教養とはなんだ

26.01.05

もう15年も前、私が働いていたときのことだ。
東大の教養学部を出た同僚に、教養学部とは何を学ぶのかと聞いたことがある。田舎者は、教養を勉強するというのが想像できない。
彼曰く、リベラルアーツを学ぶのだという。ではリベラルアーツとは何だと聞く。

「無敵の人」という言葉があるが、これは社会的に失うモノがない人だそうだ。失うモノがなければ失うリスクはない。リスクがなければ恐れることはなく、無敵である。
私は「無学の人」だから、訊ねることに抵抗がない。聞くは一時の恥というが、無学なものは教えを乞うことを恥とは思わない。

古代ギリシア人

そのとき彼は、リベラルアーツとは古代ギリシアで「市民として政治や社会で活動するに必要な教養」をいうと説明した。


注1:「市民(citizen)」とは「都市の住民」の意味ではなく、「国家または同等の社会に属し、政治に関わる権利と義務を持つ人」のこと。

当時の市民(成人男性)の義務は、ポリス(都市国家)の兵役と、政治への参加(民会・投票、役職)、納税だった。

注2:リベラル(liberal)(注1)とはいろいろな意味があるが、現代では政治に関して使われることが多く、特に日本では政治以外の、例えばライフスタイルの形容に使われることはまずない。

本来は他人の考え、意見、感情を理解し尊重する思想であり、政治的な意味では、緩やかな社会的変化を進める考えをいう。

世界で言うリベラルとは安倍元首相の立ち位置だそうだ。現在日本でリベラルと称するものは、リベラルより急進的で政治的革新(political innovation)というのが正しいらしい。
それからすると元安倍元首相を極右と呼ぶ人は、正しくは極左である。

注3:アーツ(art)はラテン語の、戦争の兵法とか戦術の言葉に由来する。後に、仕事の技能、熟練の技法などに使われ、更に拡大して、芸術(絵画、彫刻、文学)などに使われるようになった。

リベラルアーツは、兵法・戦術から、市民(注1)が持つべき能力や技を意味するようになった。


では教養とは何だということになる。そばにいた上智出身の同僚が「教養なら任せろ」と代わって説明してくれた。
彼の母校の上智大学の英語表記はSophia Universityだそうだ。元々「上智」とはSofiaの訳で、知恵と言っても、坊主一休さんのトンチや、そこらへんに転がっている知恵ではなく「神から与えられた神聖な知恵」なのだそうだ。ドンドンと話が難しくなる(笑)


注:私の職場は東大、京大、阪大など有名どころばかり、更にはドクター、マスターばかりだった。学士はいたのだろうか?
高卒は私だけだったのは間違いない。


アインシュタイン ともかく教養溢れるおふたりに解説頂いたが、無学の私は理解できなかった。教養とは身につける以前に、それほど説明が難しいものなのか。その二人は優秀だが、教養溢れていたとは思えない。

アインシュタインだったか「子どもに説明できなければ、理解したとは言えない」と言ったのは。
その伝でいけば、子供並の私に説明できないなら、教養を身につけた人ではない。

上智卒の同僚は一家言ある人で、「常識とは明治の御代にcommon senseの訳語として作られた言葉で、元々は『人が持つべき知恵、理解力、判断力、思慮分別』の意味であったが、今では知識とか単なる物知りの意味に変わってしまった」と嘆いていた。
古い広辞苑を引っ張り出して「常識」を調べると、まさしくそう書いてある。今の広辞苑では「知識を持つ」も加わっている。
21世紀の今では、もっぱら知識の意味しかないのは間違いない。

テレビ場番組で「常識クイズ」なんて、実質「知識クイズ」でしかない。
ついでに言えば、テレビで「クイズ番組」はあっても「パズル番組」を観たことがない。なおクイズは知識、パズルは知恵で解くものだ。
まあ一度解かれたパズルは、クイズにランクダウンするけど。


📞
上智卒曰く、詐欺電話が来たとき、それは本当か偽りかを考えられる人が常識ある人で、単に知識があるだけでは対処できないと語った。

彼の語ることは理解でき納得する。では常識と教養はどう違うのか?


