった。
だから目的なく書架をぶらつき、面白そうな本はないかとさまよう楽しみはない。

その後少しずつ館内の規制がゆるくなったけど、コロナ以前は書架のあちこちに置いてあった椅子とかソファーは今も片づけられたままだ。そして用が済んだら、すぐに退館するように声をかけられる。

マスク もちろん今もまだコロナ流行が終息したわけではなく、コロナが重病というカテゴリーから軽い病気の位置付けに変わっただけだ。それでも図書館が従来通りに、しかもマスクなしで利用できるようになったことはありがたい。


そんなわけで数か月前から週に一度くらい図書館に行き、書架を歩いたり陳列されている新刊書を眺めたりしている。
そして書架をさまよっていて、この「英語と運命」というが目についた。タイトルには何の思いもないが、著者が中津燎子とあったからだ。
私がまだ若い頃、「なんで英語やるの?」という本がベストセラーになった。この中津燎子さんが最初に書いた本である。


書名 著者 出版社 ISBN 初版 価格
なんで英語やるの? 中津燎子 午夢館 なし 1974 ?円
英語と運命 中津燎子 三五館 4883203395 05/12/08 1,900円

「なんで英語やるの?」を買った覚えはないが、読んだ記憶はある。21世紀になってなぜかまた読みたくなり、後に出た文春文庫の中古本を買い読んで捨てた。
私は借家住まいで引っ越しばかりしていたので、本は買っても読んでは捨てた。現役時代は図書館に行く暇もなく、読みたい本は買うしかない。ネットなら真夜中でも買える。今は図書館から借りて読むからサイフにも環境にも優しい?

私は変に記憶力がいいので何歳の頃どんな本を読んだか、何が書いてあったかを覚えている。ただ細かな言い回しとかまでは覚えておらず、文に書くときは再度読まなければならない。当たり前か?
「なんで英語やるの?」を読んで今でも覚えているのは、英語で大事なことは音である。英語の音を出すこと、英語の音を聞き取ることができないとダメということだけだ。


中津燎子とはこんな人である。
なお、実際には年表になっておらず、私が本書に書いてあったものを抜き出して並べただけなので不確かである。

1925年九州生まれ。生まれた時から病弱
1928年父親が当時ソ連だったウラジオストックの領事館で通訳をしていて、著者3歳のとき母と兄と九州からウラジオストックに引っ越す。
1937年日ソ間の関係が悪くなり九州に戻る。
??太平洋戦争のときは学徒動員で工場で働き空襲にもあった。
1947年職を探して米軍の電話交換手となる。英語は女学校で習っただけとあるが、ひたすら努力して習熟し同僚と米軍の交渉役をしたという。
??朝鮮戦争のとき米軍病院の看護師と日本人メイドの通訳兼マネジャーになる
1956年アメリカ留学する。最初は大学だったが基礎学力不足で専門学校(?)に移る。現地で働いていた日本人医者と知り合い結婚、学校は退学
1965年夫婦で帰国(子女ふたりあり)
1974年英語塾での経験を基に「なんで英語やるの」を書く。大宅壮一ノンフィクション賞受賞


種々英語教育関連の団体役員などを務める
2011年永眠

過去、私の勤めた会社では輸出もしてたけど、私のような立場で英語と関わるなんて全くなかった。まあ部品名は英語でつけられていたし、生産技術などの用語はカタカナ語だったが、別に英語ができる必要はない。
個人的にも私と英語の関わりなんて全くなかった。街を歩いても外人がいない。当時はアジア系もほとんどおらず、在日韓国人程度しか外人はいなかった。
今と違い英語のペーパーバックを田舎の本屋が売っているわけはなく、インターネットもない。
たまの休みにアメリカ映画を観たが、字幕があれば十分だ。

ガンダム 私の周りでも英語ペラペラなんて人はおらず、工業高校の先輩が英検2級を自慢していたくらいだ。20歳くらいのとき英検2級なるものを受験してみたら、合格した。
「当たらなければどうということはない」という有名なセリフがあるが、英検2級など「当たってもどうということはない」。


