お断り
このコーナーは「推薦する本」というタイトルであるが、推薦する本にこだわらず、推薦しない本についても駄文を書いている。そして書いているのは本のあらすじとか読書感想文ではなく、私がその本を読んだことによって、何を考えたかとか何をしたとかいうことである。読んだ本はそのきっかけにすぎない。だからとりあげた本の内容について知りたい方には不向きだ。
よってここで取り上げた本そのものについてのコメントはご遠慮する。
ぜひ私が感じたこと、私が考えたことについてコメントいただきたい。
最近はISO認証に関する書籍の発行は珍しい。私は気分とか感じではものを言わない。
ISOMS規格と言っても増殖する一方なので、ISO本の発行点数を10年前と現在を比較しようないから、データの継続性を持たせるためMS規格のメインであるISO9001とISO14001に関する毎年発行された書籍の点数を数えている。
私が過去より取っているデータは下図のとおりである。
注:赤線は近似線である。
ちなみにISO9001の改定は1994年・2000年・2008年・2015年、ISO14001の制定は1996年、改定は2004年・2015年である。
図で見る通り発行される書籍点数は、過去20年間減少を続けており、最近5年は年に10点もない。
と言っても環境法規制の本は毎年最低2点発行されているから、規格の解説とか認証についての本はそこからふたつ引かねばならない。
図で分かる通り規格改定があった翌年には多くの解説本が発行されるが、それ以外の年は低調である。しかも年とともに規格改定時のピークが低くなっている。次回規格改定があっても10点ほどしか発行されないのではないだろうか?
それだけ日本ではISO認証への関心がなくなってきたということだ。
いや、日本ではISO認証の必要性がなくなったと言うべきかもしれない。
ISO9001/14001以外については調べていないが、同様であると推測する。興味のある方は調べてみてほしい。
ISO本は3,000部売れたらベストセラーと言われていると聞く。実際の認証件数を見ても、ISO9001が最大で22,000件、次点のISO14001が12,600件で、これだけでJAB認定の認証件数の94%である。3位以下を全部合わせても2100件、全体の5.6%しかない。
3位はISO22000が1,300件で、3位以下の62%を占める。4位以下のMS規格の認証件数は数百とか数十という数字である。認証件数0件というISOMS規格もある
認証件数が数百なら、その規格の解説書が3,000部売れるとは思えない。
このような現実を見れば、ISO認証業界は事業の持続可能のために、減少する理由を追求し抜本的な対策しなければならないと傍目で思うのだが、そのような活動をしている風には見えない。
認定機関も認証機関も審査員登録機関も審査員研修機関も、はたまた審査員、コンサルタントは手をこまねいて認証制度の終末を待つのだろうか?
現役時代、企業の側でISO認証に関わってきた私としては、ISO認証制度の行く末に非常に興味を持っている。
おっと見ているのだけでなく、種々の提案や檄を私のウェブサイトで20年以上発信してきた。まあ、影響力はゼロだとは思う。
そんな低調な状況であるが、何か新しい情報はないかとネットを彷徨い、認定機関・認証機関は定期的に巡回し、書籍が発行されていないかと出版書誌データベースも月1回はチェックしている。
なにしろ年に数冊しか出版されないので見逃してはいけない。
8月上旬に出版書誌データベ−スをチェックしたら、「ISO維新」という本が8月1日に発行されていることを知った。
ちなみに2024年の年明けから7月末までに発行されたISO9001/ISO14001に関する書籍は、これを含めて4点であった。下期も同様と仮定すれば2024年の予想発行点数は7点となり、4年ぶりに
書名 | 著者 | 出版社 | ISBN | 初版 | 価格 |
★ISO維新★ | ★萩原睦幸★ | ★星雲社★ | ★9784434343148★ | ★24/08/01★ | ★1,500円★ |
この本の著者、萩原さんには10年ほど前にISOの何かのイベントでお会いして、短時間だがお話を伺ったことがある。そのときは審査を受ける側に理解がある方だと思った。
久しぶりに出たISO本なので、すぐにアマゾンで注文した。家に届くと、まえがきから奥付まで通して二度読んだ。
読んだ感じをひとことで言えば、感動はしなかった。いくつもの疑義を感じた。
そんなことを言うと、著者から怒りの鉢を投げつけられるかもしれない。だが私は嘘はつかない。
以下、読んで気付いたことを思いつくままに書く。
■著者の視点
まっさきに感じたことは、ズレているということだ。
何がどのようにずれているのか?
著者は長年審査員をされたし、認証機関の社長も務めた。じゃあISO認証とか審査の実態をご存じだろうか?