ちなみに「教養」を和英辞典で引くと「education」である。教育を受けると教養が付くかというと大いに違うと思う。教養のある人は皆、教育を受けているのかと言えば、それも違うようだ。
単純に和英辞典の記述が間違っている気がする。

ちなみにAIに聞くと、
「教養には、education(教育)も含まれるがイコールではない。文脈によって、culture(芸術、文学、歴史)、refinement(洗練されたマナー、知性)、liberal arts(前出)、あるいはbreeding(躾け、育ちが良い)など使い分けるべき」
と回答した。


そんな思い出があるが、私は退職しそれから10余年、未だに教養なるものを学んだことがない。
しかし最近老人クラブで「教養のない者はいかん」と誰かの声がした。私のことを言ったようなので、どうも気になる。
💭
ワカラン
それで10年前のやりとりを思い出し、教養とは何か、教養を身につけるにはどうするのか、そんなことを考えた。

元々、東大卒と上智卒の言っていた教養は、リベラルアーツであった。リベラルアーツと教養は同じなのか、違うのか?


辞書を引いて定義を読むより、それについて書いた本を読んだ方が役に立つだろう。ネットで教養が付く本を検索すると、上位15冊の中に私が持っているものが数冊あった。
もっていないものを市立図書館で検索して、蔵書しているものは借り、ヒットしなかったものをアマゾンで購入した。 それらに、どんなことが書いてあるのか?


タイトルの後ろの★☆は私の独断による評価である。
評価は以下の通り(アマゾンに準ずる)
 ★★★★★ 感動した。
 ★★★★☆ 良い本である。
 ★★★☆☆ 読む価値がある
 ★★☆☆☆ まあまあ
 ★☆☆☆☆ 読むだけ無駄

本「人生を面白くする本物の教養」 ★★☆☆☆

著者出版社ISBN発行年定価
出口治朗幻冬舎文庫978-43449839222015990円


読むとまさに「人生を面白くする本」だ。但しこの本の「人生」は著者の人生を意味する(笑)。つまり社会的成功者であり企業の幹部としての価値観である。

まあ、こんなものか だからこの本では、教養とは「知恵より知識優先」という感じで、とにかく本を読むことを推奨している。
読むべき本も、上流階級との社交とか、人を動かす経営者としての視点であり、社会のためとか己の成長より、企業利益とか世渡り上手のメリットを重視している。
それは個人的には好きになれないが、人により好みはあろう。

著者が語る「手帳を持たない主義」を、私は頭に書き込むとはすごいと驚いたら、出先で飲みに誘われたら会社に電話してスケジュールを確認するとある。ちょっと通常の感覚ではない。



本「(続)大人になるためのリベラルアーツ」 ★☆☆☆☆

著者出版社ISBN発行年定価
石井洋二郎/藤垣裕子東京大学出版会978-413003390920193,190円


一言で言って、わけが分からない本である。いろいろなテーマを学生に討議させたとある。
NG だが文中に具体的な議論もなく、ただ結果は云々かんぬんとダラダラ書かれているだけ。

思考実験でもないようで、ディスカッションとあるがディベートのことなのだろうか?
「教養」で検索してヒットしたのだが「教養」はどこにあるのか?リベラルアーツはどこへ行ったのか?
300ページ読んだのは時間の無駄だった。



本「経営者のためのリベラルアーツ」 ★★☆☆☆

著者出版社ISBN発行年定価
高橋幸輝かんき出版978-476127152720161,650円


中身がリベラルアーツを解説するものではなく、リベラルアーツを身につけるために読むべき本のリストであり、その解説である。

この本を読むだけでなく、この本で取りあげた本を読まないとならないようだ。
引用している本までは読まなかった。



本「アメリカの大学生が学んでいる本物の教養」 ★★★☆☆

著者出版社ISBN発行年定価
斉藤淳SB新書978-48156176912023990円


この本では「教養」とは「リベラルアーツ」であると断定している。


注:「define」を普通「定義する」と訳すが、辞書に「断定する」もあった。なるほど、考えてみると「定義」と「断定」は共に「決めつける」で意味が同じだ。
決めつけるわけだから、真理かどうかは分からない。


OK

そして教養をつけるには、単なる知識ではなく、古代ギリシアの自由7科(注2)もちろん現代では対象となる学問は違うが、そういった市民としての必要な学問を身につけて、物事を論理的に考え自分の意見を持てることだとする。
そのための方法を簡単に説明したところで終わる。

内容的にはボリュームはないが、入門の手引きとしては必要十分だろう。
ともかく、これを読むと教養は分からないが、リベラルアーツとはなんぞやというのは分かる。著者は教養とはリベラルアーツと断定しているので、それで良いのだろう。

