「学力の経済学」

25.05.12

お断り
このコーナーは「推薦する本」というタイトルであるが、推薦する本にこだわらず、推薦しない本についても駄文を書いている。そして書いているのは本のあらすじとか読書感想文ではなく、私がその本を読んだことによって、何を考えたかとか何をしたとかいうことである。読んだ本はそのきっかけにすぎない。だからとりあげた本の内容について知りたい方には不向きだ。
よってここで取り上げた本そのものについてのコメントはご遠慮する。
ぜひ私が感じたこと、私が考えたことについてコメントいただきたい。



5月初め、津田沼の丸善に行った。我が家からは電車の駅で4つか5つ先だ。なんでそんなに遠くまで行くのかと言えば、私の近くにまっとうな本屋がない。
コンビニには週刊誌と売れ筋のコミックが少々あるだけ。駅中の本屋はベストセラーの小説、出版されたばかりの新書、売れ筋のラノベくらいしかない。更に最近はますます本屋が減ってアマゾンに頼るしかない。だがアマゾンは立ち読みできない。
ということで私の趣味()であるISO本となると、江戸川から花見川の間では、津田沼の丸善しかない。

丸善に行ってみれば、今はISO本など本棚の棚が一つ半しかない。その昔はISOコーナーがあり、数年前でも棚ではなく本棚一つ半くらいISO本が並んでいたものだ。

丸善の本棚は幅3尺、高さ6段である。

観察年月2016年12月2019年5月2024年5月2025年5月
ISO本の量
専有面積 棚8段 棚6段 棚5段 棚1.5段

茶色のはしごが本棚で、灰色の縞々が本のつもりです。白い部分は空きではなく、別のカテゴリーの本が並ぶ。
本の量が本棚1個ぴったりとか、本棚〇段ちょうどとはおかしいと言ってはいけない。個人の蔵書と違い、書店では予め展示する範囲を決めて、そこにそのカテゴリーの本を並べる。スペースが余れば同じ本を複数置くし、スペースがいっぱいになればそれ以上並べないだけだ。

年年歳歳、展示されているISO本は減るばかりである。
しかもそこに展示してある本の9割は、情報(ISO27001)や食品(ISO22000)であり、老舗MS規格であるISO9001とISO14001は1割もない。更にそのほとんどは過去5年以前の出版である。いや、過去5年以内に出版された本は2点しかなかった。

「お前は既に終わっている」(by ケンシロウ)

とにかく新しいものはないことを確認した。新しいものを見つけることと、新しいものがないことを確認することは同じ価値がある。


電車賃をかけて行ったわけで、得るものがなく帰るのも面白くない。一応3階の専門書のフロアを一巡りした。

そこで見かけたのが、この「学力の経済学」である。

書名 著者 出版社 ISBN 初版 価格
学力の経済学 中室牧子 ディスカヴァー・トゥエンティワン 9784799310856 2015/06/18 1600円

平積みになっていて新しい本かと手に取ったら、10年も前に出版されたものであった。
内容はどうかと思い、初めの10ページを読んだ。

なかなかおもしろそうだ。
では買ったのかとなるが、定年退職者の私が本屋で買うはずがない。その場で市図書館の蔵書検索をしたら、今書架にあることを確認したので、帰り道、図書館によって借りてきた。
書架にあることを確認しないと、蔵書していても、貸出中とか貸出しない本もあるからね。無駄足になってしまう。


最初に出てくるのは、教育評論家とか子育ての専門家に共通な見解に、次の三つがあるそうだ(p.2)。

注:紫文字はこの本からの引用であることを示す。以下同じ


それを読んで、私が考えたというか頭に浮かんだこと
私が子どものとき(1950年代)、日本中が学問より食っていくのが大変な時代で、そもそも親は子どもが勉強できて欲しいとは思っていなかった。中学を出たら子どもを働かせて、あとは子どもに親を養ってもらおうと考えていた。

これは真実だ。昔、こどもは親の持ち物で親を敬い親に孝行するのが当たり前だったのだ。私は都会に就職するのは禁止、勿論同居、中学を出たら稼いで給料を家に入れろ、立派な家を建てて、親の部屋を作れよと言われていた。今の常識なら親を殴って出ていくレベルだ。

