ISO第3世代 153.認証の今日

24.03.18

*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但しISO規格の解釈と引用文献や法令名とその内容はすべて事実です。


ISO 3Gとは

*****

山内が磯原と認証のことについて話した数日後、山内は人事から呼ばれた。
人事に行くと下山が小さな会議室に案内する。

下山 「山内さん、お忙しいところ申し訳ありません。
早速ですが本題に入ります。山内さんは今年63歳になりますね」

山内 「おお、その話か。わしはどうなるんかい?」

下山 「弊社では従業員の定年は、2025年に65歳とするよう段階的に延長するとして、組合と協定しています。そして規則では非組合員についても同じく取り扱うとしております。来年2022年3月末に定年になる方は今年度中に満63歳になった方です。

山内さんの場合は非常に微妙なことなのですが、従来は事業所長以上になると定年なしという扱いでしたが、今年の定年延長の協議の後に一般従業員と同じく運用するということになりまして、申し訳ありませんが今年度定年、但し嘱託などで65歳まで保証ということになりました。
実質としては変わらないのですが……」

山内 「分かっている、分かっている。それは気にするな」

下山 「ありがとうございます。
それでは山内さんの今後についてご相談したいと思います」

山内 「正直言って驕る気はないが、お金のために働く気はないんだ。面白いプロジェクトなら無給でもやってみたいが、閑職とか名誉職っていうのはご遠慮するよ」

下山 「山内さんの収入は存じております。特許料が給料より多いですからうらやましい」

山内 「ノーベル賞の中村さん(注1)のおかげだな。昔ならせいぜい数百万だったろうが、あの騒ぎで過去に遡って再評価されて、ストックオプションをもらったりもして、老後は安泰だ」

下山 「まあ、金持ちで無欲の山内さんですから、そうおっしゃると思っていました。ともかく私どもも仕事ですから、該当者に説明する義務があります。

いくつか提案があります。
打合せ まず大学教授というのがあります。少し前に当社の古い生産設備を持参金に教授になった方の後任です。
実を言って学生の相談役です。そして優秀な学生を見つけたらウチに就職するよう指導してください。
ただ会社としては定年と同じく任期は65歳までと考えています。そしたら次の方に順繰りということになります」

山内 「まあ教授と言ってもそういう仕事だろうな。考えているテーマはいくつもあるから、学生・院生を指導してというのも面白そうだ。とはいえ2年ではなにもできないな」

下山 「大学が山内さんを研究者として評価すれば、客員教授とか講師とかで残れるでしょう」

山内 「なるほど、二番目は?」

下山 「業界団体の役員です。正直言って会議と種々行事への出席でしょう。業界団体の役員の定年はありませんが、ウチの社内では後がつかえていて順繰りですから、特段の理由がなければ2年ですね」

山内 「コメントする前にひと通り聞いてしまおう」

下山 「三番目は会社に残って相談役とか顧問という肩書で、新聞でも読んで気ままにすごすというものです。任期というのはありませんが、これも65まででしょうか

四番目は関連会社に転籍です。実を言って山内さんは研究者として有名ですから、素材系とか特殊な部品加工の会社から来てほしいという声は以前からあります。いつまで勤務できるかは相手次第ですが、体力が続けば70過ぎまでもあるでしょう。
五番目は四番目と類似ですが、ISO認証機関の取締役に転籍です」

山内 「ウチが出資しているというと品質環境センターかい?」

下山 「さようです。まあいろいろ問題があったようで、お気に召さないかとは思いますが」

山内 「気に入らないところを、気に入るように改革しろということか」

下山 「いえわざわざ、難しい問題を抱えることはありません。ただ当社としては取締役一人の席がありますし、一番関りがあるのは山内さんかなと考えました。
そういう意味で業界団体か相談役あたりが、無難というか問題を抱えることはなく気楽でしょう。
山内さんが新規開発に携わりたいというのであれば関連会社ですね。開発ですと苦労も多いでしょうけど」

