ガザへの道

エジプトからラファへ 2009年 3月

ガザは、イスラエル建国に際し、その土地に住んでいたパレスチナ人が家族を殺され故郷を追われて閉じこめられた土地である。
1967年以降イスラエルの軍事占領下におかれ、イスラエル軍によるあらゆる方法での弾圧が続けられてきた。
武力による攻撃、無差別な拘禁と拷問を初めとして、家屋破壊、農地や樹木の破壊、道路封鎖、学校や病院の破壊、経済封鎖をイスラエルは続けてきた。水や電気などのライフ・ラインは、全てイスラエルのコントロール下にある。
食糧も産業もなく、150万人の人々が363平方キロ平方キロメートル(東京都23区の約6割ほど)の土地に閉じ込められ、難民キャンプは世界最高の人口密度といわれている。
とりわけ、ハマスによる掌握以降、2008年からガザは完全封鎖され、この「天井のない監獄」を、イスラエルは2008年12月27日から空爆、戦車による無差別殺戮を行った。 2009年1月21日に撤退するまでに報告されているだけで死者1330人、負傷者5450人が空爆や新兵器の犠牲となった。
ヤスミンは兄弟姉妹にひと目会うことができないか、何とかしてガザにもぐりこめる手段はないかを期待して、2009年3月4日、エジプトに向かって飛び立った。

3月4日

イスタンブールを経由し、深夜にカイロ着。ホテルのスタッフが空港に迎えにきてくれていた。夜なので砂埃などは見えないのだけど、それでも雑然とした感じを受ける下町の一角。細い路地には屋台の果物屋さんが店を広げていて、夜中でも賑やか。ホテルのある4階まで (と言っても日本では5階にあたる)、暗い階段をひたすら登って行く。一度上ったらもう降りたくなくなってしまう。ウエルカムチャイをいただいて、すぐベッドに横になった。まとわりつく蚊を、最後にはもう追う払う気力もなくなって、毛布を頭からすっぽり被って眠る。そう、イラクでも蚊の攻撃から身を守るために、こうやって眠った。あの時も瓦礫ばかりだったけれど、今回もガザに入れば、また瓦礫ばかり見ることになるのだろう。夜中の3時だというのに、町はとても騒々しい。


3月5日

明け方4時半頃、耳元に響くファジュルのアザーンで目が覚める。モスクはいたるところにあるのだ。ホットドッグにアラビアサラダ、それにバナナとチャイの朝食がありがたい。イラクから難民としてカイロに来ているはずの兄弟姉妹や知人の姿を求めて、ジャミーラさんと二人カイロの町を歩き回る。彼らがイラク出国した時には連絡を取り合えていたのだけれど、次第に連絡がとれなくなってしまった。車の渋滞の中に、時々荷車を引いたロバを見かける。中東には横断歩道があるところが少なく、歩行者は意を決して、物凄いスピードでとばす車の間隙を縫って道路を渡る。ドライバーの方も慣れたもので、ぎりぎりで歩行者の裾をかすりながら、それでもなんとかぶつかることなく走っていく。渋滞と煤煙の中を黙々と横断するのは、かなりのストレスだ。一日中あちこち歩いたけれど、誰にも出会わず、ガザについても何の情報も得られない。やはりガザ国境近くのエジプトの町アル・アリーシュまで行ってみないと、どうにもならないようだ。


3月6日

荷物をホテルで預かってもらって、早朝、アル・アリーシュ行きのバスステーションへ。昨夜ホテルのオーナーのSaidさんがチケットを手配してくれていたのだけれど、それはエジプト人値段。外国人値段をいくらにするかで、長いこと交渉してくれた。こういう交渉は、現地の習慣と言葉に慣れている人でなければ到底できない。バスはこころなしか冷房が効いていて、ありがたかった。車中でイギリス国籍のパキスタン人女性Nabilaと出会う。彼女の兄たちが食料や医薬品などの物資を積んだ110台のトラックを3km近く連ね、ロンドンから延々とコンボイを組んでやってくるのだ。イギリスを始めとし、フランス・ベルギー・スペイン・イタリアなどの有志と共に、2月14日にイギリスを出発し、ジブラルタルを渡り北アフリカを横断し、8日にラファに到着する予定とのこと。Nabilaは、アル・アリーシュでコンボイと合流しガザに入るつもりだという。もっともエジプトがコンボイの国境通過を容認すればの話だけど。私たちが今日のうちにラファに向かうと言ったところ、入れない場合、8日まで待てるなら、コンボイと合流すれば良いといって連絡先をくれた。彼女は私の耳元で小声で言った。コンボイの合言葉は「ビバ・ハマースよ」と。嬉しかった。

6時間ほどでアル・アリーシュに到着。ビーチに沿った美しい建物は富裕層のためのもの。タクシーを捜し、ドライバーにガザに行きたいと言うと、彼はちょっと驚いたように、今エジプトからパレスチナには入れないと言う。どうしても行きたいというと、パレスチナ人の彼は、ラファに兄弟がいるから、なんとかしてみようと言ってくれた。携帯電話でラファの兄弟と連絡をとりながら、途中4箇所ほどの検問をドライバーがうまく答えてくれたり、懇願しながら何とかラファまで辿り着く。途中、Nabilaが話していた物資を積んだ何台かのトラックが待機しているのを見かける。このままガザまで行けるかと希望が湧いてきた。