それは我が家だけではない。私が住んでいた田舎の郊外(開墾地)に住んでいる人たちの平均的な考えだった。
1965年の高校進学率は日本全体では69%だった(注1)しかしそれは全国平均の話。その年に中学を卒業した私のクラスの7割は中卒で就職した。そしてほとんどは上京して行った。田舎より就職口は多く、賃金も高かったから。

当時の中卒の初任給は田舎で月8,000円、都会で12,000円くらいだった。2025年の中卒初任給は15万だそうだ(注2)物価も今の1割くらいだったが、それを考慮しても貧しかったのは間違いない。

同級生が上京するときは駅に見送りに行った。当時東北本線は蒸気機関車だった。
集団就職列車はまだあったが、クラスメートで集団就職列車に乗って行った人はいない。本数が少なかったかららしい。

蒸気機関車


だから私の子供時代、上記、みっつのことで、悩んだ親はいなかった。
あけび ●子どもを勉強させるために、ごほうびで釣ってはいけない
勉強させるためにごほうびを出すほど裕福な家は少なかった。お金はもちろんない。お菓子なんてない。
 果物が食べたいと?山にアケビでも取りに行け
それに成績を良くしようとか勉強をさせようと思ってもいなかった。健康で悪さしなければ十分と考えていた。


●子どもはほめて育てるべき
当時はほめるべきと考えた親も先生もいなかったことは間違いない。学校でも家庭でも悪いことすればもちろん、先生や親の言うことを聞かないとビンタが飛んできた。頭の良い同級生が先生の間違えたところを指摘したら、そんなこと言うなと怒られた。
暴力教師という言葉はなかったが、暴力教師は存在した。

私は貧乏で小学のとき下駄で通学していた。体育のときははだしだ。当時下駄は安くズック靴は高かった。小学2年か3年のとき、やっとズック靴を買ってもらって、うれしくて学校に履いていったら、初日に盗まれた。

ズック靴 悲しくて泣いていたら先生にビンタされた。うるさいからだそうだ。もちろん盗まれたズック靴の対応なんてしてくれなかった。
学校で壊れた下駄を見つけて帰宅したら、夜、帰ってきたオヤジにビンタされた。せっかく買ってやったのを盗まれたのが悪いそうだ。
「ぐれなかった自分を褒めてあげたい」(by 有森裕子)


●ゲームは子どもに悪い影響がある
ゲームはなかったが、漫画を読ませてもよいか、読ませてはいけないか……という議論は……勿論なかった。
少年サンデーと少年マガジンが1959年創刊だったが、週刊漫画雑誌を毎週買えるほど小遣いをくれる家がない。当時は近所の仲間とか同級生がお金を出し合い、貸本屋で漫画を借りて回し読みした。

ということで上記3つのことに迷った親はいなかった。迷うという選択肢さえなかったのだ。



私が子育てした時代はどうだったのだろう?
我が家で子供たちが小学生というと、1985年頃になる。

●子どもを勉強させるために、ごほうびで釣ってはいけない
私はごほうびで釣った記憶はない。というか勉強しろと言った記憶もない。
子どもは親が語る言葉より、身の回りの人たちを見て影響を受ける。勉強しろというより、親が勉強しているのを見れば子供は勉強する。

会社で新しい設備を導入しても、メーカーに出張して講習を受けてくるなんてことはなかった。機械を導入するのはお正月とかお盆休みが多かった。 読書 それで休み前に電話帳のようなA4サイズで分厚い操作マニュアルとか保全マニュアルを渡されて、しっかり勉強して来いと言われた。

休みが明けるとすぐに機械を動かせとなる。実際には本を読んだだけで自動機とかNC機械を動かせるわけがなく、10日や半月はカットアンドトライだった。

設備の導入時だけでなく、新しい使い方とか改善とかになると、マニュアルをひっくり返しおっくり返して読まねばならず、休みの日、私は家でそういった本を読むのが常だった。
というわけで父親が自宅で本を読んでいると、子供たちもそれが当たり前と思うようになる。本を読むことのハードルが低くなるのだ。


それに友達の影響が大きい。学校の勉強ばかりでなく、社会勉強、大きく言えば人生についても周りから学ぶ。
当時、我が家が住んでいた公営住宅は、我が夫婦と同年代のサラリーマンばかりで、老人がおらず、子どもたちの年齢も我が家と同じく幼児から小学生までしかいなかった。