山内 「ウチの定年は3月だよね? まだ1年近くある」

下山 「定年は満年齢になった次の3月です。しかし定年即退社ですから、実際にはその半年前の10月に役職解任になりますし、職が変わる場合は異動辞令が出ます。山内さんは今年の10月、あと半年です。
いろいろお考えいただけますか。希望とか相談とかありましたらいつでもどうぞ」

山内 「どうもありがとう。同期は500人くらいいたけど、今も会社に残っているのは10人いないだろう。私は長居しすぎたようだ」

下山 「山内さんの同期で今も勤務している方は、まだ50人くらいいますよ」

山内 「そんなにいた?」

下山 「山内さんは事業所長など出世した人しかご存じないでしょうけど、課長以下で終わった方は、定年したのち普通に嘱託でいます。40年も会社にいれば特殊技能とか必要な資格保有者も多いですから、それを売りにして長くいられます。実際に70くらいまで嘱託をしている方もいます。
もっとも体力が衰えたとか元気なうちになにかをしたいと、嘱託2〜3年で辞める方がほとんどですね」

山内 「65歳まで定年が伸びても、そこまで働く人はそんなにいないか?」

下山 「歳をとると老化して体力も衰えますが、通院する人は65歳から急増しています(注2)やはり65歳は区切りの年齢なのでしょう」

山内 「確かにゴルフも80までは無理だろうなあ〜。それならわしは今すぐにも退職しなければならんな」

下山 「統計はあくまでも多数のこと、一人一人を見ればいろいろです」

山内 「そりゃそうだ、分かった、少し考えさせてもらう」


*****

下山と話した後、事務所に戻るが、自席に座る気がしない。
山内は打合せ場に座り、コーヒーを飲みながらいろいろ考える。
妻は仕事には口出ししない性格で、家事はしっかりするが後は趣味に生きている。山内と違い体育会系で、スポーツで出会った友人も多いようだ。山内が下山から提示されたいずれを選択しても気にもしないだろう。家内は趣味の方が夫の仕事より重要だろう。
年齢から仕事を変わらざるを得ないのは仕方ないとして、提示されたいずれもあまり乗り気にはなれない。

山内が打合せ場でひとりコーヒーを飲んでいると、岡山が通りかかった。

岡山 「山内さん、どうしました、あまり元気なさそうですね」

山内 「お前さんに心配されるようじゃ、わしも焼きが回ったか(笑)」

岡山はいったんそばを離れ、給茶機でコーヒーを注いできて山内の向かい側に座る。

山内 湯気
紙コップ
湯気
紙コップ
岡山

山内 「お前はいい性格しているなあ〜。わしがお前の年には20歳も上の人に、無造作に話しかけるなんて思いもよらなかったぞ」

岡山 「山内さん、そういう発想は昭和ですよ。今は令和です。昭和の次の次です。昭和の時代に明治のことを語っても鬼 👹 が笑います」

山内 「鬼が笑うのは未来だろう。過去も笑うのか?」

岡山 「山内さんも定年のご検討ですか?」

山内 「そうだ、良く分かったな」

岡山 「柳田さんから山内さんの来年は定年と聞いてます」

山内 「余計なことを……今日は人事に呼ばれて希望を聞かれたよ」

岡山 「私はなれませんでしたが、山内さんはドクターですから、大学教員なんて狙い目じゃないですか」

山内 「教授になっても数年間のことだし、学生・院生のリクルートが役目のようだ。
そもそも30年も前にドクターになったからと言って、研究や開発なんて10年以上してないよ」

岡山 「それじゃここ数年、大手企業で環境行政をされてきたのですから、その経験を生かしてNPOとか財団法人で環境関連の仕事はどうですか」

山内 「どこに行ってもわしは管理職なんだよね。外部との交渉、決裁、人事管理、つまらなくないか?」


*****

更に数日、山内はいろいろ考えているが新しいアイデアもない。ひとつ同年配の人が定年が伸びて企業勤めをどう考えているのかも知りたい。
田中さんは引退してしまったから、身近にいるのは坂本さんだけだ。彼は言葉使いが乱暴で現場の人のようだと教養を疑う人もいるが、海外で工場を建設したり操業を立ち上げたりしてきた人だから一家言あるだろう。坂本節でも聞かせてもらおうか。