そりゃご存じだろうが、本を読むと審査員の視点、認証機関の視点しか見えてこない。
ISOの認証機関よりも認証を受けた企業は多く、審査員より企業側で審査を受けた人ははるかに多い。審査を受ける企業や従業員がISO認証に何を期待しているか、ISO審査をどう感じているか、そういう一般企業側の視点はまるっきりない。
この著者はいろいろ問題点を指摘し、改善案を考えているが、それはすべて認証制度側である認証機関や審査員の視点である。
私は一般の認証機関の社長や審査員はもっとズレていると感じているから、それに比べれば良いのだろうか?
■マネジメントシステムの構築とは
まえがきの第1ページにまさしく同意といえることが書いてある。
「示された骨組みはほとんどの組織に既に存在しているので、ISO要求事項の観点から日常の業務を整理すれば、それがマネジメントシステムとなるのである(p.3)」
しかし著者はいたるところで「マネジメントシステムの構築」という言葉を使う(p.3)。前の文章とマネジメントシステムの構築は矛盾するのではないだろうか。まさに理解不能、意味不明である。
著者に限らずISO認証制度側の人は、手軽というか
マネジメントシステムの定義を読んだことがあるのだろうか?
果たしてマネジメントシステムの構築とはなんだろう?
まずISOMS規格とは何かといえば、マネジメントシステムの規格ではない。
驚く人はいないと思うが、タイトルにそう書いてある。ISO9001:2015のタイトルは「品質マネジメントシステム−要求事項」である。要求事項とはこれを満たせという命令である。どのようにそれを成すかは受け手の自由だ。
ISOMS規格は設計図ではなく仕様書なのである。いや、正確には仕様書でもなく、ISOが思いついた必要条件を書いたものに過ぎない。必要条件すべてが入っているわけでもない。
そもそもマネジメントシステムとは組織に付随するものであり、構築するという発想があるはずがない。それは著者の「示された骨組みはほとんどの組織に既に存在している」と語る通りである。いや、正確には「ほとんど」ではなく「すべて」である。
マネジメントシステムを具備しない官公庁、企業があろうか?
システムとは何ぞや?
システムとは元々は「支配体制」の意味だ。軍事ではシステムの三要素を「組織、機能、手順」としている。
企業であろうと暴力団であろうと草野球チームであろうと、烏合の衆でなく体系立った活動をするには「組織、機能、手順」は必須要件であり、具備しない集まりは組織ではない。
ではマネジメントシステム構築とはなんだろうか?
ISO9000:1987の序文では「組織のシステムに不具合があれば(中略)顧客の要求を一貫して満たすことの補償となり得ない」とある。
ISO14001:1996の序文では「既存のマネジメントシステム要素を当てはめることは可能である」とある。
可能と訳された原語はpossibleであり「可能」でなく「できる」と訳すべきだと思う。
要するにISO規格要求を果たすために何かをするのではなく、ISO規格要求を満たすために現状のマネジメントシステムから該当する事項を抜き出して説明せよと解する。
このようにISOマネジメントシステム規格が制定されたときから、組織には必然的にマネジメントシステムが存在すると認めているのだ。
なぜ構築という言い方が成り立つのだろう?
規格の中で「構築」に当たる原語はである。「development」は「構築」なのか?
私は意味が通じないと思うときは英英辞典を引くことにしている。ネットにはアメリカでもイギリスでも沢山の英英辞典でも語義辞典でも存在する。原文はマネジメントシステムの構築と語っているのだろうか?
英英辞典や英文の語義辞典を見ると「development」は「the process in which someone or something grows or changes and becomes more advanced」とある。直訳すると「何かが成長したり変化したり、より進歩したりする過程」である。
他方、日本語の「構築」の意味は、国語辞典によると「物事を組み立てる、または形成する行為」とある。「改良する」という意味はないようにみえる。
「構築」(実用日本語表現辞典)
構築とは、物事を組み立てる、または形成する行為を指す言葉である。具体的には、建築物を建てる、システムを作り上げる、理論を組み立てるなどの行為を指す。構築は、計画的に行われ、目的や目標に向かって進行する。
なお「構築」に当たる英語は「build up」であり、「development」は出てこない。
考えてごらんなさい。デベロッパーって何よ? 土建屋のことでしょう。
それを構築と訳したのが間違いだと思う。
構築としたから、認証しようとすると「今までマネジメントシステムがなかった、さあマネジメントシステムを作るぞ」となるのではないか?
実際にコンサルも審査員もそう言っているからね。
せいぜいが「マネジメントシステムの補強」あるいは「改善」ではないのか?