私は英語と無縁のまま、お墓に入るはずだったが、1992年頃にISO認証という役目を仰せつかった。既にISO規格の和訳され出版されていたのだが、私はそれを知らず必死になってISO9001:1987を翻訳した。
工業高校を出て24年も経っていて、特段英語の勉強をしたこともない私であるが、そのくらいはできたのである。関係代名詞や関係副詞で一つの文が50語とかもっと長い文章でも、文字のつながりを追っていくと文章が理解できた。不思議なことである。高校時代、教科書をほぼ理解していれば、なにごともある程度のことはできるのかもしれない。

注:1990年代初頭には、無料で翻訳できるサイトなどなかったというか、それ以前に一般人が使えるインターネットはなかった。
パソコンにインストールする翻訳ソフトはあったが、そんなもの買ってもらえるはずがない。学校で習っただろう、英語くらい使えないのか、という上司の声を思い出す。
あちこち聞き歩いて、設計に個人で翻訳ソフトを買った人がいると聞いて使わせてほしいと言ったら、熟考の上、法律ではだめだからダメと言われた。遵法の権化である。

実はISO規格は英文でなく論理式と考えれば、理解するのは簡単である。使われている英単語しっかり調べ、対応する日本語の用語を決めれば、その対照表で英文の単語に日本の語句に代入すれば翻訳完了である。方程式に実際の数字を代入するのと同じことだ。
とはいえその対照表は自分が作らねばならないわけで、最初は苦労した。と言っても規格で使われている英単語はたいしてない。主たるもの70語くらいの対照表を作っておくと、間に合った。言い換えると70語しか単語がない言語で表現されているのだ。

後にISO9001の日本語訳であるJISZ9901を見たとき、だいぶ私の翻訳した語と違っていた。ただJIS訳も規格改定があるたびに英単語は変わらずとも日本語は変わっていたから、私が間違っていたとかいうわけでもなさそうだ。「define」を「決める」と訳しても「明確にする」と訳しても大勢に影響はない。
もちろんその方法では、規格を声を出して読むことはできない。そもそも私は発音もアクセントも知らない。たぶん「解体新書」を日本語訳した杉田玄白も私と同じではなかったのだろうか。

ISO認証の15年以上前に「どうして英語やるの」を読んで「英語で大事なことは音である。英語の音を出すこと、英語の音を聞き取ることができないとダメ」は、当時も覚えていたけど、私の仕事上は無縁であった。それは今も変わらない。


ともかく中津燎子という名前を見て、読んでみようと思った。そのとき図書館から3冊ほど借りてきて他の本は興味があってすぐに読んでしまったが、この「英語と運命」は借りてきたものの、手つかずで残っていた。なにしろ厚さが3センチ超、400ページ以上ある。
2週間が過ぎて返す日がきたが、そのとき未読だったこの本を手に取ってパラパラみると、太平洋戦争直前のソ連ウラジオストックに住んでいた話とか書いてあるので読んでみようという気になった。それでこの本の借用期限を延長して借りることにした。

私は図書館から借りてきた本を全部を読むわけではない。
特にコロナの期間は、借りるときインターネット予約だから中身を見るわけにいかず、世の中の評価とか他の本が引用しているからという理由で借りていた。
他の本が引用している場合は、裏を取るのが目的だから該当する部分、せいぜい20ページも読めばおしまいだ。
評判を見て借りてきた場合、冒頭20ページも読んで興味を持てば続けて読むし、面白みがないとか自分が期待していたカテゴリーでないときはそのまま返却する。

サンゴ礁 実を言ってサンゴ礁に興味があって、サンゴのライフサイクルを知りたくてサンゴ礁をキーワードに検索してヒットした本を予約しても、手に取ってみればサンゴ礁に住む人の風俗だったので、持ち帰らずそのまま図書館で返却したこともある。
ひどいとは言わないで。本屋で立ち読みをするのと同じですよ。