山内は会議室に呼んで話を聞く。

山内 「申し訳ない。仕事の話じゃないんだ。老後のことだ。わしももう引退の時期で、どうしようかと考え中だ。坂本さんはどうして本社に来ようとしたのか、会社から定年のとき何か提案があったのか、そのへんのことと、老後のプランなど考えていることをお話しいただけるかなと思いまして」

坂本 「そういうことですか。私も定年前に具体的に考えてはいませんでした。私はずっと手足を動かす仕事をしてきましたので、あまり深く考える人間じゃありません。

まず時系列に話しますと、本社に来る2年前に役職定年になりまして、環境係長でしたが解任になりました。まあ係長が役職定年になっても、その職場で定年まで過ごすのは普通のことで、私は排水処理施設とかボイラーなどの運転を、指示する立場からされる立場に変わっただけで、実際は同じ仕事をしておりました。

そのときは定年になれば嘱託になり、2〜3年して退職だと漠然と考えていました。
まあ、それが先代も先々代の先輩もずっとしていたことで、それが歳に応じた流れという思いがありました。

実際に嘱託になると感じるのは、若手、私より若いという意味ですが、若手から邪魔者として見られているのが分かるのですよ。皆50とか40になれば、先輩がいるのはうざいんです。私もそうでしたから分かります、その気持ち。

周りを変えることはできませんから、猫 を追うより皿を引くしかありません。近隣に関連会社はありませんでしたが、環境管理なんて仕事は独特でして、市内にはボイラー技士の会とか、公害防止担当者の集まりと同業者のつながりはあるんですよ。
そんな付き合いから地場の中堅企業とか中小企業から、定年になったら来てくれませんかという話はありました。

最近ボイラーは減りました。今需要があるのがエネルギー管理士とか電検二種ですかね。電験三種では不足だが電検一種はいらないという工場は多いですから。やはり重油から電気への転換、そして省エネ要求が大きいです。

残念ながら私は電気関係の資格はないのですが、ボイラーと排水処理は経験がありますので、そういう人が欲しいというところはいくつかありました。実際に話をしたりしていましたが、やはり賃金ですね、それと福利厚生のことがありまして、定年までスラッシュで働いて、嘱託をしないで移ろうと考えていました」

山内 「居住地を変える気があれば、社内の他の工場とか関連会社を探せば、坂本さんの力量を発揮できる職場はあったと思いますが」

坂本 「なにぶん田舎の工場にいては、そういう情報は入りません。本社に移ってどんな関連会社があるとか、どんな仕事があるとか、初めて知りました。
私も海外工場立ち上げとか、国内でも排水処理装置の導入支援とかで社内の工場で数か月仕事したことがありますが、年を取って管理職を外されたから仕事ありませんかと声をかけられるような付き合いはありません」

山内 「なるほど、」

坂本 「2年前、正確には2年半前ですか、千葉工場の佐久間さんから、管理職を引退して肩身の狭い思いをしてるんじゃないかと、ご機嫌伺の電話をもらいまして……彼が言うには、やる気があるなら紹介してやるということで、それが始まりで本社に来ることになりました」

山内 「地元で新しい会社で働くより単身でも本社の方が魅力的でしたか?」

坂本 「本社の仕事は魅力がありましたね。かっこいいとか肉体的に楽とかいうことではありません。
持っている知識を活用できる場というか、田舎の工場で周りから敬遠されているとそれが魅力的でした」

山内 「実際にそうでしたか?」

坂本 「自画自賛というつもりはないですが、工場で事故が起きたり違反が見つかったりすると、飛んで行って対策を協議したり指導したり何度もしました。生きがいといっては失礼かもしれませんが、仕事をしていると実感しますね。静岡工場にいたときのように若手から邪魔者扱いされることもありません。

あれから2年間静岡工場でじっとしていたら、精神衛生上耐えられなかったかもしれません。
話は続きますが、嘱託になって静岡工場に帰るというのは考えられません。社員であっても邪魔者扱いなら、嘱託はなおさら冷たいと思います。
必要とされるならうれしいですが、義理で雇ってもらってもつらいだけです。