娘が中学になると学区が広くなり、学区内に公営住宅がみっつあった。ひとつは「やもめ団地」とか「離婚団地」と呼ばれていて、ほとんどが(全部かどうかは不明)片親だった。公営住宅側が住民は同じ家庭環境のほうが良いと考えたのか偶然か知らないが、それが実態だった。

娘はよくそこに住んでいる同級生たちと遊んでいた。
そしてそこから学んで考えたことを我々夫婦に語った。
娘曰く
夫が亡くなったり離婚したりすると、女の人が子どもを連れて暮らしていくのは困難になる。仕事に就くのが大変だし、高賃金の仕事には就けない。
だからこれからの女性は手に職を持たないとダメだ。離婚されても大丈夫なように、また結婚しなくても生きて行けるように、資格を取って高給が取れる専門職に就かなければならないと言ったのである。

まさに天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)(注3)と悟りを開いたお釈迦様レベルではないか(笑)


とはいえ資格は多種多様である。当時は私も娘も、税理士、弁理士、弁護士といった業種の人には会ったことがなかった。それで娘は見知っている資格の中で、費用対効果や合格可能性からどれが良いかを考えた。 看護師
医者になるには勉強が大変だし、なによりもお金がかかる。血をみると気を失うので看護師にはなれない。

考えた末、中学2年のときには自分の進む道を決めていた。そして高校・大学とそれに向かって勉強し、望んだ仕事に就いて、結婚してからもずっとその仕事をしている。婿さんが転勤族なのだが、どこに行ってもその仕事に就けると娘は自慢する。

ともかく私は勉強しろと言ったことはなく、当然、ごほうびで釣ろうとしたこともない。


●子どもはほめて育てるべき
ほめることはそんなにしなかったが、娘の友達と比較したり点数が悪いなどネガティブなことを言ったことはない。子どもだって、点数が良いか悪いかくらい分かる。次は頑張ろうと思いているわけだ。
会社の仕事でミスをしたとき、上司から叱られたり励まされたりするより、放っておかれた方が気楽だ。「元気出せ」なんて言われたら、余計腐ってしまうだろう。大人も子供も同じだ。

私が娘を叩いたことは一度だけある。中学時代テレクラに電話したときだ。当時は援助交際がはやりだした時期だったから心配した。高校のときには同級生で援交している子もいたのだ。
もちろん叱るとか殴れば、悪いことをしないわけではないのは分かる。私は親として未熟だったのだ。しかし私の気持ちは、当時流行っていたマンガ「お父さんは心配症」そのまんまであった。


●ゲームは子どもに悪い影響がある
当時、ゲームと言えばボードゲームしかない。しかしマンガは百花繚乱の時代である。
漫画は欲しいだけ買ってやった。それは自分の子ども時代、読みたくても買う金がなかったから、せめて子供にはと思ったからだ。
読もうが読むまいが、それは子どもの勝手である。おっと子供が読まなくても私たち夫婦が読んだから、無駄にはならない。



大いに逸れたが本論である。
教育の専門家とかが語ろうと、東大に子供を入れた人が語ろうと、根拠のない話は信じるに足らんというのが、この本のメインテーマである。

著者は語る。
「信頼を寄せるのは、たった一人の個人の体験ではなく、個人の体験を大量に観察することによって見いだされる規則性である(p.17)」
まさしく同意である。

会社で品質対策(要するに不良対策だ)するとき、タグチメソッド(注4)まではともかく、部品材料、製造工程における様々な要因を調べ、その要因の変化を測定し、原因となるものを究明する。原場で現物を見て現実を知る三現主義である。

「幹部は現場を見て歩け」(by 土光敏夫)
 平はわざわざ歩かなくても現場を知っているはずだ。

現実を見ずに「私はこう思う」とか「過去にはこういう原因だった」というのは参考にはなるが、それは証拠でも根拠でもはない。

関係するパラメーターが何かを考え、直接測定できなければ代用特性を決めて、ひたすらデータを取る、そして分析するという本当に愚直な作業の積み重ねだ。
もちろんそれで解決するとは限らない。解が見えなければ、再度、魚の骨(注5)を書いたり専門家の教えを請い、指標を考え直し更にデータ収集することになる。

machineman
特性要因図 矢印 矢印
軸 軸 矢印output
矢印 矢印
materialmethod


著者は語る。
「政策を考えるとき、費用、効用、費用対効果、代替え策などを考える。すべて数字だ。そういう発想をなぜ教育で使わないのかと。それが教育経済学である」


注:学力経済学ではない。


2001年にアメリカで制定された「落ちこぼれ防止法(No child behind Act)(注6)」では「科学的根拠に基づく」という語句が使われている(p.18)とある。
著者は「子どもを勉強させるために、ごほうびで釣ってはいけない」の真偽は根拠なき議論でなく、科学的に実験して真偽を確認せよと語る。
おっしゃる通りだ。

