*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但しISO規格の解釈と引用文献や法令名とその内容はすべて事実です。
磯原たちは山内の指示を受けて、只今 非常事態における緊急事態対応の手順について取りまとめ中である。
「非常事態における緊急事態対応」とは分かりにくいが、災害が起きている状況下において、環境事故などの緊急事態が起きたときの意味だ。
誰が考えても定常時つまり何事もない普通の日に、薬品が流れ出たとなれば吸着マットや柄杓をもって駆けつけることもできる。
手に負えなければ業者にも頼めるだろうし、消防署や市に協力をお願いすることもできるかもしれない。
だが災害たとえば台風で道路が寸断されたとか停電であれば電車が動かず施設管理の担当者が出勤できないなど様々な支障があるだろう。そういう状況でも薬品が流れ出ても、人がおらず器具が動かず、消防署が来ないかもしれない。
とはいえ何もできませんとは言えない。そんなときでも、被害拡大を防ぐために何ができるのかを考えて行動しなければならない。その指針をまとめようというのが目的である。
11月末になった。すでに街頭ではクリスマスソングが流れている。社内では営業関係は年末にいかに数字を出すかと目が血走っている。2013年から立ち上がった景気は消費税増税があり2019年10月から低下しているが、暮れのボーナスは前年並みが期待できるだろう……と従業員の顔色は悪くない。(実際は2019年の冬のボーナスがピークになり、次のボーナスからコロナと消費税増税のために大きく減少した)
環境管理課も1年前に人心一新されてから、素早い決断と確実な実行がなされるようになり、悪い雰囲気ではない。ただパンデミック対策メンバーはいささか焦っている。
打合せ場で、坂本と田中が話し合いをしている。
「公害防止管理者が正副ふたりなのは、出張や休みがあっても一人はいるということだよね。災害時で出勤できないときでも有資格者がいなくちゃならないとすると、災害時に備えてそれ以上に有資格者を養成してないとならないのかね?」
「平常時においては常駐しなければならないわけだ。ただ経産省に常駐要求の廃止とか兼務の緩和などの要請があるようだ
それにさ、交通途絶の状況で公害防止管理者が出勤できないなら、法律以前じゃないですか?」
田中のほうが坂本より年上でかつ管理職だったのに対し、坂本が丁寧語でないのはずっと現場担当者だったからで傲慢とか悪げがあるわけではない。
「それもそうだね。公害防止管理者ばかりでなく、危険物や毒劇物にしても同じだね。
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注:指名業務とは会社で定めた者だけができる仕事のこと。指名業務者とはその仕事ができるとされた者のこと。
指名業務は一つの仕事に1名でなく複数の場合もある。
「とはいえ資格の有無でなく実際に機械操作とかメンテができる人を養成はしておかないとならない。そっちの方が重要だね」
「確かに。しかし実際の工場ではどうなんだろう。あの人がいなくては分からないなんて、よくあるだろうなあ〜」
「それは施設の運転だけでなく、事務処理でもあるだろうね。会社規則で細かいことまで決まってはいないから、書き方が分からないとか書類のファイルはどこかとか」
「確かに……書類の置き場、鍵の置き場、行政の窓口担当者を知っているとか」
「課長代理とか部長代理とか、名目だけでなく実際に仕事ができなければならない」
「権限の代行もあるけど、それだけでなく課長の業務をするための情報というか知識も持ってないと動けないね」
「権限を受け取っても、ルールがどうなのかを知らなければ仕事ができないね。課長級以上でないとアクセスできない会社規則もあるからね」
「ともかく、資格者、指名業務者、権限を持つ人がいなくても、業務を代行できる人を養成しておくことが必要と…」
「課の全員が感染症に罹患しては、課の業務がストップしてしまう。だから物理的に課をいくつかに仕切るとかしなければならないですね」
「確かに、それもパーテーションくらいでなく部屋を別にして空調も別だ。会議は電話会議とか
休憩も食事も一緒にならないようにしないと。
とは言っても、非常事態になってからでは手遅れだ。常日頃からしてないと意味がないんじゃないか? 普段からそうするなんて、そんなことできるのかね?」
「業務効率化とかコミュニケーション向上のために、事務所を大きくするのはまずいか。
私が元いた工場では、会社の環境管理課と構内外注の事務所を同じ部屋にしたんだよ。合わせても20名くらいだったからね。コミュニケーションは良くなったし、今まで古臭い建屋にいた外注の人たちは喜んでいたけど、感染症が流行したら全滅してしまうね」
「この本社ビルでは、ひとつのフロア全部が部課に関わりなしに、仕切りなしのオフィスだ。伝染病が流行ったらひとたまりもない。この部屋の200人か300人が一斉に寝込んじゃうよ」
「そういえば聞いた話だけど、飛行機では正副二人のパイロットは同じメニューの機内食を食べないそうだ。しかもそれぞれを作るコックも違うらしい」
「二人一緒に食中毒にならないようにだね。しかしそれも緊急事態になってからでは意味がなさそうだな。緊急事態になる前から実行しないと…」
「その通りですね。必要なことは平常時にも行うよう提案しましょう」
「そういう風に考えていくと切りも限りもないねえ〜」
「単なる思い付きでは漏れが多いでしょう。自衛隊とか病院で、そういったことについて網羅的なルールとかないか調べてみましょう」
毎週、金曜日に山内、磯原、田中、坂本が集まって、前回以降作られたドラフトを読んで批評会を開く。
「備品としてマスク、ウェットティッシュ、手消毒用アルコールと器具……これは分かるけど保管するスペースとかも考えなければいかんな」
「インフルエンザが流行すると、マスクなど店頭から消えますからね。常備しておかないと」
「それは在庫を持つということで、あまりありがたくはないですね」
「インフルエンザが流行すると、体温計もドラッグストアから消える。東日本大震災のときはトイレットペーパーがなくなったなあ〜。ありゃどういう理由だろう?