そう表現すれば、初版の序文にあった「組織のシステムに不具合があれば……」とか「既存のマネジメントシステム要素を当てはめる……」という文言と矛盾なくつながるのだ。そして企業の人は納得しやすいし、その方法で認証活動を行うことは無駄なく無理のないアプローチだと思う。
つまり現状のシステムとISOMS規格を対比して、不足があるかを確認することだ。
私の尊敬する某外資系認証機関の引退した幹部は、その方法を「カルタ取り」と呼んで推奨していた。
広い部屋に会社の文書、要領書、記録、帳票を広げて、規格要求に見合ったものを拾い集めて規格のshallを満たしているかを確認せよと語った。
私はこれがもっとも正統な認証のアプローチだろうと思う。
私は初めからそういうアプローチ以外したことがない。なんとなれば、ISO9001を特別なものと思っておらず、それまで付き合ってきた顧客要求への対応と同じ方法で処理してきたからだ。
ハッキリ言って、顧客からの品質保証要求事項を見て、自社の品質保証体制を変えなければと思う品質保証屋はいないだろう。
自分の会社の仕組みが、買い手の要求することなどとうに満たしていると考えるだろうし、それを説明すれば良いと考えるのが普通の人だ。
ならば、ISO規格のshallをみて、この要求は過去からある会社のルールのどれが該当するかと考えるはずだ。
私はISO9001に出会ったときそう考えてたし、ISO14001だって同じく対応した。
だからマネジメントシステムの構築と言う人の話は、眉に唾して聞くことにしている。そう語る人はマネジメントシステムを理解していない。
つまらないことと言って欲しくない。多くの企業がISO規格を基に会社の仕組みを見直しているという現実を見れば、この表現がおかしいことが分かる。現状を基本にそれを改良するという発想で取り組まなければ、良いものにはならない。
この本がマネジメントシステムの構築から始まるということは、もうダメだなと思った。ISO維新どころか、徳川の幕藩体制の護持ではないか。
■ISOMS規格認証の価値はすごいものなのか?
著者は「ISO認証を(中略)製品やサービスの品質以外の倫理的な面までお墨付きを与えられるととらえたらどうか(p.15)」と語る。
著者は冗談を語っているのか?
ISOMS規格とはそんな立派なものなのですか? ISO認証とはそれほど威厳のあるものなのですか?
ひょっとすると審査員は僧侶、神主あるいは神父で、認証機関は社寺であったのか? ならば審査員は、不邪淫、不飲酒、不殺を守っているのだろう。
ちょっと古いがISO/IAFの共同コミュニケというものがある。そこでは
よく読めば「認証は何も保証しないし裏付けもしない」と語っているに過ぎない。
上記の共同コミュニケ以外のメリットを掲げるのも結構だが、認証を倫理的なお墨付きだと自称するなら、その責任は認証機関/審査員が負うことを忘れるな。
ISO9001認証とは「品質を保証すること」ではなく、「規格要求を満たして製品が作られたことを保証すること」である。
注:上記の「規格要求を満たして製品が……」を「規格要求を満たした製品が……」と誤読しないこと。
製品が良いとひとことも語っていないし、製品が規格要求事項を満たした設計・製造されたなら製品が良いと保証するわけでもない。認証を受けても企業は製品についての補償は全責任を負う。
過去現在、いくつもの不祥事や欠陥が発覚したISO認証企業がある。それらの企業を認証した認証機関/審査員が、間違えて認証を与えたことを社会に詫びたとか責任を取ったという話は寡聞にして聞かない。
これから正々堂々と認証は倫理的なお墨付きだと語るなら、お墨付きが誤ったなら認証を与えた機関はその責を負うことは絶対である。私が言うまでもなく、論理的にそれは当然のことだ。
審査で嘘をつかれたと言わずに、己の未熟を表明し責任を負わねばならない。
その裏付けのない認証を倫理的なお墨付きだというのは、論理的に誤りであり責任感があれば口にできないのではないか。
注:「お墨付き」とは、権威や地位のある人からもらった保証や許可のこと。
見せても効力がなく門前払いなら、それはお墨付きではない。哀れ、天一坊のように殺されてしまう。
話はそれるが、IBM社は環境優良企業と言われている。IBM社は1990年頃から環境報告書を発行し、そこに社内犯罪や会社の事故や違反で払った罰金などを環境報告書に記載した
多くの人はそれを素晴らしいことだと褒めたたえた。
あれから30年経つ。IBM社は今も環境優良企業と評価され、CSRレポートと名は変わったが、報告書の中に今も罰金や社内犯罪を記載している。
環境に限らず全般にわたって優良な企業であるIBMが30年かかっても社内犯罪も事故も起きているという事実をどう見るか?