知り合いの工場に移るとしても、どんな人間関係かは分かりません。良い悪いは半々でしょう。
本社では田舎者でありますが、なんとか自分の居場所を得ました。人様に迷惑をかけず、それなりの仕事をあと2年か3年勤めることはできると思います」

山内 「なにをおっしゃる、坂本さんの経験と知識をこれからも若者に伝授してください。
坂本さんのお話を聞いていると、自分の興味とか楽しみを基準に定年後の仕事を考えている私は悪者のように思えてきました」

坂本 「いえいえ、ひとそれぞれですから、良し悪しはありません。
30年前の私の希望は、60くらいになったら当時新設したタイとかインドネシアの工場で、閑職について悠々自適の暮らしでもしたいなと考えていました。

建設中 ですが東南アジアや中国の工業化は急速で、もう私の技術技能を売って、食っていける状況じゃありません。それに当社が彼の地に作った工場のほとんどは、現地化してしまいました。

また私が現地の言葉を使えても、家内が一緒に来てくれるとも思えません。更に経済発展は別の社会問題を発生させましたし、政治は不安定になってきました。
結局、日本人は日本で生きていかないといけません。逃げることはできませんよ。お金だけでなく、文化、宗教を考えるとそう思います

山内 「なるほど……
坂本さんと同じような仕事をしていた人で、ISO審査員になりたいとかコンサルになったとかいう話も聞きますが、そういった希望はなかったですか?」

坂本 「審査員になりたいという話をよく聞きます。2000年代環境担当者は、ゆくゆくISO審査員になりたいという人が多かったですね。実際に審査員になった社内・社外の同業者もいます。またISOコンサルをしたいと思っていた人も多かった。
でも私はそうなりたいと思ったことはなかったですね」

山内 「それは、どうしてですか?」

坂本 「会社でISO14001認証に関わった人は多いですが、そういう人たちはいくつかに分類されます。
ひとつは環境管理をしてきた人たちのグループです。排水処理とかボイラー運転とか廃棄物処理をしてきた人たちですね。私はこのグループに入ります。
そういう人たちはISO規格を読んで、こんなもの何が良いのかと思いました。

日本では公害防止組織法というのがありまして、そこでやることがきっちりと決められています。ISO規格のように「確立し・実施し・維持しなければならない」とか「次の事項をすること(注3)なんてあいまいなことではなく、「○○を管理する者を選任しろ」「○○の届け出をしろ」と具体的、即物的に書いてあります。

世界共通の規格だから漠然となるとか一般論になるというかもしれませんが、実務では即物的に決めてもらった方が良いですね。あげくに審査員が規格に書いてあることと違うとか言い出して迷惑するだけです。
品質でISO9001がありましたが、あれは法規制と関係ないからまだいいです。でもISO14001は法規制があるわけで、それと微妙に違うようなことを規定されると現場は困るばかりです」

山内 「ISO14001と法が抵触というか齟齬があるのですか?」

坂本 「審査員の考え方によりますね。規格では現実を把握しろ、法規制との関りをとらえよ、対応せよという三段階になっています。
現実は大違いですよね。公害六法が作られたのは……おっと今は環境六法というのでしたか、名前が変わったのも30年前でしたね、アハハハ

ともかく公害六法が作られた1970年頃は、現実を法規制を満たすように設備とか運転方法を検討して対応するという時代でした。私が中学・高校の頃ですね。
1980年頃となるともう大気・水質・騒音・振動ともに、法規制を守るのは大丈夫というレベルになりました。すると新設備を導入するにあたり必要な公害予防措置をする、資格者を養成するというレベルとなり、1990年頃になると、事故が起きるとか老朽化したでもなければ大丈夫という時代になった。

するとISO規格に書かれている順序と現実は違うのですよ。その記録どうこう言われても困ります。逆に導入時の検討などは法律があるわけです(注4)