ともかくこれは環境管理課というか施設管理部門だけと考えてよいのだろう」
「そう考えています。工場全体を考えるのは総務の仕事でしょう。今の指針作成の前提として、パンデミック発生時に環境管理部門が業務を遂行できるようにするためと考えてます。
環境というか施設管理部門では、事業継続のためにそういう準備が必要と考えます」
「結構、結構」
「手を洗うとかマスクをするにも、避難訓練のように年に一度は実際にする練習が必要ですね。
着用が変だと効果がありません。
それからマスクにしても消毒用機材にしても寿命があるかと思います。ですから毎年訓練で使うようにして、新しいものに更新する必要があるかもしれません」
「分かります。このビルでは毎年の避難訓練のとき、備蓄している水と乾パンは皆に配りますね。もっとも、あれは堅いしまずいから食べられませんよ。まあそれを知るだけでも食べる意味はありますが」
「それから手を洗うとあるけど、断水になったときはどうするのかも知りたいですね」
「なるほど、もう少し実際と参照して考えないといけませんね。仏作って魂入れずでは」
「多くの工場では事務所から出る文具などは、みなし一般廃棄物として行政の処理場に頼んでいると思うけど、市が廃棄物処理場の操業を絞って受け入れしなくなったらどうなるのかね」
注:事業者から出る飲料品のペットボトルとか文具などの金属やプラスチック製品は、法律では産業廃棄物となる。産業廃棄物は産業廃棄物処理業者に依頼することになるが、現実には多くの都市ではそういったものを家庭から出るごみと一緒に処理している。これを一般廃棄物とみなすことから「みなし一般廃棄物」と呼ぶ。
「あわせ産業廃棄物(あわせ産廃)」も同じ意味でつかわれる。
「最悪の場合、構内で焼却ってことになるのかねえ〜」
「オイオイ、それじゃまたダイオキシン問題だろう」
「生ごみなどならともかく、工場から出た廃棄物で置くと腐るものがあるかどうか。それともみんなに弁当を持ってこいって言いますか。
でも大局的に見れば、工場で給食を作り、そこから残飯が出るのと、各家庭で弁当を作り各家庭から残飯が出るのは同じことですけどねえ」
注:企業の給食の残飯は、産業廃棄物ではなく事業系一般廃棄物になる。一般廃棄物でも事業系なら当然処理責任は排出者にある。しかしこれもまた通常は市が処理してくれている。
「なるほど、田中さんが言うとおりだ。市と交渉の余地はありそうだね」
「今からそこまで詰めることはないでしょうし、感染症が蔓延して市の焼却炉が止まるようなときは、工場も操業停止でしょう」
「そうだね、今から心配してもしょうがない」
12月第1週となった。
なんとか山内参与の依頼のものが形になった。例によって4人が集まる。
「いや、皆さん、お疲れ。なんとか形になったようだ。
各工場に電子データを送って、レビューというか内容の確認を依頼してくれ」
「工場で更なるレビューをするのですか?