さて、読み始めると面白い。三晩くらい夜中の1時過ぎまで読んでいた。でも確かに面白いのだが、なんか心地良くなく悶々とする。なぜ悶々としたのかははっきりしている。いろいろ考えたことを書く。

「英語と運命」というタイトルであるが、書いてあることは著者にとって英語は運命だったということではない。また英語勉強のための方法とかレディネスを書いているわけではない。

まず冒頭の90ページはソ連に住んでいた子供時代のこと。メインテーマは(父親)対(母・兄・著者)の葛藤である。葛藤というと普通は精神的なものだが、ここでは肉体的暴力が大きな割合を占める。
全権者であり、暴力をふるい、圧政を敷く父親であったこと、そういう人物とどう向かい合っていくか幼児のときから考え悩んだということが延々とつづられる。

そしてまた著者の置かれた環境が、幼い自分の周りには日本人の子供は少なく、ロシア人の子供はロシア語、中国人の子供は中国語で、自分は数か国をちゃらんぽらんに寄せ集めた言葉を使って遊んでいた。そんな環境において人間は扱う言語だけでなく、いかなる内面的な成長をとげるのかという、自らの身で社会実験が行われていたと語る。

彼女の場合、言葉を覚え始めるとき日本語を話す人が常にそばにいたのでなく、ロシア人のメイドとか中国人などがいて、そういう人たちから言葉を聞いて育ったからだという。
そういう環境であればバイリンガル、トリリンガルに自動的になるどことか、一つの言語さえ自家薬籠にできないという。

そして更に言葉でなく、主語を明確にするとかはっきり言うか、あいまいにするかというコミュニケーションにおけるスタンスが違い、主体的な性格になるのか、あるいは性格は変わらなくても態度の違いによって異質・同質が認識されるのか、ともかく著者は日本人から異端だとみなされて浮いてしまったという。

父親への対応とおかれた環境によって、著者のコミュニケーションのスタンスは決定されたのだろう。英語と出会う前に、既に彼女は日本人ではない、もちろんロシア人でもないものに育っていたのである。


話は自分のことになる。
私の親父は著者の父親より30歳若く、私は著者より25歳若い。ほぼ一世代違うのだが、双方の父親の生きた時代は大正から昭和の戦争時代だから性格も行動様式もほとんど同じだろうと思う。

著者の父も変わり者だったようだが、ウチのオヤジは外面そとづらが良くて、いつもそのしわ寄せが家族に来た。

オヤジは田舎の猫の額ほどの水飲み百姓の子供に生まれ、兄(私から見て伯父)がそこを継いだ。終戦になって伯父もオヤジも復員してきた。だが伯父一家は7反の農地では暮らしていけず、伯父は東京に出稼ぎに行った。
そして東京の暮らしが安定すると家族を呼び寄せたのだが、同居していた祖母が東京に行くのを拒み、その場でオヤジが引き取った。

そのとき我が家は6畳と4畳半の長屋に、両親と子供4人が暮らしていた。事前に相談もなくオヤジが祖母を連れて来て母は発狂した(例えだよ)。私が小学低学年だった1957年頃だ。
困ったなあ 母が何を言おうがオヤジは怒鳴るだけ。なし崩しに、その長屋で7人が暮らした。物置もない、廊下もない、押し入れは1間幅しかない二間に7人が暮らすありさまが想像つきますか? 住んでいた長屋は40戸くらいあった気がするが、7人暮らしの家は我が家だけだった。
まあ、当時はラジオもない、当然テレビもない、洗濯機も冷蔵庫もなかったからできたのかもしれない。今のように家電とか家具があれば、足の踏み場もなかったろう。
そうそう水道もなかった。だから炊事は共同水道のところでしていたからなんとかなったのかもしれない。