私は偉大だと思う。
同時に神ならぬ人の身、できないことはあるのだ。
ハッキリ言おう。たかが認証機関風情が「ISO認証は、製品やサービスの品質以外の倫理的な面までのお墨付きだ」などと語ってはいけない。
いや大いに語っても良い。己の判断を誤ったときは、腹を切る覚悟はあるのだろう。
間違っても、審査で嘘をつかれたと語るな、
そしてここからが大事だからしっかりと読むように
もしIBMを褒めるなら、不祥事を起こしてもしっかりと是正している企業なら……不祥事がなくならないとしても……すばらしいと言わないとおかしい。
ただ一度、不祥事を起こした企業を叩くのが認証制度のオヤクソクなのか? 不祥事を起こしたからISO認証停止、ISO認証取り消しなんてのが、毎月のごとくJABのウェブサイトに載っているが、そこんとこどうなんだ?
■認証の価値
著者は語る。「昨今、認証の価値が、かなり低下している(p.82)」
経産省から「マネジメントシステム規格認証制度の信頼性確保のためのガイドライン
それによって認証業界はアクションプランなんてのを出したが、その成果報告は未だにない。まさにPDCAを忘れた団体である。そんなところの審査を、信用できるのかな?
著者も認証の価値を上げようと叫ぶ、結構なことだ。
多くの人は認証の信頼性と語っている。それも結構なことだ。
だが、ちょっと待ってほしい。
信頼性とは何ですか?
価値とは何ですか?
著者は「認証の価値」とは何かを、はっきりしてほしい。それは、事故発生率、犯罪発生率などで数字で表せるものなのか、アンケートなどで得られたISO関係者/一般人/学生などの持っている印象なのか、認証件数のことなのか
それをはっきりさせないと価値を上げる方法が決められないだろう。
おっと、その前に認証の価値が本当に低下しているのか確認しないとならない。もちろん非認証企業との違いも見る必要がある。
10年近く前だが、当時JABにいた中川某が定例の審査員研修会で「認証の信頼性は認証件数だ
あのときは、笑ってしまったよ。
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とにかく信頼性なり価値なりを定義して、その指標をはっきりさせないと、価値が下がったのかさえ分からないのだ。
著者が言うように、正しい解釈を徹底させれば価値が上がるのか、審査員の力量を上げれば良いのか、それを考える前提である。
著者は「認証の価値がかなり低下している」と語るのだから、認証の価値を把握しているに違いない。
そして指標がはっきりしているなら、対策ははっきりするだろうし、改善効果も定量化できるはずだ。
それをはっきりさせずに堂々と語るのは、おかしいと思わないとおかしい。
■「ISOの大きな効果の一つが、構築されたシステムに従えば求める製品の品質やサービスが顧客に提供されるというメリットだ(p.26)」
これは本当なのか?
「構築されたシステムに従えば求める製品の品質やサービスが顧客に提供される」とは、規格のどこに書いてあるのか?
共同コミュニケとの関係はどうなのか?
ISO9001:2015の序文0.1にある「この規格で規定する品質マネジメントシステム要求事項は、製品及びサービスに関する要求事項を補完するものである」と矛盾するのではないか?
マネジメントシステム規格は管理技術であって、固有技術ではない。
勘違いしてはいけないが、ISO9001認証とは「製品やサービスの品質を保証すること」ではない。「製品・サービスが規格要求事項を満たした設計・製造体制(システム)で供給されることを第三者(認証機関)が確認したこと」でしかない。
■「仕事の標準化(p.26)」
細かなことで恐縮だが、ISO9001は標準化しろとは言っていないように思う。
いずれのISOMS規格も、暗黙知を形式知(文書化)にすることを求めているに過ぎないのではないか?
■「(文書体系の)最上位に「マネジメントマニュアル」を位置づけ、このマニュアルではすべて表現できない場合には「下位規定」を作成することでカバーできる。(p.38)」
注:印刷された文章は「すべ表現」とあるので、「て」を脱字とみなして追加した。
まず「マネジメントマニュアル」とは何だろうか?
分からないので「品質マニュアル」あるいは「品質システムマニュアル」と呼称されているものとして考える。
「品質マニュアル」が最上位の文書とは不思議である。「環境マニュアル」あるいはその他の「○○マニュアル」より上位にあるのかな?
そもそもISO9001なら品質マニュアル、ISO14001なら環境マニュアルなるものが、最上位の文書とはどういう理屈なのだろうか?