この本では「落ちこぼれ防止法」では「科学的根拠に基づく」という語句が111回使われているとある。普通は読み飛ばすだろうが、私は何でも裏を取る。

アメリカの落ちこぼれ防止法を探して、実際にその言葉が111回登場するか調べた。既にこの法律は2015年に改正されて、現在では「すべての生徒成功法(Every Student Succeeds Act)」に代わっている。当時の法文を検索したが、それらしいことは確認できなかった。なんだか怪しい

この本は、ごほうび・ほめること・ゲームの功罪について様々な観点から考える。先行研究を調べる、そういうことの上で結論を出している。
まさに科学的アプローチであり、出てくる結論は「科学的根拠に基づく」と言える。
そういうプロセスの結論なら、「私の子育ての経験からでは」より信頼できるだろう。

もちろんこういう社会科学的なことは算数と違うから、実験によって結果が異なるとかばらつくのはしかたがない。


ただ面白いなと思ったことは多々ある。
ごほうびを出すとしても

どちらが子どもの学力を上げる効果があるかを考える。

実験結果、テストの成績が良くなったのは、インプットにごほうびを与えたグループだったそうだ。
これはどうして? と思いました。だって本を読めといっても、どんな本を読んでも良いなら成績が上がるはずがない。

答えが書いてあります(p.36)。
まずアウトプットにごほうびを上げると言われたグループは、どういう勉強をしたら良いのかを教えられなかったからだったとのこと。がんばろうと思っても、勉強とはどうするのか知らないから、点数を上げる勉強ができなかったということだ。

他方、本を読めと言われた方は、どういう本を読めと指導されたという。
だから正しく言えばインプットにごほうびを出すのが効果的ではなく、適切な指導を受けた方というのが正解だろう。
ならば必要な指導をすれば「アウトプットにご褒美」でも同じ結果になるのかと考えると、結果だけでなくふたつとも同じものに収斂するような気がする。


この文章を見てISO14001を思い出す人もいるだろう。私もそうだ。
ISO9001の維持と違い、ISO14001は改善を目指す。よって改善計画が必須だ。
ISO14001認証が始まったときから、環境実施計画の実施事項は結果なのか手段なのかということは問題になった。

それともう一つ不思議がある。
手段がなくて目標値だけのものがあることだ。実施事項として「創意工夫」とか「各位の努力」なんて書いてあった。
多くの審査員は「省エネには各自の努力で0.5%削減と入れるべきです」と言った。「べきです」というが、盛り込まないとダメだと言われた。
手段がなくて、努力で0.5%減るのか? 大きな謎である。

私は努力で減るはずがないと断言する。
省エネ法でエネルギー管理指定工場等では年1%削減義務がある。どこでもその1%を達成するには投資しなければならない。

工場管理の基本は5Mである。機械、材料、方法、人、残りひとつは人によって、管理・測定・お金など種々ある。生産性改善でもコスト削減でも、これらを変える、すなわち投資が必要だ。
金をかけないと、機械が変わらず、材料が変わらず、方法が変わらず、人が変わらないから、改善ができるはずがない。

投資しないで省エネできることなど、10年前、20年前にとうに実施している。省エネは努力とか工夫でできることではない。できた工場は過去に努力していなかったというだけだ。

そもそも各人の工夫とか心構えなんて言い出したら、ISOMS規格の考え方、その根底にある科学的管理法とはまったく異なること言うまでもない。
そういう発想をする人はISOMS規格のお仕事を辞めるべきだ。
科学的管理法を知らないって
それじゃISOMS規格を読んでも理解できなかったでしょう。


手段が目的化(p.116)
日本では2020年までに小中学校の生徒一人に一台タブレットを配付すると目標を立てた。何のためなのか?
「子どものころからICT環境になじみ、将来の社会で生き抜く力を育む」ためだそうです。(文部科学省 GIGAスクール構想)