東日本大震災のとき、家内の実家の人たちが我が家に避難したいと言ってきた。是非もない。
我が家は80平米(24坪)のマンションである。私たち夫婦が2名、実家は義祖母、義弟夫婦、姪夫婦と子供2名、都合7名。合計9名が寝泊まりできるだろうか?
とにかく冬でもあり、布団とか毛布とか手配をしよう、すぐにアパートを探そう。姪の夫の仕事も探さねばと考えていた時に避難中止となり、姪と子供たちだけが避難してきた。
24坪に9名と、10坪に7名では明らかに10坪に7名の方が厳しい。よく住んでいたものだと感心する。それも短期的なことでなく何年も住んでいたのだから驚く。母がギャーギャー言ったのも理解できる。

後に伯父が相続した土地は売り払い、そのお金は叔父が独り占めした。旧憲法の長子相続というのは、長男が財産を相続するが親の面倒も見るという約束だったはずだ。オヤジは一銭ももらわずに、祖母の面倒を死ぬまで見た。
おっとすでに新憲法の時代であったが、なぜかオヤジは長男が相続するのが良いと言って、叔父・叔母を説得した。伯父は大喜び。その後、オヤジは叔父・叔母そして母から憎まれたが、明治の男は兄を立てたことに誇りを持っていた。解せね。

私にはオヤジが誠実で親孝行な人とは思えない。家族を犠牲にしてナルシシズムに酔うアホとしか思えない。


オヤジはなぜか当時の町長と仲良くなった。町長は農家だったので、農繁期はオヤジは家族を率いて町長の家に手伝いに行った。無償のボランティアである。オヤジが親分にほめられるために、一家が休みを返上しなければならないというのは納得いかない。(その後、町は郡山市に吸収された)
とにかくオヤジは普通の労働者であったのに、地域の役とかになりたがり、そのしわ寄せは常に家族に来た。
自分が周りから好かれるために、家族に犠牲を強いるとはダメ人間だ。


東京に豆腐を買いに行ったという伝説ならぬ史実もある。
1950年代末の夕刻、オヤジが豆腐を買いに行くといって家を出た。当時、豆腐は豆腐屋で買う。大きな水槽の中にでかい豆腐があり、客が買いに行くとそれを切って客が持ってきた鍋に入れてくれた。
だからオヤジは手鍋を持って歩いて10分ほどの豆腐屋に行った……はずだった。
だが、それっきりオヤジは行方不明になった。母が心配して大騒ぎとなり、近所の人にも頼み探し回った。だが見つからない。

数日してオヤジは帰ってきた。当時私は小学校に入ったか入らないくらいだったので、詳細は分からなかった。少し大きくなってから母が説明してくれたことによると、親戚か地元出身の人の縁談をまとめるために東京まで行ったのだそうだ。母に東京に行くと言うと止められるから、豆腐を買いに行くといって出かけたのだという。

もちろん仲人をしたわけでなく、そういう大役は地域の顔役に譲った。それにより顔役や地域の人に、良い人だと思われるのだと言う。凡人である私には理解できない。
母は話しながらため息をついた。我が家ではそれは「東京に豆腐を買いに行った話」として語りつがれた。
他人の縁談をまとめようとして、自分が離婚の危機になったというアホな話である。


オヤジはすぐに暴力をふるった。明確なルールがあって、それを超えたら暴力をふるうというなら、良し悪しはともかく論理的だと思う。下の者も対応策がある。
ところがオヤジのルールというものははっきりしておらず、そのときオヤジが感じたことがルールだから、あるときはOKでも、別のときはNGになる。ゲンコというのはめったになかったが、往復ビンタは毎度のことだった。さすが海軍下士官

子供の行動はオヤジが決めた。何を着るか、遊びに行く・行かない、すべてはオヤジが決めた。まず放任とは対極であった。

そういうオヤジは今から70年前の日本ではスタンダードだったのだろうか? この本を読むと私の子供時代を思い出し、どこも同じだったのかとため息をつく。

暴力を振るわれて育った子供は、どういう大人になるのかという研究はいろいろある。暴力を受けた子供は教育には暴力が必要と認識して、自分の子供にも暴力をふるうという説もある。
私は子供ができたとき、絶対に子供を叩かないようにしようと思った。少なくてもオヤジのようにルールなき統治はいけない。人治ではなく法治でなければならない。