私は品質保証業務に就いて、ISO9001登場以前に、顧客の品質保証協定対応で「品質マニュアル」なるものをたくさん書いた。
いずれも最上位の文書などではない。顧客要求に対応するための社内の仕組みを説明する文書の位置づけとしては、パンフレットレベルの代物である。
ISO9001が登場してからはISO9001対応のマニュアルを書いたが、それも当然社内において「文書」なる位置づけではなかった。ISO9001も含む顧客要求に対応する仕組みと方法を記した説明文書である。
私は他社のマニュアルをたくさん読んだが、当社の最上位の文書であると記されたものは多々あった。それは真実だろうか?
法律の最上位は憲法かと言えば、位置づけはそうかもしれないが、規定する内容の上下関係はそうではない。基本法があって、そこで定めた項目について具体的に展開するものが法律であり、更に展開して施行令や省令がある。
それらはお互いに上位文書、下位文書が明確であり親子関係も辿れる。
ISO用のマニュアルで引用する手順書は、マニュアルを基に制定されていない。マニュアルは規定の親の位置づけではなく、規定の要約あるいは解説書なのである。
よって上位文書というのは事実と異なる。
注:「手順書/手順」(原文ではprocedure)とは、法律で会社内部の規則を定めた文書を呼ぶ
手順書はシステム文書であり、作業手順などを記した文書は指示書(instruction)と呼ぶ。
注の注になってしまうが、
「範疇語」とは、同じ性質や特徴を持つものが含まれる範囲やカテゴリーを指す言葉である。例えば、は犬や猫、鳥などを指し示すとき動物と呼ぶが、これが範疇語である。
ダメ押しであるが、過去のISO9001規格において、品質マニュアルの要求は次のとおりである。
★「ISO9001:1994 4.2.1
供給者は、この規格の要求事項をカバーする品質マニュアルを作成すること。品質マニュアルには品質システムの手順を含めるか、又はその手順を引用し、品質システムで使用する文書の体系の概要を記述すること。」
★「ISO9001:2008 4.2.2品質マニュアル
組織は、次の事項を含む品質マニュアルを作成し、維持しなければならない。
a) 品質マニュアルの適用範囲、除外がある場合には、除外の詳細、及び除外を正当とする理由
b) 品質マネジメントシステムについて確立された"文書化された手順"又はそれらを参照できる情報
c) 品質マネジメントシステムのプロセス間の相互関係に関する記述」
2015年版ではもちろん品質マニュアルの要求はなくなった。そして忘れたかもしれないが、ISO9001:1987ではマニュアルの要求はなかった。
そもそも、品質マニュアルは何のためにあるのか? 1987年版では要求されていない。それが1994年で要求されるようになったのは、ISO9001が二者間の取引で使われることより、第三者認証がほとんどとなったことであると思われる。
1987年版の序文では規格を使用するにあたっては実際に合わせた修正(tailoring)をせよと繰り返して注意喚起している
要求事項に修正がなければ、規格対応の説明書(つまりマニュアルだ)を用意してもらえれば審査は極めて簡単に行える。それこそがマニュアルの存在目的なのだ。
マニュアルは審査員のためのものであり、受査企業にとっては意味のないものであり、最上位の文書という発想はあり得ない。
私は社内の人に「○○マニュアルを読め」と語ったことは一度もない。会社の手順書をしっかり読め、その通り仕事をしろとは常々語った。
おっと、それはISOと関係なく重要なことだ😄
■「下位規定は少なくし、できるだけマネジメントマニュアルに盛り込む方がベターだと思われる(p.39)」
ナンセンス以外の何物でもない。前述のようにマニュアルそのものが必須でない。
認証を受けようとする企業としては、余計なマニュアルなど作りたくない。手間がかかるし提出するのも面倒だ。
ISO規格要求にないために、今現在マニュアルの提出を必要とする認証機関は、審査契約書(あるいはイクイバレント)の中でマニュアルの仕様を記して、その作成と提出を求めている。
まさかマニュアルの提出を求める認証機関は、レベルが低いわけではないと思うが?
必要ない文書を作って、そこに会社の仕組みをすべて書き込んで、手順書をなくすというのがまっとうであるはずはない。
20年も前から疑問に思っているのだが、審査員は企業の文書体系とか、文書管理の基本を学んでいるのか?