注:ICTとはInformation and Communication Technology(情報通信技術)のこと。
IT(Information Technology)は情報技術そのものを指すのに対し、ICTは情報技術を活用したコミュニケーションを意味する。

シーケンスを組んだり基盤のマイコン、BASIC、CPMをいじってきた者としては、論理的な考えをするには、タブレットをいじることでない。まずは国語で文法に則ったSVOCの文章を読み書きできることだと思う。

論理学とは論理記号とかではなく、必要な情報を漏らさず、誤解を招かない文章を書く練習、文章を正しく読む練習から始まると思う。
おっと、古典とか詩歌を学んでも、情緒豊かになれるかもしれないが、論理的にはならない。


連休前に久しぶりにやってきた娘が語るのは、職場の愚痴。新卒はアプリケーションソフトのマニュアルを読んで
スマホを使う人
使おうとしないのよ💢
最近入社した人には、エクセルもスマホでできますなんて語る人もいるらしい。スマホで表を眺めることはできても、セルに関数を埋め込んだり細かなグラフとか作れるのだろうか。キーボードしか使えない私は、指がつる自信がある。
スマホになじんでもICT環境になじんだとは言い難い。

「目的は絶対であり、手段は自由」(by 西堀栄三郎)


こう見てくると、この本はものすごいものだと思う。
事務仕事の大半は比較し選択することである。下っ端は、それをまとめて決裁権限のある人に提出することだ。
・Aを買うかBを買うか?
・省エネ投資と公害防止投資の優先順位を考える
・佐藤と山田、どちらを課長にするか?
・この問題の処置をどうするか?
数字で表せないものがほとんどである。そういうものを評価する指標を決める、代用特性を考える、フィールドワーク、実験、いろいろ工夫して先生の勤務評定をする、査定したものを賃金で報いて良いのか考える。
それこそ科学的方法である。

ただ見方を変えれば教育経済学なるものは、他の分野、特に理系の考え方、製造業で使われている手法を教育問題に適用したにすぎない。もちろん指標をどう考えるか、実験方法の設計というのは部門特有だろうが、特段画期的というわけではない。


私はISO第三者認証制度に対して大きな不信感を持っている。
審査の質の問題、認証の意義、審査の客観性のないこと、審査は統計的でない抜取であること、驚くことにAQLさえ決めてない。AQLを決めてない抜取検査というものがありえるのか(笑)
問題点、疑問点を上げればきりも限りもないが、一番の大問題は信頼性である。

お断りしておくが、私の持つ信頼性の不信は、認証の信頼性でなく、認証の信頼性の棄損は企業がウソをついているからだという論理についてである。

認証の信頼性とは何だろう?
まず、それをはっきりさせてほしい。
認証企業では環境事故や環境法違反が起きないことなのか?
一般市民がISO認証に対する信頼感か
ISO認証が国交省の入札のようにアドバンテージがあることか、

某J▲Bのアホは「認証件数が信頼性の指標だ」と語った。もしそれが真実なら、審査員は全員街に出て認証の勧誘をすれば達成できる。ポケットティッシュ配りガンバレ、

●その信頼性を測る指標を明確にしてほしい
認証企業の事故被害額とか違反発生率(あるいはその逆数)なのか?
ISO認証を購入の際に考慮している割合

信頼性の指標が低下しているのかどうか
実際の数字を基にすること、根拠のない発言は禁止だ

その低下原因の究明
企業の嘘と指標の低下の因果関係を立証してほしい。

そういうことをして、ISO認証の信頼性が低下しているのは、審査の際に企業がウソをついているからだと立証されたなら、私は企業がウソをついていることを認めよう。

だが、それをせずに、企業がウソをついていると語ることを許さない


ISO認定機関、認証機関の皆さん、
ISO認証の問題をこの本の著者 中室氏に教えを乞うべきである。
ISOMS規格に関わっているならば、統計、論理学、改善ツールなどを学んでいると思うのだが、それを実務に使いこなせないようだ。

疑問 この本で納得できないことがある。それは「相関関係」の定義である。
この本では「相関関係は単に、AとBが同時に起こっていることを意味する(p.21)」とある。
特定の分野ではそういう定義があるのかどうか知らないが、これは一般的な定義とは明らかに異なる(注7)
根拠・出典の明示を要求する。


