アンサンブル・バロック


創立期〜現在


アンサンブル・バロック創立50周年にちなみほぼ創立時期から関わっている私が、はなはだ不確実ながら、この間の記憶をたどってその変遷と活動の歴史を綴ってみた。   
                                                          中馬 脩

【創立期】

 アンサンブル・バロックが成立したのは私の記憶では昭和30年(1955年)頃ではないかと思うが、設立当初から参加していたわけではなかったので正確には解らない。当時は全員ほぼ同世代の学生で、成蹊大と東京女子大のアンサンブルが合同したとも考えられる。そこへ早大、専修大、農工大(私)などの学生も加わり、学際的なアンサンブルとなった。設立の主旨は、オーケストラのように大人数で自己の存在感が薄れるような団体より小規模でインティメートな合奏をやりたい、という願いからだったと思う。メンバーは常時の出席者は12〜13人位。弦、フルート、クラリネット、ピアノなどで、はじめヴィオラが居ないので、当時”ヴァイオラ”などと称してヴァイオリンにヴィオラの弦を張って代用していた。練習場所は成蹊大と東京女子大を交互に使用していたが、後に東京女子大が本拠になった。当時東京女子大に就任されたばかりの池宮英才先生(先年他界された)が指揮をされるようになり、各大学での学内演奏会などを行っていた。当時のレパートリーはヘンデルのアルキーナ組曲、バッハのブランデンブルグ協奏曲5番、ベートーヴェンのロマンスヘ長調(卒業後国立音大へ入学した高森礼子さんのソロによる)、モーツァルトのフルートとハープの協奏曲第2楽章、カバレリアルスチカーナの間奏曲などを繰り返し演奏していた。また、その年に第1回目の公演が始まり、以来毎年続けられている東京女子大学クワイヤによるメサイヤの演奏会にも、プロの演奏家(古典音楽協会)に混じって参加させてもらった。

この当時のメンバーで記憶に残っている人達;Vn.:東郷昭郎、林茂、井口和男、田上真一、田口(故人)、渡辺嘉信、結城亨、上原陽一、高森礼子(林夫人)伍堂敬子、桝山良子、栗原、武井、Va.広兼正明、Vc.中馬脩、Cond.森俊人(故人)、Cl.越川幸雄、Fl.斉藤浩、田上康子(故人)、Pf.石橋宏子(敬称略)

【流転の時代】

同世代の学生であったメンバーがほぼ同じ時期にそれぞれの大学を卒業したため、一旦解散したような状態になったが、やはり続けて集まろうということになり、当時存在した幼児教育部付属の幼稚園(女子大キャンパスの東端部道路際にあった)を練習所として借りることになった。メンバーが社会人になったため、学生当時のメンバーは半数は入れ替わってしまった。練習も日曜日になったと思うが、その為か暫くすると近所から練習の音に対して苦情が出たことを理由に、幼稚園の使用を断られてしまった。

この頃からのメンバー;吉岡成美、飛田道子(吉岡夫人)、井上志津恵、宮田敦子、中村康男、井上明、菅田史郎(敬称略)

次に借りたのは、今も存在する井荻会館。地蔵坂上の公民館のような、柔道場のような古い木造の小屋だった。しかし、環境上長続きしなかったため、今度は西荻窪付近の"光の家"という目の不自由な方の介護施設のようなところを借りることになった。この頃からメンバー拡充のため、都民響,ACC管弦楽団、YMCAサロンアンサンブル、ワセオケなどで知り合った人達を誘って各パートも少しづつ充実してきた。だが間もなく、この光の家も些細な感情のもつれから使用を断られ、丁度当時チェロのメンバーであった宮田敦子さん(石川誠之夫人)から、広い部屋のある家に越したのでここを使ってもよい、という申し出でがあり、渡りに舟と世田谷区赤堤に在ったお宅の広間を借りることになった。このお宅には、当時のアンサンブルのメンバーが二人も下宿することになり、これが便利でもある反面後の一寸したトラブルの原因にもなった。この当時、初めて場所を借りてコンサートのようなことを行った。場所は吉祥寺カトリック教会。プログラムはモーツァルトの"踊れ喜べ汝幸いなる魂よ"(アレルヤ)とバッハの第1組曲などだったと思う。この時代からの参加者;Vn.渡辺素昌、水野徳次、上原陽一、及川千恵子、加藤淑子、加藤圭子(井爪夫人)、広瀬渥子、青木正俊、Vc.宮田敦子、Ob.吉岡成美、石川誠之、Fg.越川幸雄、Cl.鈴木秀哉、Hr.藤尾正明、武藤建二、Db.井爪昭忠(敬称略)