一読の価値あり。



本「学問のすすめ」 ★★★★★

著者出版社ISBN発行年定価
福沢諭吉
檜沢明彦現代語訳
三笠書房978-483791880620011,540円


教養ともリベラルアーツともタイトルにはないが、「教養」で検索するとヒットした。
私は何年か前にこの本を買っていた。

福沢諭吉

この本は高尚なことを語っていない。また「学問のすすめ」とあるが、いわゆる学問を勧めているのではない。
逆である。古文、和歌、漢文などは役立たずと断じている。そして日常の仕事や暮らしに役に立つことを学べと語る。

じゃあ諭吉の考える学問とは「読み書きそろばん」のことなのかと思えば、諭吉はそこで終わらず、更に、自由、義務、努力、独立、勇気を身につけることと語る。つまり実学とは単なる手先のことだけでなく、どんな職業であっても矜持を持たねばならないという。

それはまさしく教養だろう。
この本ではリベラルアーツとの比較は出てこない。自由七科とは切り方が違うが、意味することは同じだろう。



本「国民の教養」 ★★★★★

著者出版社ISBN発行年定価
三橋貴明扶桑社978-459406469320111,400円


私は三橋の本はほとんど読んだ。彼の説すべてに同意するわけではないが、彼の論法には賛同する。彼の議論の進め方は非常にフェア、公明正大である。
まずパターンがある。
議論に使用する数字などの出典を、すべて明示する。そしてその前提から結論に至る考え/論理をすべて記述する。

それに対して、世の中で見る多くの主張は、出典・根拠を明示していないし、考えの進め方(論理)を示さず、結論だけ示すものが多い。というかほとんどがそうだ。
だから論がおかしくて反論しようとしても、著者の根拠や論理のどこがおかしいかを読者は指摘できないのだ。むしろ反論されないようにしているとしか思えないものが多い。
故に、曖昧を敵にしては神々の戦いもむなしい(注3)のである。

グッド 三橋の論を崩すには、データの出典が間違っているか、彼の考えでおかしいところを指摘すれば良い。だから三橋の議論を崩すのは、容易であり困難である。
容易というのは、反証の方法は明白だからであり、困難というのは彼の論を否定する証拠を見つけるのと、論の進める過程の瑕疵を見つけるのが難しいからだ。

この本は国民が持つべき教養を語る本ではない。具体的な問題を提起し、それを解説している本である。
この本を読めば自由七科を身につけるとは思えないが、それによって論理的に考えるようになるだろう。結果としてそれはリベラルアーツに極めて近い、あるいは同一かもしれない。これこそ教養と呼べるのではないか?



本「数学嫌いでも数学的思考力が飛躍的に身に付く本」 ★★★★★

著者出版社ISBN発行年定価
細野真宏小学館978-409397462220081,200円


この本は教養なんていう大層なことではなく、試験問題を考えるように、社会問題を・・・大から小に至るまで・・・論理的に考えようという本である。

そしてそのために概念とか理論とか難しいことを語らず、具体例をたくさん挙げて、どう考えるかを教える。
事例はすべて新聞記事などで、これは理屈が合っている、これはおかしいと説明している。
たくさんの事例を考えているうちに、注意点や突っ込みどころが見えてくる。

教養に限らず多くの本は、立派なことを語るが、具体性がなく、あるいは事例が少なく、読者が書いてある手法の使い方を理解せず、本を読んで終わりということが多いだろう。もちろん、そういう大事なことは本に書かず、自分の講義を聞きに来なさいということだろう。

この本はそこが違う。著者は予備校講師で、いかに実戦で使えるように教えるかという業をしていた。そこでは御大層なことを語ってもだめで、結果を出さねば客は付かない。

人を教えるときの考え方の図がある。

階段

登る人に合わせて階段の段差を合せることを勧めている。左は標準より段差を低くした分だけ段数が増え、右側は標準より段差を大きくした分段数が減る。
同じことを教えるにも、相手に合わせるのだということがビジブルに理解できる。

細野氏は人によって理解の早い人もいるし遅い人もいる。だから階段の段差を、その人に合わせなければならないという。彼はそれを「思考の歩幅」と呼んでいる。



その他、書店で立ち読みした新書などがあるが、面白い(参考になる)と思ったものはなかった。
5ページも立ち読みしただけであまりにもくだらなく、よくこんなものを本にする勇気(蛮勇)があると感心したものもあった。