山内 「じゃあ、導入時の検討記録とかを審査に見せればよいじゃないか」

坂本 「そう考えるのが論理的ですね。それが通じる審査員ならよろしいですが、現実を把握した記録はあるのか、法規制に関わるか調べた記録はあるのかと言われると、こちらは新設備導入時の検討結果を見せるのですが、これじゃない!と言われると途方にくれます。

こういう仕組みだから規格要求を満たしているでしょうと言っても、理解できない審査員が多いのですよ。
彼らは杓子定規に規格通りでないと理解できないようです」

山内 「うーん……おっと、また第一グループの話だった。グループ分けするといくつかになると言ったね」

坂本 「二つ目のグループはISO9001の認証をした人たちです。このグループは更に二つに分けられます。
ひとつは品質管理や品質保証に関わってきた人たち、もうひとつは英語に明るいという理由でISO9001認証に関わった人たちです」

山内 「すまん、品質管理とか品質保証は分かるが、英語に詳しいと何かあるのか?」

坂本 「ISO9001に取り掛かった頃は、日本語訳でなく英文の規格で審査を受けるというのが多かったのです。ええとISO9001は既にJISZ9901として訳されていました。しかし日本人のというか、認証機関がまだ日本語での審査に対応できてなく、イギリスから審査員を呼んでくる状況でしたので、英語の規格で審査されたわけです」

山内 「なるほど……坂本さんはISO9001にも関わったのかい?」

坂本 「はい、工場の温湿度とかエア圧などで工程管理という項目で審査されました。当時私は30代初めでした。英語なんて学校で習っただけで、そのとき初めて外人と英語で話しました。通じませんでしたけど、アハハハ」

山内 「なるほど、そういうことで英語を話せる人が活躍して、その流れでISO14001にも関わったということか」

坂本 「そういった人たちは、ISO規格をゲームのようにというとおかしいですが、要求事項をいかに満たすかという切り口で考えていましたね。我々昔から公害防止とかしていた人種とは違いました。
彼らが言うには、公害防止組織法は製品とかサービスは対象外だから、それをカバーするものが必要だと言いました。
確かにその通りですが、それなら製造部分は、法規制通りしていれば良いのではないかという気がしますね。

ところがISO9001から流れてきた人たちは、ISO14001の審査では全滅しました」

山内 「そりゃまた、どうしたわけ?」

坂本 「ISO9001の審査では、英文を読んで文字解釈するというオーソドックスなアプローチが通用しました。しかしISO14001の審査では認証機関の解釈とか審査員の解釈がまかり通り、企業側が正論を語っても相手にされなかったのです。

いや、審査員に異議申し立てとかすればよかったのでしょうけど、当時は異議申し立てを説明するような認証機関はありませんでした。まさに審査員は神のごとくふるまったのです」

山内 「あ〜、言っていることが分かった。磯原がいつも愚痴っている有益な環境側面とか、目的目標の期間のようなことだな?」

坂本 「おっしゃる通り。ISO14001に基づく審査ではなく、認証機関の考えによる審査なんです。それは今も尾を引いています。
ともあれISO9001から来たメンバーはあまりのバカバカしさにサジを投げました。我々環境を仕事にしていた連中は逃げようがなくて、そのバカバカしい審査を15年間も相手してきたのです」

山内 「磯原が来てからおかしな審査については苦情を入れているが、工場ではそういうことは知られていないのか?」

坂本 「話は聞いていましたが、正直言って手遅れです。本社は認証を返上してしまいました。静岡工場も大手客先と交渉中で今年中には認証を返上すると聞きます。
皆文句たらたらですよ、なんで10年前、15年前に審査員を正せなかったかと」

山内 「逃げるわけではないが、私がここにきて4年少々、磯原が来て4年ちょうどだ。我々が改善したと理解してほしいね」

坂本 「それは分かります。まあ、工場から見れば担当者や管理者が代わっても本社は本社ですから。
当然、私も工場からは怠慢と言われているのです」

山内 「話は戻るけど、ISO審査員になりたいと考えなかったのはどうしてですか?
今のようなことがあったから、審査員などしたくないというわけですか?」

坂本 「それがないというと嘘になりますね。でももっと他にあります。
ISO審査に意味がないからです。法規制を守っているかどうかは審査対象ではないでしょう。規格にも書いてあります(注5)
当たり前ですが、法律を守ることは、ISO規格を守ることより重大で価値があります。いや正しくは法律を守ればISO規格を守る必要はないのです」