【鳩ノ森八幡時代】

どういうきっかけだったかは思い出せないが、千駄ヶ谷駅から5分ほどのところにある鳩の森八幡神社の付属幼稚園を借りることが出来るようになった。交通の便がよいのと、可成り自由に使わせてもらえたのでしばらくの間安住の場所となった。ここには幼児の椅子しかなく、当時500円くらいで売っていた木製の折りたたみ椅子を購入し,置かせて貰って使用していた。アマチュアの合奏団体の練習は、通常皆が支障なく集まれる土曜、日曜を充てるのが普通である。しかし、この頃から日曜日はさらに別の遊びにも向けたいということと、日曜に遠くの自宅から出てくるより勤め帰りにそのまま練習に合流した方が良い、という流れから初めは月曜日を練習日とし、後に火曜日に改めた。爾後この習慣は連綿と続いている。この時代から参加したメンバーは現在まで続いてる人も多く、また、ソリストとしてあるいはフォアシュピーラーのような役割で多くの音大生、音大卒の人達も多く加わってくれたことは、アンサンブルのレベル向上に多いに役立った。このアンサンブルもメンバーが皆一応の社会人として自立したので、自分達で経費を拠出してコンサートでもやろうということになり、丁度当時知り合った二川、星野氏らの弦楽四重奏団と合同でヤマハホールで第1回のコンサートを行った(1960.2.14)。
プログラム:偽の女庭師序曲、ブランデンブルグ協奏曲第1番、ハイドン/交響曲第22番(コールアングレをクラリネットで代用)、ボロディン/弦楽四重奏曲第2番。
その後、新丸ビルホール(1963.1.12)、日消ホール(1964.12.7)でコンサートを行った。このコンサートには当時の芸大卒業直後の新進演奏家諸氏がソリストとして参加してくれた。(舘野晶子(故人)、手塚幸紀(指揮)、高木豊美、小島庸子、小川敬子、高田敏子など(敬称略))
この時代から参加した人;Vn.相曽益男、島貫俊秀、千々岩育子、加藤裕子、引馬基彦、高杉昭二、染川(藤田)和泉、渡辺新子、渡部京一、小寺淳子、山根規矩子、Va.吉良爽、長谷川李五郎、山崎勇、Vc.大西寿郎、斉藤光太郎、鎮守祥子、ノーマン・H・ウイーン、Db.梅沢定彦、矢野健、Cem.相曽明子(敬称略)

【龍角散時代の始まり】

昭和36年(1961)、前の勤め先を退社して浪人中であった私に、メンバーの渡辺素昌氏より、当人も楽器を弾き、大の音楽好きな人だからと龍角散の故藤井康男氏(当時研究部長、後社長)を紹介され、これがきっかけで蒲エ角散に就職することになった。これが龍角散時代への橋渡しとなった。当時会社は成長期にあり、私は新設の潟сgロン(龍角散の兄弟会社)に移籍し、さらに人材の需要があったため、元アンサンブルのメンバーであった水野氏(当時大阪),東郷氏(当時京都)、青木氏、吉岡氏(当時四日市)、越川氏らが入社し、それぞれの専門で活躍することになった。 藤井氏はアンサンブル・バロックのコンサートに自分もソリストとして参加したいので開催を賛助するから、ということになり第4回、5回は東京文化会館小ホールでコンサートを行った。(1966.3.7,1967.3.13,1968.3.11)
昭和43年、龍角散に鉄筋4階建ての本社工場が建設され、4階にあったホール兼食堂を練習場所として使用することを許されるようになり、以来ここを本拠とすることになった。このことはアンサンブル・バロックにとってこの上なく幸せなことであった。仕事を終えてから移動もせずに練習に向かえ、場所の使用料を心配しないで済んだ。また、龍角散オケという形が平行して発足したため、コントラバス、譜面台などを用意してもらえた。そして、ウィークデイ練習の最大のネックとなる大きな楽器は置き楽器が出来るということで、最高の環境で練習を続けることが出来た。龍角散の名前でコンサートをやりたいという藤井氏の要請により、アンサンブル・バロックを母体にメンバーを拡大して、龍角散室内管弦楽団として毎年定期演奏会を行うようになった(第1回:1969.5.1)。このコンサートには芸大オーケストラや他の現役プロの演奏家達が何人も手伝ってくれたことで、結構レベルの高い演奏が出来たと思う。また、当時龍角散が入手したストラディヴァリ・サンライズを一流のソリスト達に弾いて貰い、そのオーケストラ伴奏をした。(外山滋、宋倫匡、浦川宜也、天満敦子、藤田容子、佐藤陽子、田崎瑞博各氏)
以後、毎年龍角散コンサートを行うのが通例となり、コンサートの前4ヶ月ほどはその練習に専念し、あとの期間をアンサンブル・バロックの定例練習の期間としていた。この頃から龍角散やヤトロンには楽器の弾ける社員が入社するようになり、この人達の大多数はアンサンブル・バロックにも参加するようになった。(あの会社は楽器が弾けなければ入れないなどの噂も聞いたが、これは事実無根である。ただ、この会社に入れば楽器が続けられるという期待で入社試験を受けに来る人が増えたことは確かである。)一時は、この食堂ホールを日曜日などに借用し、室内楽コンサートと称して幾組かの室内楽を演奏し、楽しむ会を開いていた時代もある。
アンサンブル・バロック自体のコンサート活動としては、市ヶ谷のルーテルセンターその他で何回か演奏会を行っているが、記録が見付からず正確に記載できない。同じアマチュア合奏団であるル・ソール合奏団との合同コンサート、アカデミー合唱団とのカンタータの演奏会、また2度の"題名のない音楽会"(TV朝日)への出演などが記憶に残っている。その後は天崎氏(Vc.元メンバー。現在楽譜輸入のミュージックサプライ社経営)のきもいりで、原宿中央教会、目白台同仁教会などでコンサートを行った(1989年)。しかし、その後はもっぱら龍角散・ヤトロン室内管弦楽団のコンサートを行っていた。