■「複数の規格からなる統合マネジメントシステムの運用となれば、全社員が"複数のシステムを同時に考える習慣"をつけさせることが重要になる(p.48)」
全く持ってワカラン。そんな複雑なマネジメントシステムの組織なら所属員は余計なことを考えないと動けないじゃないか。
そもそも著者は「さまざまな側面が複雑に絡みあい、同時進行している(p.31)」と書いているじゃないか。
マネジメントシステムはただ一つしかない。いやそんなこと、私が言うのではなく、ISO規格の定義である。
ISO14001:2015の定義のトップ3.1.1「マネジメントシステム:方針、目的、及びその目的を達成するためのプロセスを確立するための、相互に関連する又は相互に作用する、組織の一連の要素」
環境マネジメントシステム(ISO14001:2015 3.1.1)も、品質マネジメントシステム(ISO9000:2015 3.5.4)も、その他のマネジメントシステムも、すべてマネジメントシステムの一部なのだ。
それらの規格の定義に書いてあるのだから異議はないだろう。
なんで元々ひとつのものを分解し、それぞれの対応を考えるのか?
ISO9001や14001は認証するために分解したに過ぎない。本来なら一体のものを一体のままに扱うべきなのだ。従業員が神経衰弱になるような仕組みや運用は誤っている。この仕事はこうやれと品質も環境も安全もなにもかも、ひとつの手順書/指示書に書き尽くすのがあるべき姿なのだ。そして現実の多くの企業はそのようにしている。そうしなければ有効で効果的な運用ができないからね。
■「当該組織がISO認証に値するかどうかは、組織の現状をよく理解している当該審査員により判定されるのが、一番理にかなっている(p.82)」
それは30年前からしている審査方法とは何が違うのか? 過去30年間していた方法で、価値が下がっているという<具体的事実>に対応しているのか?
素人考えだが、過去30年間してきた方法で審査することは、どう見ても代わり映えないとしか思えない。
それが理にかなっているという、根拠は何だ? 証拠は何だ?
■「最高ランクを3年間維持した組織に「特別賞」などを用意する(p.83)」
失礼ながら笑ってしまった。そういう制度設計のものはありました。デミング賞と言います。
初期のデミング賞受賞企業に倒産だったと思うが不祥事があったため、それ以降は財務、遵法など徹底して調査して、問題ないと判明した企業に授与することにしたそうだ
ISOMS規格はそういう性格のものではないはずだ。まあ、ミニ・デミング賞でもいいけど、それは今のISOMS規格とは全くの別物だ。
認証はプライズなのかライセンスなのか、それを議論するなら現行と全く異なる制度設計と審査基準が必要となる。
アイデアが閃いた利益を上げ不祥事を起こさない企業を、ISO適合と判断したらすべて解決するのではないか。
■「戦争がとんでもない環境破壊を引き起こす(p.111)」
わざわざ言うまでもなく、それは30年前の「リオ宣言」の第24原則である。
おっしゃることは立派だが、一体何を言いたいの?
一般企業に何をしろと言うの?
ISO認証企業に不戦、反戦の宣言でもさせるの?
したところで屁の役にも立たない。
世界の首脳が立派、立派と語ったリオ宣言(注7)は、過去30年間まったく無力だった。もちろんウクライナでもパレスティナでも、
この本に書いたのは何をしたかったのか、さっぱり分からない。
ISO規格に、あるいは品質マニュアルに反戦を書けば、戦争は起こらないなんてことは絶対にない。
■末尾は各規格について論じている。
二三お聞きしたい。
★「認識はマネジメントシステムの理解徹底を意図しており(p.157)」
「認識」とはそういうものだったのか?
認識すべきものは、規格7.3に箇条書きされているものであるのだが、私はそれを著者がおっしゃるように深淵で高尚でゆゆしいものとは考えていない。
規格は組織で働く人すべてに認識を求めているが、今日しか働かないアルバイトに理解徹底は望むべくもない。それにさ、マネジメントシステムの理解を図って、何が良くなるのさ?
現場の監督者であった私としては、いっときの手伝いの人にも絶対に理解してほしいものがあった。
それは「仕事の目的、その人のなすべきこと、正しい仕事の方法と仕上がり程度、異常が起きたときの対応」である。奇しくも規格に書いてある4項目と全く同じだ。
だが私の考えるそれは、著者が語るようなマネジメントシステムの理解を徹底しろというほどのたいそうなものではない。だが今日しかいない人にも知ってもらわないと困ることだし、知らなければ仕事をしてもらっては困ることなのだ。
私は規格を理想視するとか拡大解釈するのではなく、現実的に読むべきだと思う。
★「著しい環境側面を決定し、その中から環境目標を決定する(後略)(p.162)」
環境目標は著しい環境側面の中から決定せよと、規格のどこに書いてあるのだろう?