うそ800 本日のまとめ

認定機関、認証機関、大学の先生までも、ISO認証企業が事故や違反をするのは、審査で嘘をついているからだという。 私は、事故や違反を起こす認証企業があるのは否定しない。

問題は、認証と事故や違反に何らかの関係があるのかどうか、あるいは認証が事故や違反を防止する効果があるのだが、嘘をついて認証した企業が事故や違反を起こすという因果があるのかということだろう。

現実は、会社が嘘をついたという認証機関、大学の先生そして消費者団体の人たちは、会社がウソをついたから事故や違反が起きたという証拠を上げたことがない
嘘をついた企業と嘘をつかない企業の、事故・違反発生率の違いを数字で示した人もいない。
彼らは統計も論理学も知らないのか、使えないのか、どうなのか?

ISOで会社を良くしよういうなら、ISOで会社が良くなる証拠を示せ、企業がウソをつくからISO認証の信頼性が落ちたというなら数字を出せ、事故・違反が起きたのは審査でごまかしたというなら、ウソをつかない適合組織なら事故・違反が起きないことを証明してもらおう。


とはいえ冒頭に述べたようにISO本の新刊がないことは、もはや誰もISOに未来がない、ISOが当てにならないこと、つまり存在意義がないと認識しているわけで、今更ISO経済学を作っても、それが活用されることはないだろう。
飛脚 21世紀に江戸時代の飛脚の経済学とか傘張りの経済学を考えるようなものだ。

だが、待てよ、
「ISO認証制度は何がまずかったか」という研究は価値があるだろう。
それはサムライ商法経済学かもしれない。


うそ800 本日のダメ押し

私のような野にいる人が、ISOの信頼性について疑問・異議を唱えているかと、「ISO認証+信頼性」をキーワードに、ウェブサイトを検索した。 すると自分のウェブサイトの「審査員物語 番外編24」というのがヒットした。

それを読みまして、10年も前に私は問題を究めていたのかと驚きました。ISOの本質は単なる金儲けでしかない。そして不具合があれば責任は企業に擦り付けるもののようです。
ISO認証とはサムライ商法である、真面目に論じる意味はなかったのだ。




注1 高校・大学・大学院進学率の推移

注2 昭和42年労働経済の分析 参考資料
中卒の初任給と平均年収はいくら?気になる給与事情や高収入を得る方法を徹底解説
昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか?

注3 文字通り解釈すると「この世で一番偉いのは私」という意味だが、本来の意味は「自分は生まれてきただけで尊い存在である。それを自覚して生きなければならない」ということだそうだ。
 参考・天上天下唯我独尊

注4 タグチメソッドとは品質工学とも呼ばれ、設計開発時に製造工程、長年の使用、使用環境、その他の外乱を受けても安定して機能を果たすようにする手法。

注5 Fish bone図あるいは特性要因図ともいう。問題の原因を考えるツール

注6 「落ちこぼれ防止法(No child behind Act)」は、2015年に「全生徒成功法(Every Student Succeeds Act)」に置き換えられた。
法律の名前は素晴らしいが、効果はどうなのだろう?

注7 同著者の「原因と結果の経済学」においても「相関関係という言葉を、『原因と結果の関係あるもの』と『原因と結果の関係にないもの』の両方を含んだざっくりとした広い概念でとらえることもあるが、本書では、混乱を避けるため、より厳密な(狭義の)概念を用いる」とある。
・「原因と結果の経済学」中室牧子・津川友介、ダイヤモンド社、2017、p.27

だが「JISZ9041-1データの統計的な解釈方法 第2部」では相関関係の狭義・広義の定義などない。

「狭義+広義+相関係数」でググってヒットしたのは、「グラフィカルモデリング」で、このウェブページでは2変数の場合を狭義、3変数の場合を広義と称すると明記している。
この他にもいくつかヒットしたが、いずれも「グラフィッカルモディリング」と同様に、それぞれの論文やコンテンツで、広義・狭義の相関を定義している。

対して中室は「より厳密な(狭義の)概念を用いる」と、狭義の相関なるものが公式に定義されているように語る。その真偽を知りたい。

なお、現在 慶應義塾中室牧子研究室とあるので、ウェブを見たら「個人の方からの書籍などの内容へのご質問(中略)はお受けしておりません」とあった。
下々の意見など聞く必要がない、お偉い先生なのだろう。



推薦する本に戻る
うそ800の目次に戻る

アクセスカウンター