ところが最終的にラファでの検問所でひっかかり、これ以上行くと逮捕せざるを得ないという。何時間も交渉してみたけれどダメ。各国からここまで辿り着いたNGOメンバーがたむろしている場所に連れて行かれた。彼らは陽気にWelcomeと迎えてくれた。2日も3日も寝袋で寝ながら、入国の許可が降りるのをずっと待っている、平和を愛する優しい人たち。「ストップ・ザ・ガザホロコースト」の横断幕を掲げている。でも、こんなところでゆっくりしているわけにはいかない。私たちには時間がない。ガザの兄弟Atallahに電話して、なんとかここまでこられないか尋ねると、仲間と相談してみるので、20分後にまたかけなおして欲しいという。待っている間、BBCの記者にインタビューされたけれど、答えるような気分になれない。祈るような気持ちで20分後に電話する。やはりここまでくるのは無理だ、いまラファの境界地域に入れば、パレスチナ人も逮捕されてしまうという。フェンスのすぐ向こうはガザ地区なのだ。彼は、すぐそこまで来られるのに、電話で話すだけで会えないなんて!イラクからクウェートに国境越えしようとした時にも思ったけど、わざわざ地面に壁を立て、兵士に見張らせ、人の行き来を遮断する国境のバカバカしさといったらない。ここまで来てあと何百メートルかを越えられない悔しさ。地団太を踏みたい気分。パニック状態で話す私に、電話の向こうのAtallahの声も悲痛になってくる。「ガザは天井のない牢獄」という現実が、ひしひしとせまってくる。何日も国境で待つ余裕がないので、ザカートを送る方法を相談する。ラファで知り合ったパレスチナ人の女性Inayaに彼と電話で話してもらう。国境が開き次第、Inayaがザカートを持っていってくれるという。でも今回の目的はザカートを渡すことだけではなく、ガザで兄弟姉妹と直接会って話すことなのだ。

写真を撮っていたら、銃を構えたエジプト兵が来て、写真はダメだ、カメラを渡せという。構えただけで撮ってはいないと言ってカメラを見せると(ホントは撮ったけど)ずいぶん旧式だなと言い捨てて行ってしまった。私はデジタルカメラを扱うことができないので、使い捨てカメラを持っていた。没収されないでよかったけど、なんだかバカにされたような気分。

エジプト側ラファとパレスチナ側ラファ間には、物資を輸送する為の無数のトンネルが掘られているが、これらはイスラエルの爆撃対象であるだけでなく、トンネルを使った密出入国者はエジプト政府により厳罰に処される。エジプト人は皆トンネルの事を知ってはいるけれど、閉じこめられているパレスチナ人が気の毒なので、見て見ぬふりをしている。

アル・アリーシュまで戻ったが、もう他に方法がない。トンネルを通って国境を越えることをその筋の人たちと相談してみた。しかし、ムスリムとして忠告するが、女性がそんな危険なことをすべきではないと断られる。

夜になるので仕方なくホテル探しを始める。Inayaたちが泊まっているマッカホテルが満室だったので、あちこち探し回った末パレスチナホテルに泊まることにした。ここは2人で20EP(400円)。二人ともくたくたに疲れていたので、まとわりつくハエを追う気力もなく、またたくまに泥のような眠りに落ちた。


3月7日

朝、アル・アリーシュの町を端まで歩いてみる。その気はなかったのだけど、実はInayaの泊まっているマッカホテルに行こうとして迷ったのだ。歩いている人に道を聞くと、みんなてんでバラバラのことを教えてくれるものだから...。途中、羊の群れの朝の散歩に出くわした。羊たちはゴミ溜めのゴミを食べていた。かわいいのでしばらく見ていたら、飼い主のおばあさんがベルを鳴らして羊を集めると帰り始めた。一番小さい羊がゴミのごちそうから離れるのが、いかにも残念そうで、しばらくゴミとおばあさんを見比べていたけど、あきらめて、去っていく群れに向かってメェメェ言いながら走っていった。そんなことをしていて、結局マッカホテルには行きつけず、結局タクシーを捕まえてホテルに到着した時にはすでにInayaは出かけた後。