強制力のない指針や手引きなら、こちらが良いと判断したら採番・発行しても支障ないと思います」
「そうではあるがちょっと気を使ったというところを見せようや。
おっと奥付に各工場でレビューしてくれた奴の名前を入れておけ。相手も悪い気はせんだろう」
「了解しました。
ええと、送り先は工場と事業本部ですか、ついでですから製造業の関連会社にも出しましょう。特段機密はないと思いますし、意見を聞いたという証拠作りにもなりますから」
「そうだねえ〜、ヨシ、そうしよう」
「それでは明日にでも関係部門に送信します。
そうしますとこれからの予定ですが、レビュー依頼をしておしまいでは意味がないです。工場でのレビュー結果を10日後までに返信してほしい旨を記載しておきましょう。
そして返ってきたご意見を反映して制定をして通知が12月20日頃ですか、よろしいでしょうか?」
「結構、結構。気になっていたことが片付くとうれしいよ。
だが採番登録したら、それで終わりでは惜しい。100部か200部簡易製本して工場や関連会社に配布したいね。パソコンでPDFを見ろと言っても見やしないよ。やはり手で持つ冊子でないと」
「了解しました。
まだ1件落着ではありませんが、田中さん坂本さんお疲れさまでした。
工場からの意見が戻ってきたら、修整と最後のまとめをお願いします」
「いやうれしいですね。どんな仕事でも成果物が形になると嬉しいですよ。
私も1冊記念に頂きます」
12月中旬の朝、
磯原が昨晩に入ってきたメールをチェックしていると、山内が磯原の席に来てちょっと話をしようという。
打合せ場に行くのかと磯原が立ち上がりかけると、山内は手の平で磯原を抑えて近くの空いている椅子を引っ張ってきた。
「ニュースを見ているか?」
「NHKとか読売新聞のネットニュースは見ていますが」
「まだそれには載っていなかったか? CNNだかFox newsにあったんだよ。気になるニュースが、
中国でまた新しい感染症が流行りだしたそうだ」
磯原はパソコンでCNNとFox newsを眺める。人民網は見てもしょうがない。あれはニュースではなく中南海のコマーシャルだ。
「CNNに中国で不明な病気というのがありますね。これですか?」
「私が懸念していた新しい感染症が登場してきたという感じだ」
「ええとこれによると、中国武漢市で12月初旬に咳が止まらない人が…とありますね、10日くらい前か
「我々が作った資料を工場で見てくれたらきっと役に立つと思っている」
「それならもう少し、あと半月でも早く出せればよかったですね」
いつの間にか田中と坂本が、椅子に座った山内の脇に立っている。
「いやいや、今がまさにベストタイミングだったと思うよ。あまり早くてもそのままポイされて忘れられただろう。
時期的にピタリだし、レビューを依頼と書いたから、向こうは意見を返さなければならない。ということは一度は読むだろう。
そうすれば中国の感染症のニュースと相まって、自分のところではどうするかと考えるのではないだろうか、そう期待している」
「とはいえ感染症のニュースは、まだ日本国内では報道されていないようですよ」
「まあ問題が大きくならなければそれが一番良い。もし大きな問題になれば各工場で真面目に読んでくれるだろう」
磯原が新聞社のニュースサイトにアクセスすると、まさに『中国で新たな感染症発生、流行の恐れ』というニュースがトップにあった。
「おっと、再読み込みしたら、日本の新聞社のニュースサイトでトップニュースになっています。こりゃ、ただ事ではないのかな?」
「昔の通り名、予言者山内の再来ですか、ハハハ」
「へえ〜、山内さんは予言者だったのですか!」
「恥ずかしい二つ名だなあ〜」
「予言者山内ってなんですか?」
「もう30年も前、私が設計にいたとき山内さんは研究所にいた。何事も新しいことにチャレンジするといろいろ問題にぶつかる。解決策はいろいろ考えらるわけだけど、実験してみるには手間暇もお金も大変だ。
そんなとき山内さんはパッとこれだって決めちゃうんだ。いつもそれが正解なんだ。うまくいかなかったことは一度もなかった。
そんなことから予言者山内と呼ばれるようになったのさ」
「いやはや、山内さんは超能力者ですね」
「それもあるけど、山内さんは特許料がまたすごい。毎年の特許料が年俸の倍と言われていますよ」
「いくらなんでもそりゃ大げさだよ」
磯原のスマホが鳴る。
「ちょっと失礼。ハイ、本社環境管理課の磯原です」
「○○工場の余部です。お世話になっております。
数日前に非常事態における緊急事態対応なんちゃらって指針のドラフトのレビュー依頼をされたでしょう。
今日のニュースを見たら中国で奇病が流行しているそうです。
磯原さん、ひょっとしてその対応として今回の指針を考えたのかなと思いましてね。そう言えば先だっての緊急事態の研修会もありましたね。もしかして本社ではパンデミック発生を知っていたのですか?」
「ちょっと待ってください。常識で考えて私なり本社が、外国で新たな感染症が流行するとかパンデミックになるとか知っていたとお思いですか?
いくらなんでもそれはないですよ」
「しかしこんな偶然はあり得ないと思うが」
「今まで我々の部署は毎日の仕事に追われていましたけど、人材の補強などをした結果、やっと前向きの仕事に取り掛かれるようになったわけですよ。本来なら従来から緊急事態対応の手順とか定めておかなければならなかったわけです。今やっとそこにたどり着いたのです」
「なるほど、そう言われるとそうだね。分かった、ご依頼の件は、よく吟味して回答を提出します」
磯原は電話を切る。
「研修に参加した余部課長からでした。
中国の奇病発生を知っていて、この前の緊急事態研修会とかこのたびの指針作成をしたのかというご質問でした。普通の人はたまたまとは思わないのでしょうね。
これからも問い合わせというか、こちらの真意を問う電話が来るでしょう」
「そう考えるのが普通ですよ」
「まあ何にしろ関心が高まれば、良かったと言えるだろう。よしよし」
本日の恥
公害防止管理者法なんて10年以上関わっておりません。本棚を漁ると10年も前の発行の「公害防止管理者リフレッシュ研修会」と書いてある大きくて厚い本を見つけました。私が受講したのでしょうか、記憶にありません。
ともかくそれを引っ張り出して必要なところを読みました。いや、忘れていたこと多々ありです。
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