いろいろ読んでみて、結局、常識、教養の閾値というか違い、教養とリベラルアーツの違いは分からない。いや、辞書には書いてあるし、ネットでググれば、その違いの説明は多々ある。
実際の行動において違いを考える意味はないと思う。

注:Google USで「リベラルアーツと常識の違いは何ですか?」でググった結果ヒットした中で、某学者が書いていたもので分かりやすいと思ったものである(AIの回答ではない)
翻訳はおばQである。


リベラルアーツ(Liberal arts)は、自由でバランスの取れた精神を育む、幅広い知的スキル(思考、分析、コミュニケーション)である。
一方、常識(common sense)は、実践的で日常的な知恵と判断力を指し、しばしば直感的なものと見なされる。両者は重なり合う部分もある。

リベラルアーツは良識の背後にある批判的思考力を養い、コモンセンスはそれを現実に根付かせる。その違いは、幅広さと応用性にあり、リベラルアーツは多様な知識と思考方法であり、コモンセンスは実践的に何をすべきかを示す。
身につければ、そのふたつはひとつのものとなる。



今どき音楽とか修辞学やっても、一般人にあまり意味はなく、150年も前に諭吉さんも古文や漢文を学ぶ暇があれば実学をしろと言っている。
出家せずとも、一生懸命自分の仕事に励めば悟りが開けるというのと同じである(注4)

古代ギリシアでリベラルアーツとは、文法学、論理学、修辞学、算術、幾何学、音楽、天文学の自由七科だったそうだ。まあ、学ぶべき科目は時代によって変わるだろう。

論理学はいつの時代でも重要だろうが、文章だけの時代からプログラムやシーケンスの論理学もある。



お坊さん

「すべての道はローマに通ず」と言うし、「すべての道は仏に通ず」ともいう。別に仏門に入らずとも、農民であれ商人であれ、真面目に生涯を、世のため人のために働いて過ごせばすごい人になる。
それはギリシア風の教養ではないかもしれないが、日本流の教養ではあるだろう。


教養の目的がより良く生きるためならば、私にとって教養とは、葬儀を取り仕切ること、毎年の確定申告が(損しないように)できること、問題が起きたとき弁護士や税理士に相談できること、炊事や洗濯だけでなく家計や子弟の教育を含めた家事全般ができることではなかろうか。
それは常識と範囲は一致するが、その一つ上の階層のように思う。


私が考えたリベラルアーツや教養、常識との関連図である。


教養関連図

いや、お正月、酒を飲んだ頭で考えたものですから、正しい関連図をご存じでしたら教えてください。


さて、「教養がない」と言われた私だが、この図を見ると、私には確かに欠落が多すぎると思う。とても教養溢れるとは言い難い。とはいえすべてを満たさなくても良いようにも思う。


私のような無学なものが、常識はともかく、教養とかリベラルアーツを考えたら笑われてしまう。
その前に年相応の暮らし方を見出し実行することだ。
歳を取ったら若者と歩く速さを競うことはなく、小学生に二重跳びを教えることもない。
無理して怪我をするようではだめなのは間違いない。
そういう観点では、私は常識が不足しているようだ。



ぬれ落ち葉 本日の雑念

昔、外注していた会社に定期的に指導に行った。そこの専務が一所懸命の人で、その会社の作業要領書にレターヘッドに、いろいろな諺とかスローガンを書いていた。
その中で私が気に入ったのは「理屈は花火、実行は爆弾」だ。著名な人の言葉なのだろうか。

専務は口だけの人間はダメだが、一方不言実行を語る者も仕事をしない、期待できるのは「語って実行する奴だ」と言った。
確かに教養とは大事に神棚に飾っておくものではなく、日常使いこなさなければ価値がない。


石破アホ吉

おっと、あのとき「教養のない者はいかん」と語ったのは、なんだったのだろう。
石破のように食べ方が汚いことだったのだろうか?