山内 「ISO規格の序文には要求事項を満たした仕組みを作らないと、末代までしっかりした遵法と汚染の予防はできないとあったぞ」

坂本 「そこんところは規格が悪いのか、審査方法が悪いのかは、私には分かりません。しかし言い方を変えると『要求事項を満たした仕組みを作れば、遵法と汚染の予防はしっかりできる』となりますね。しかし現実はそうではない。

彼らは責任を取りませんよ。認証している企業で事故や違反が出ると、『審査で騙された』と言います。


坂本
良心はあるのか!
ふざけんじゃねーぞと言いたいですね。規格が悪いのか、審査が悪いのか、反省してもらい審査方法を変えるべきです。
方法としては審査工数を増やすとか、審査員の力量レベルを上げるとか、出されたものを見る審査から自ら目を光らせて調べるとか、いろいろ手はあるでしょう。

高い金をとって間違えれば責任逃れ、そんな商売がまっとうなはずはありません。
ともかく規格の文言通りでないとダメという審査には、付き合いきれないというのが本音ですね。

それから先ほど出た、規格の拡大解釈というか、上乗せとか横出し(注6)とかありますね。有益な環境側面とかです。
自分が審査員になって、自分が納得できない審査基準で不適合を出すなど、良心に恥ずかしくできません。
だから私は審査員にならないし、世の審査員の責任を問いたい」

山内は興奮した坂本を見て、苦労してねじ曲がってしまったのだろうと思う。それほど実際の審査はひどいのだろうか。


*****

山内は考える。
人に歴史ありというけれど、坂本さんもいろいろ経験をして考えているものだ。山内はここ数年、ISO認証制度の害悪を排除することに努めてきたつもりだ。

杓子定規の規格の読み方で社内の問題を無視するのを止めろといい、余計な要求事項を追加するなといい、証拠と根拠をはっきりさせろと言ってきた。 山内さん
それは決して悪いことではなく、怠慢であったつもりもない。
しかし現実は山内や磯原が是正を要求した程度では、審査をまっとうにするなど夢のまた夢ということなのだろう。
実態はそんな甘いものではなかったのだ。

となるとISO認証機関の取締役という線もないな……自分が苦労して改善を図っても成果は期待薄だ。改善の見込みのない苦労で数年間を無為にするより、学生を指導するとか関連会社でチャレンジする方が、やりがいがあり世のためにもなりそうだ。



うそ800 本日の反省

私が定年になったときというと、もう15年も前だが老後のことを何か考えていたかというと、なにも考えていなかった。
社員の時はフルパワーで働き、嘱託になればハーフパワーで老後に軟着陸という発想もあるかもしれないが、まず通常の会社では嘱託であろうとフルパワーを期待するから、それもない。

実際には会社を辞めてから、家内に何をしようかと相談した。とりあえずひと月くらいぶらぶらしろというのが家内の返事だった。
実際にひと月は何もせずというか、どこにも所属しないで家の周りを歩いた。自分のマンションの周りを散歩することさえ定年してからであった。
それからフィットネスクラブ巡りをしたり、近くの公園を歩いたりした。
私はダメおやじであった。


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注1
LED 中村修二、高輝度青色ダイオードの開発でノーベル物理学賞を受賞
退職しUCSBの教授となったのち、元の勤め先である日亜化学工業から営業秘密の漏洩で訴えられ、逆に過去の発明への報償が少ないと特許権の譲渡などで提訴した。
日亜化学工業の訴えは棄却となり、中村の訴訟は200億支払うように判決が出た。最終的に8億で和解した。
この後、日本では多くの企業が発明発見の対価の見直しを行った。