規格を読めば、環境目標は環境方針の具現化、展開であることが分かる。環境方針とは経営者の意志であり、それを実現するために環境目標を決めるのだが、そのときに環境側面その他を考慮しろということなのだ。
目的は環境方針の実現だ。そうでなければ環境方針は、絵に描いた餅になってしまうじゃないか。
「環境方針」の定義(ISO14001:2015)
トップマネジメントによって正式に表明された、環境パフォーマンスに関する、組織の意図及び方向付け。
「環境目標」の定義(同上)
組織が設定する、環境方針と整合の取れた目標。
注:英英辞典をみると考慮の原語take into account は considerと同義のようだ。下記参照
08/22追加
規格においてはconsiderは除外ができるが、take into accountにおいては除外できないとするものもある。
cf.「ISO14001:2004要求事項の解説」寺田 博、日本規格協会、2005、p.92
今の議論においては必須か否かが問題ではなく、環境側面と目標の関連であり影響はない。
USのGoogleでtake into accountの例文を検索すると次のようなものがある。
英文の例(おばQ訳)
・試験のとき私が病気だったという事実を考慮してほしい(参考情報)
・建築家は建物の周囲の環境を考慮する(制約条件)
・彼は若いということを考慮すべきだ(裁量)
なおUS Googleでtake into account lawsを検索すると、法規制を受けることではなく、法規制を参考にそれ以外のケースを考える場合である。
以上からtake into accountされる<もの>は、目標(object)となる<もの>ではないと考えられる。目標決定の際の参考情報であり、制約条件であり、実行に当たっての裁量である。
今までの話をご破算にして、説明を変えよう。
環境側面の定義は「環境と相互に作用する、又は相互に作用する可能性のある、組織の活動又は製品又はサービスの要素(ISO14001:2015)」である。
素直に考えて、組織の活動又は製品又はサービスの要素が環境目標になるのだろうか?
環境側面は要素であり、目標とするにはそれを変化させたり、量を変えることになるはずだ。
そりゃ、その環境側面を改変することを「その環境側面を目標とする」と表現することがあるかもしれない。しかしそれと「著しい環境側面を決定し、その中から環境目標を決定する」とは意味が違うだろう。
となると、どう考えても環境側面を目標にすることはあり得ない。「環境側面から目標を決定する」というのはおかしいとしか思えない。
定義された言葉を正しく使えないなら、それは定義を理解していないからではないのか?
蛇足である(08/22追加)
今の話の逆を考えると、環境目標が環境側面になることはない。
有益な環境側面と称するものの大半は、環境改善活動を環境側面と勘違いしている。
植林、社会貢献活動、省エネ機器への更新を「有益な環境側面」としているコンサルや企業は多い。
笑ってしまうのは、洞爺湖サミット(2008)頃、有益な環境側面として蛍光灯電球が取り上げられたが、2020年はLED電球が有益な環境側面で蛍光灯電球は有害な環境側面になったようだ。
本日の著者へのお願い
ISOの「信頼性」でも「価値」でも、語るならそれを定義しよう。ISOの価値とは株価なのか、ブランドイメージなのか、株価なら東証の取引値とか、ブランドイメージなら指標は何か?
そして定量化しよう。信頼性なら認証件数で事故発生件数を割るとか決める必要がある。
議論をするなら、そういう前提条件を明らかにして始めてほしい。定義もせず定量化もしないで、「低下している」とか「増えている」という言い方はない。
「〜と言われる」とか「決まっている」という表現には、出典や証拠を明記してほしい。この本には参考文献が一切載っていない。
定義なき議論は時間の無駄であり、証拠、根拠の記載のない議論はむなしい。
ちなみに本書の文字数は約88,000字である。この拙文は14,000字である。1冊の書籍の七分の一もコメントを書いたということは、それだけ真面目に読んだつもりである。
2010年、CEAR講演会、中川 梓 | ||
ISO9001:1987序文 最終段落 「これらの規格は、通常このままの形で用いることを意図しているが、時には契約の特殊性に応じて修正が必要な場合もあるかもしれない。」 | ||
・「日本的経営の興亡」、徳丸宗也、ダイヤモンド社、1999 | ||