もはや打つ手もないと、カイロに戻ることにした。バスターミナルへと言ったのに、タクシードライバーは町外れの乗り合いタクシー乗り場へ連れて行った。ちょうど二人分のスペースを待っていたという、9人乗ってぎゅうぎゅうの乗り合いタクシーでカイロへ。残りの6人はルクソールの発掘現場へ出稼ぎに行くのだそう。仕事があって嬉しいと陽気にはしゃいでいた。途中猛烈なハムシーン(砂嵐)に遭う。ギシギシいいながら走るボロボロの車に、ビシビシと砂が当たるが、みんな平気で歌なんか歌いながらふざけている。慣れているのだろうけど、そうでなくても砂嵐に揺られているのに、ふざけて運転するので、今にも車が横転しそうでハラハラする。暑いけど砂が痛いので窓も開けられない。途中昼食に立ち寄る。全然食欲がなかったけど、少し食べる。7時間半かけてカイロ郊外へ。中東では郊外を走るタクシーは市内に乗り入れることはできないので、郊外で市内用タクシーに乗り換えなければならない。出稼ぎのお兄さんたちはわいわい騒ぎながら郊外で降りた。また乗り合いタクシーを乗り継いでルクソールまで行くのだろう。みんな、元気だ。ドライバーがメトロの駅まで乗せていってくれたので助かった。アル・アリーシュからの値段は40EP。5EPたくさん渡そうとしたら、いらないよと言って、またブンブン飛ばして行ってしまった。

ゴミと埃の中のスークを見ながらメトロの駅へ。郊外のスークとカイロ中心部のスークでは、ずいぶん値段が違うと感じた。El-Marg駅からメトロに乗ってOrabi駅へ。メトロといっても地上を走るのだけど。車内は混んでいた。トロトロ走って14駅。砂だらけになっていたので、宿でシャワーが使えるのはありがたかった。米軍占領直後のイラクを縦断した時、水がでないものだから、汗をかいては乾き、かいては乾きを繰り返して髪が固まってしまったことを思い出す。連日の長距離移動で疲れきっているのだけど、カイロの下町は夜中でも騒々しく、なかなか眠れない。少しうとうとしたらファジュルのアザーン。エジプトでは、おかげでちゃんと時間通りに礼拝ができた。


3月8日

今日はコンボイがラファに到着する日だ。うまく入れるだろうか。アズハル大学の図書館へ行き、マスジドで礼拝した。ハン・ハリールというスークに行き、ヒジャーブを買うのにこれだけしか出せないと言うと、バッグにぶらさげている時計をくれという。まだ時刻を見ることもあるのでダメと言うと、じゃあ、その隣の小型懐中電灯をという。トンネルを使うことがあればと友人がくれたものだ。この物々交換みたいな小さなプレゼントで、ヒジャーブは私の言い値になった。

しばらくスークをぶらついた後、エル・アブドというお菓子屋さんに行く。ちょうど預言者ムハンマドの誕生日の特別なお菓子を売っていて、お店から溢れるものすごい人をかきわけてお菓子を買う。といっても、私は、体格の良いエジプト女性たちに押されて息ができなくなり、すっかりおじけづいて、カウンターまで辿り着いたジャミーラさんが買ってくれたのだけど。Attalahから、自分の家に泊まってもらって、家族に会わせたかったし母親も待っていたのに、日本に帰ってしまうのは、とても悲しいというメールが来ていた。残念だけれどどうすることもできない。ラファの非情な検問所の黒い扉と、張り巡らされたフェンスがまた目に浮かんできて本当に悔しい。


3月9日

ホテルのスタッフに「アラブの良心」の歌詞をレクチャーしてもらう。発音がとてもむずかしい。アラビア語は単語の意味が深いので、翻訳するのはとても大変なのだそうだ。

街に出てアバヤを買って帰ろうと思い、いくつか試したけれど、サイズが大きすぎてダメ。

深夜にカイロを発つので夕刻から横になった。でも、時間が気になって、結局眠れないうちに出発の時刻がきてしまう。来た時と同じく、真夜中だというのに賑やかな町なかを抜け空港へ送ってもらう。


3月10日

カイロを午前4時頃に発ちイスタンブールへ。トランジットで10時間ほど時間があるので、友人のMustafaに一日付き合ってくれるよう頼んでおいた。Mustafaの車で彼の経営するホテルへ行く。ボスフォラス海峡を望める屋上テラスのある、かわいらしいホテル。雨が降ってきて雷が鳴っている。この季節のイスタンブールの天気はややこしい。少し休んでCyankayaの楽器屋さんへ連れて行ってもらう。私のカーヌーンが壊れているので新しい楽器がほしかったのだ。爪も買うつもりだったのだけれど、水牛の角のものがなく残念。エジプシャン・バザールのMustafaの従兄弟のお店で、石鹸や香辛料などを買い込み、ランチを摂って、慌しくまた空港へ送ってもらう。

夕刻に成田に向けてイスタンブールを発つ。


3月11日

帰国。慌しかった。ガザへ入るには、スケジュールに無理があったと反省。中東では待つことが多いから。


エジプトは人道的配慮から9・10日の2日間国境を開け、物資や医薬品を積んだ110台のトラックを連ねたコンボイと500人のボランティアがガザに入った。私たちは9日深夜にカイロを発ちトルコに寄って帰国するスケジュールだったため、ほんの少しのすれ違いで、ガザに入れず悔しかったけど、コンボイがガザに入れたことはとても嬉しかった。北アフリカ諸国の国境越えはかなり難しいのだけれど、今回、イスラーム同胞が協力し合い、全ての国境を開け、コンボイのガザ入りを支援したことは、これからのイスラームの行く先に光が見えたような気がした。

   

ヤスミン植月千春


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