注1 リベラルはラテン語のliber (無料)とliberalis (自由の)に由来して、奴隷でない市民が就くべき知的研究や芸術的職を意味した。政治的な意味はなかったという。
14世紀「リベラルアーツ」という語句が英語に取り入れられ、「寛大な精神や紳士がもつべき学問」を意味した。
19世紀になり啓蒙主義は「偏狭な偏見がない」という意味も持った。

注2 「自由七科」とは、古代ギリシャ・ローマ時代から中世ヨーロッパの大学で重視された、由市民が身につけるべき文法・修辞学・論理学(三学)と、算術・幾何学・天文学・音楽(四科)の教養で、リベラルアーツの元となった。

注3 元はシラーの言葉らしいが、今ではアイザック・アシモフの小説のタイトルとして有名。
シラーは「無知の人たち」の意味らしいが、アシモフは「知性とか論理が通じない愚かさ、曖昧さが我々の最大の敵である」という意味で使った。

注4() 江戸時代初期の禅僧、鈴木正三(しょうさん)は、「仏教の修行は山にこもって座禅を組むことだけではなく、日々の職業に励むこと自体が仏道修行である」という職分仏行(しょくぶんぶつぎょう)を提唱した。



外資社員様からお便りを頂きました(26.01.05)
おばQさま 謹賀新年 本年も宜しくお願い致します。
目標でお書きの通り、健康で明るく大晦日を迎えられますようにご祈念致します。
教養はお書きの通りの説、日々の生活を豊かにする考えに賛成します。
冠婚葬祭と日々の生活がしっかり出来る事が基本。
その上だと、諸作法と適切な挨拶が出来て礼に適いその場に相応しい振る舞いが出来ること。
西洋の考えを持ってこなくても、論語で「礼之用和為貴」にありますね。
更に幅を広げるならば、結婚式で謡や舞が出来るとか、神社で正しく玉串が捧げられるとか、葬式でお経が唱和出来るとか挽歌を捧げられるとか。
様々な方向性があるのだと思います。 日常の中で突然出会った場で、どこまで出来るかが教養なのだと私は思います。
リベラルアーツ:カリキュラムを見れば欧米中心の学問の流れですよね。
ギリシャ哲学とか西洋美術史が語れても、謡とか和歌とか、判らなくても良いのか?
となると、日本の伝統文化は家庭で学ぶしかないのかもしれません。

外資社員様 あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

教養って便利な言葉なのかもしれません。気に入らない人にその人がしていないことを挙げて教養がないと言えば何でも通用します。
ゴルフをしないとは教養がない、フランス語のメニューも読めないのか・・・、サッカーのルールを知らんのか?、ロウソク足の見方を知らない?古事記を原文で読めないの?蕎麦を打てないのか…皆、私に当てはまります。

昔、小田実が「なんでも見てやろう」という本を書いて、その中で、自分は運転ができない、英語が話せない・・・だからすごいと書いていました。彼とは思想は違いますが同じく開き直りたい。

 >日本の伝統文化は家庭で学ぶしかないのかもしれません
それなんですが、45歳になる息子は、子どものときからおせち料理が苦手で、食べたことがありません。家族がお雑煮を食べているときカレーライスを食べていました。
もともとは、御正月はハレの日で、ごちそうを食べたのだと思います。それは江戸末期か明治の御代ではなかったのでしょうか。
雛祭りも菖蒲の節句も爺さん婆さんは楽しみますが、子どもたちはまったく感動がありません。娘のひな人形は、今も家内が我が家で飾り、その写真をLINEで娘に送っていますが、フーンで終わりです。5月の節句には息子の兜を飾りますが、息子は知らないでしょ言う。
紫式部や江戸文学など日本文化を学ぶことは意味あると思います。けれど伝統行事、年中行事を理解しろ、やれといっても意味を理解できません。
語るのも忌みべきことですが、私が二十歳前は土葬でした。ですから帰宅すると家に入る前に口を漱ぐ、塩を巻くというのは意味を理解しました。けれども今(イスラム教徒が騒いでいるのを別とすれば)土葬なんてありません。行為を理解する基礎がないのです。
お箸を茶碗に差してはいけないといっても、昨年夏の義母の葬儀ではご飯をあげてませんでした。時代が変わったのか、手配(保存)が面倒なものはしなくなったのかもしれません。となるとお箸を差すなということもないのでしょうか?
日本文化は続いていってほしいですが、存在する意味を失ってしまったものも多いのです。
ではどうするのと問われても私に解は分かりません。マンションの老人たちはカッコいいことを言いますが、御正月に孫たちがやって来ると、もう孫の言うことに躾けどころか、自分が喜んで奴隷になっているようです。文化を教えるどころか、孫の文化に染まるのが楽しいようです。
ま、今の若いものはなんていうとボケ老人扱いですから注意しましょう。ちなみに「今の若いものは」というコミックがありますが、内容はその逆で「今の若いものはすごい」というストーリーです。
新年早々から支離滅裂ですが、よろしくお願いします。


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