いつもお世話になっております。ふとしです。 私の中で維新と言えば「明治維新」。 武士の時代が終わり、日本の近代化が始まる。 ISO維新という名ならば、さぞ革新的な内容なのだろうと本気で思いましたが、いつも通りでしたね。 一体何が維新なのか・・・ 「マネジメントシステムの構築」に関してですが昔、新しく旅客機を創ろうとしている企業様にお邪魔したとき「私がM菱のマネジメントシステムを構築したんだ!(原文まま)」と豪語している方がいらっしゃったのを思い出しました。 実際は規格書の語尾を替えた品質マニュアルを作っただけのようでした。 元々素晴らしいマネジメントシステムが存在していたはずなんですがね。 構築だの最上位文書だの環境側面の中から環境目標を決定だのダメダメのオンパレードですね。 著者側におばQ様のファンが居て、ホームページでとり上げてもらうために本を出したのではと疑うレベルです笑 とにかく「ISO維新」を名乗るのなら認証事業を撤廃するぐらいのことしないと駄目でしょう。 |
ふとし様、毎度ありがとうございます。 私は、1990年代初めにISO9001審査が始まったときはまだ良かったと思います。 確かに当時の審査員は傍若無人というか、暴言ところか文字通り暴力的でしたが、規格の理解はまっとうだった人が多かった。 いや、暴力はダメですよ。今ならパワハラとか暴行で警察の厄介になるような審査員が大勢いたのです。 ISO14001が始まると、品質保証なんて知らないどころか、環境それおいしいのって人たちが審査員になったのです。まさにホワイトカラーの失業対策です。(異議ある者、申し出よ) 環境側面は計算で決めるもの、法律知らないから法規制一覧表がないと審査できません、マニュアルに規格の用語がないから不適合なんてふかしていたのですから、もうダメポ そういうことを10年も続ければ、そりゃもう見放されますよ。 あげくに2000代初め、読売新聞などがISO審査員の「たかり・物乞い」を報道した。その結果、審査員がコンビニ弁当を持ってくるようになりました。 まあ、物乞いもいけませんが、でもあのとき新聞は審査の質が悪いことを叩くべきだったと思います。 いずれにしてもPDCAを回せない人たちが審査で語るのでは空虚そのもの。ふとし様のおっしゃる認証事業の撤廃ではなく、自然消滅なのかなと思っております。 認証件数の推移を見ていると、なかなか減らずしぶとくしがみついているようですが、 |
私の時代には、そんなに暴力的な人は居ませんでしたが、「昼食とタクシー送迎くらいは出してよね」というスタンスだったと記憶してます。 法規制一覧表も作らされましたし環境側面を点数票で計算(出来レース)し方針に〇〇って言葉がないから不適合だと真顔で言われたこともあります。 言ってて悲しくならないのか・・ ISO関係でお会いした人、100人くらい居たと思いますが、まともな人だな、仕事が出来るな と感じた人は2,3人です。 他の人は社内失業者とかそんなんでしょう。 仕事の中身も、会社に損害を与えるものばかりでしたね。 仰るように、あるべき姿は自然消滅なのかもしれませんが罪に対する懺悔として、早いとこ事業を撤廃して欲しいです。 あと見積の中に、しっかり「交通費」が入っていたのに、持って行かれたタクシーチケットを返してほしいです笑 |
ふとし様、毎度ありがとうございます。 お互い審査員には苦労しましたね。 暴力と申しましたが、殴りかかったとか企業の人の脚を蹴ったというのはありませんでした。しかし刑法では大声を出す、暴言を吐く、机を叩くなどは立派に暴行罪になります。そういうのは多々ありました。 記録を取りに行ってきますなんて10分も席を外すと、「遅い」なんて机を殴るのは珍しくありませんでした。文書保管が敷地の端の倉庫にあって物理的に30分くらいかかるのは仕方ないのですがね。10分なら全力疾走ですよ。 人の脚は蹴りませんでしたが、机の脚を蹴る審査員は多々いましたね。机の脚を蹴っても暴行罪です。 審査員が灰皿を投げたのを見たのは2回あります。これも暴行罪。幸い人に当たったことはありませんでした。でも1キロもあるガラスの灰皿が飛ぶのは怖いです。 環境側面は点数でなければという審査員を、結局私は説得できませんでした。ただ認証機関の取締役に話をして、それ以降止めさせることはできました。取締役が理屈を納得したのか、煩い客だからOKしたのかは分かりません。 方針に「枠組み」「汚染の予防」などの規格の言葉がないと、方針だけで不適合を4つ頂いたこともあります。その場で認証機関に電話して取締役を出せと言いました。すると相手方少しも騒がず「後で処理しますからその場は黙っていてください」と言われました。結局その不適合はなくなったのですが、どういうプロセスなんでしょうか、分かりません。詫び状くらいよこすべきだと思いますね。 タクシーチケットあるある話です。1993年にはタクシーとは何だ!ハイヤーだと言われたこともあります。田舎町にハイヤーがあると思うのかと逆ねじ食らわす勇気はありませんでした。 「飯がまずい」私たちにはごちそうなのですが。「昨日行った会社はステーキだった」というのもありました。もうね、 引退して10数年経ち、後期高齢者になったなら、もう忘れるべきなのでしょうけど。 |