【龍角散ビルの建て替えと変遷】

1988年、第20回龍角散・ヤトロンコンサートが終わったのち、龍角散ビルの建て替え工事が開始された。このため練習所が使用できなくなり存続が危ぶまれたが、田岡氏(メンバー・龍角散)夫人の根津の実家の広間をご好意で貸していただけることになり、ここを暫くの間練習所として毎火曜夜、通わせていただいた。随分ご迷惑をかけたことと思うがアンサンブル継続の上では大いに助かったことである。ヤトロン本社がすぐ近くの坂本ビルに移り、その利用スタイルが固まった後、3階の会議室を練習に使用してもよいということになった。やや手狭で響きすぎの嫌いはあったが、取りあえず近場で合奏を楽しむことが出来た。その後新龍角散ビルは完成したものの、初めここでは音出しは出来ないというふれこみで、龍角散・ヤトロンコンサートは暫く沙汰止みとなっていた。しかし、ひょんなことからビル管理会社と話をしたところ、フロア内であれば音を出しても他へは影響ないことが解ったので、9階の大会議室を練習会場にしてコンサートを再開することとなった(1993年)。再開してから二度目になる第22回コンサート(1994年)の後、藤井社長が御不例であったため、これが会社主催のオーケストラコンサートの最後となった。1996年に藤井社長が逝去された。青山斎場で行われた社葬の際には、アンサンブル・バロック有志により追悼(告別)演奏が行われた。

【新たなコンサート活動の始まり】

1997年、若いメンバーが新たに参加するようになり、メンバーも揃ってきたため何処かでコンサートを開いてみようということとなった。この年に開設された東京オペラシティー3Fの近江楽堂というドーム形小ホールの管理を任されておられる松木章伍氏のご好意により、久方ぶりでアンサンブル・バロックとしての小コンサートを行うこととなった(1997・5・17)。これがきっかけとなって新たな演奏活動の時代が始まった。
同じ年の秋に故藤井社長のご遺志を継ぎ、また龍角散ビル管理会社の協力も得て、龍角散ビルの1階エントランスフロアーに於いて第1回の龍角散ビルコンサートを開催した(1997・9・13)。地域の皆様方からもご好評をいただき、以後毎年これを開催する習慣となった。翌年は春に第2回龍角散ビルコンサートを開催した(1998・5.30)。その年の秋には千代田区主催の区民文化祭のオーケストラフェスティバル(カザルスホール)に参加出演し、大編成のオケ5団体に混じって唯一の室内オケとしてその存在をアピールした。98,99年と千代田区主催のこのオーケストラフェスティバルに出演したものの、自分達だけで自主的なコンサートを開催した方がいいという意見がまとまり、早稲田奉仕園内のスコットホールでクリスマスコンサートを行った(1998・12・26)。このホールは広さも手頃で音響もよく、ここで秋のコンサートを行うのが定着した。今回はスコットホールと開催時期の調整がとれなかったため、他の演奏団体によるコンサート実績を参考にして、本拠地の千代田区でもあり広さも手頃なこの神田教会で開催することとした。設立の時期が1955年というのはやや曖昧な点もあるのだが、ここらが丁度きりのいい時期でもあり、この度創立50周年を謳うことにした。50年の間の折々に新たに参加されたり、諸般の事情により離れて行かれた方々、または演奏には参加されなくとも温かく見守って下さる方々、そしてはかなくも他界されてしまった方々と過ぎ去った時代に思いを馳せつつ、稿を閉じることにする。                                                      (2004年11月記)