私は娘を殴ったことは一度もない。息子が小学低学年のとき駄々をこねて、私が座布団を投げたことがある。座布団が当たっても痛いはずはないが、既に40を過ぎた息子は、今でも私に座布団を投げつけられたという。たった一度座布団を投げたことが何十年も言われるのでは割に合わない。
もっとも「巨人の星」で星一徹のちゃぶ台返しは一度しかなかったが、多くの人は何度もしたように記憶しているのではないだろうか。

圧政下において人間の選択は三つになると思う。
ひとつは無気力になって、支配者が言うままになる。ひとつは面従腹背、権力者がいる間は言うことを聞き、いなくなると文句を言う。ひとつは公然と反旗を翻し殴られようと反抗を貫く。

我が家ではきれいに三つに分かれた。妹は無気力となり、母と下の姉は面従拝復、上の姉と私はレジスタンスである。なぜ一緒に暮らしていても結果が異なるのか? ともあれ子供たちの性格が三分化されたのは、私はオヤジの影響だと信じている。
今は我が一族もほとんど死に絶え、生き残っているのは上の姉と私だけだ。偶々なのか理由があるのか、生き残ったのは殴られても殴られても親父に反抗した人間だけだ。

著者にも姉と兄がいたそうだ。姉は著者が物心ついたころには既に嫁いでおり、本書の中には登場しない。兄は面従腹背タイプで著者は反抗タイプとある。著者の家庭でも反抗タイプの著者が最後まで生きた。


もうひとつ著者と私の父親の共通することがある。それは子供に対する無関心だ。
著者は父親と会話したのは年に何回か数えられるほどだと書いている。
私の場合はそれよりも多かったが、今でも覚えているのは結果しか言わない人だった。学校のテストで点数が悪いとか走るのが遅いと子供を責めた。だがオヤジは勉強しろとは言わなかったし、かけっこを頑張れとも言わない。もちろん子供に勉強を教えることも、いっしょに駆けっこをしたこともなかった。
外で他人の世話をするので忙しかったのだろう。自分の評判は家族よりも重要だったのだろう。私のテストの結果も駆けっこの順序も、私にとってより世間体が悪くなることを懸念したのだろう。

オヤジが暴君だと、どの家庭も苦労する。
そしてそれはおかしいと考え反抗するには、自分の意志を強く持たねばならない。それには自我を確立しなければならない。自分の意思を持って考えなければならない。
当然その人が考えるとき、主語は自分になる。考えも行動も文章も、受動態でなく、能動態になるだろう。


私はロシア語とも中国語とも縁がないし、日本人以外の子供と遊んだこともない。だが常に能動態で話す、主語のない文章を書かない・話さない、俺が俺がと前に出るということは、著者と共通していると感じた。
もっとも主語のない文章を書かないのは、仕事で会社規則を大量に書いたが、そのときの上司が主語のない文章なんてありえないといつも語り、主語がないと会社規則だけでなく報告書でも週報でも即差し戻しにされたからもある。

うそ800に書いている文章に、主語のないものが多いぞと言われるかもしれない。これはすべてに主語をつけると、普通の人が読むと煩わしい。それで、いったん書いた文章を読み直し、なるべく主語を減らすように努めている。
私の小説もどきはすべて、文章の前に発言者の絵田中を付けているのは、発言者を明確にするためであり、台本のようなものだ。普通の小説のように発言者が誰かを、読者に推察してもらう書き方をしていない。

私の主語を漏らさない、俺が俺がという態度(それとも性格?)は子供のころからで、周りから変わっていると思われていた。
だから著者が一般日本人と違ったのは、ロシア語と中国語とちゃらんぽらんだったからとか、日本人の子供と遊ばなかったとか書いているが、私は専制的な父親の影響が大きいのではないかと思う。


著者が主催する英語教室で、初めての人に日本語で自己紹介のスピーチをさせたそうだ。不思議なことに、日本語で皆の前で話すことができなくて、教室をやめてしまう人が多いという。
ギター 話す人でも「私は森山良子です。ギターを弾いて歌うのが好きです」程度で終わってしまうという。
せっかく話すなら自分を売り込もうとか、自分の良いところをアッピールしようとか思わないのかと、著者は不思議がる。話すべきことがないなら、日本語でも英語でも話ができない。

それから著者はアメリカ人から聞き返されたら、自分の英語が悪かったのかと考える前に、大声で同じことをもう一度言えと書いている。聞き返されるのは、多くの場合 単純に聞こえなかったからだという(p.316)。それを単語が…文法が…発音が悪かったのではと考えすぎて、卑屈になることはないと語る。
それは単に英会話に限ったことではなく、彼女は自分の発言は正しく、聞き取れないのは聞く人の問題と考えているからではないのか?


私の経験では偉い人ほど小声で話す。俺は偉いから傾聴せよなのか? あるいは俺の話すときは静かにしろという意味なのだろうか?
自分の話を聞いてほしいなら、聴講者が聞き取れるように大声で活舌よく話さなければ、聞こえないと言われて当然だろう。
ISO審査で審査員がボソボソと話したなら、聞こえないからはっきり話せと言い、それでもダメならチェンジで良いだろう。会話が苦手なら審査員に向かないのだから。

講演会などで、ご質問ありませんかと声がかかれば、私は必ず手手を挙げる。
理由?
30分も真剣に話を聞いていれば、おかしなところ、矛盾、ツッコミどころはいくつもある。そういった疑問を解消しなければ心が落ち着かない。質問するのがただなら聞かにゃ損々である。
講習会で聴衆の前で話者が間違いを認めれば、横綱から金星を挙げたようなものだ。いや自慢するのではない、多くの人が間違えるのを防いだのだ。


著者は、英語を学ぶには語彙とか文法よりも、まず英語の音を聞き取れること、英語の音を出せることと語る。
だがその前に、アグレッシブな態度、前に出るという意思、コミュニケーションをしたいという欲求が必要だ。そのためには、自分が考え発言する姿勢が必要なのではなかろうか?

もちろんそのためには好奇心も必要だ。知りたい、違いは何か、自分との関わりは、そういう精神的な活性化も必要だ。
英語だけでなく、日本語で生活するうえでも、そういう積極性、好奇心、億劫がらないこと、それは人間として必須要件ではなかろうか。
それはオヤジへの反発で育成されたのだろうか?

著者が何か事あるたびに父親の言行を振り返るのは、父親の影響が大きいことを暗黙のうちに感じているからではないのだろうか?

普通、私は本を読むとこの人はこんなことを体験してこんな風に思ったのだろうという受け取り方をする。距離があるというか、ある程度 客観的にみられる。
だがこの本を読んでいると子供時代を思い出し、……我がことのようにではなく……我がことと感じ胸が苦しくなる。


彼女は英語が話せるより、自立することが重要とみている。
「何歳から英語教育をすべきか」という問いに「まずは子供の自立の訓練」と答える。英語を話せることが大事でなく、英語が話せなくても自立して生きていけることが大事だ。いや自立しなければ英語だけでなく日本語が話せないのだ。



うそ800 本日の評価

私はこの本を読んで感動したのではない。ショックを受けた。
もうちりあくたに風化したと思っていたオヤジとの関係を思い出してしまい、70歳になってやっと平静になれた心を大きくかき乱された。この本は今年になって私が読んだ175冊の中で、最もショックを受けた本である。

私とは付き合えないなと思われた方、それは正しい。私は付き合って楽しい人間じゃありません。

別件だが、どう考えても400ページは長すぎる。200ページくらいにまとめて欲しい。





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