注2
注3
バージョンによって「shall」の訳が変わった。1996年版は「しなければならない」2004年版は「すること」2015年版は「しなければならない」である。この違いが何か意味が違うとか、強制力の度合いが違うのであろうか?(反語である)

注4
環境法規制ではないが、安衛法の施行規則などで新設備、新物質導入の際の検討が定めてある。今はROHSなども反映しなければならない。

注5
ISO17021 9.2.1.2b)注記で「法令順守の審査ではない」と述べている。

注6
法律は最低限を決めていて、条例でそれより厳しいことを決めても良いとしているところが多々ある。
上乗せ規制とは法律で100以下としているところを、80以下と規制値を厳しくすることで、横出しとは法律ではAだけ100以下としているところを、AもBも100以下と法律にないものについても規制すること。



外資社員様からお便りを頂きました(2024.03.18)
おばQさま
いつもリアルなフィクション有難うございます、フィクションと断ってあっても、背景にある事は事実や合理性があるので、とても参考になります。

いつも通りの一部突っ込みでご容赦下さい。
今回 一番 気になったのは山内の退職後のお話。
こういう事は、大きな会社での経験がないと判らないですよね。

その中で、大学教授への道。
お書きになっている設定のように、企業から寄付があって、退職後の道として大学があったのでしょう。
山内のような実績のある人ならば、学生にも良い影響を与えられたのだと思います。
一方では、日本の大学の凋落を招いたのも、老後の道としての大学講師という点もあったかもしれません。
大学で教鞭をとって良い学生を育てられるかでは無くて、退職者の都合で講師や教授は選ばれていた。
これは事実なのですが、これを続けていたら学生は育たないのは当然だと、あらためて感じました。

私は80年前後 工学部電子工学科に在籍しましたが、半導体が当たり前の当時でも真空管について教える教授がいて驚きました。
もちろん、それは必要なのとは思いますが、当時主流で利用が更に増えている半導体に比べて、あまりにも授業時間が少ない。
就職になった時に更に驚いたのは、大学院に行くより企業に行った方が勉強になると教授が当たり前に言う点。
工学部とは実学だから教授からすれば当たり前の事を正直に言ってくれたと思います。

その後企業で開発関連の仕事をして、パソコンやデジカメ、メモリカード、液晶テレビ、携帯電話など、現在でも主流になっている様々な製品が、日本企業が中心に開発され世界に広まりました。しかしそうした製品を開発した人が大学で教鞭をとっている話を聞いた事がありません。
たまたま私の周りだけかもしれませんが、大学で教鞭をとっているのは企業でそれなりの地位だった人で、ものづくりの現場で活躍した人では無い感じがします。

昨今 「日本の物づくりはダメになった」などと言われますが、何のことは無い、現場で開発した中心人物が、教育に現場にいなければ、経験の継承は出来ないので当然だろうなと思っています。
それは突然起きた事ではなくて80年代からずっとそうだったのです。

もちろん、これは私個人という狭い世界ですし、偏見のある感想なのですが、自分なりに感じた事なので、おばQさまのご意見を伺いたく感想を送りました。
いつもながら、おかきになった事への感想でなく申し訳ありません。

外資社員様 毎度ご指導ありがとうございます。
実を言って、私も大学の先生になった方々を幾人か見ていますが、その方々がどんな講義をしているのか、実験をしているのかを見たことがありません。
ノーベル賞の中村氏のことをチラと書いたのですが、そのために簡単に業績とかなにかを見てみました。彼はアメリカに渡って大学の先生になったわけですが、いろいろと研究をしているのですね。それは企業にいたときの仕事の延長だろうと思います。
ということは大学でドクターを取って企業に入って若い時研究開発をしていても、40過ぎて管理者になっては、もう大学で講義する力はないのではないでしょうか。そんな気がします。

話は変わりますが、最近ドクターになって職がないとか、やっていけないという新聞記事やネットをたくさんみます。私の友人や知り合いにも、ドクターになったものの大学に残れず就職もできず、街のコンサルのようなことをしたりしている人もいます。その悲喜劇を動画にしたのもあります。
そんなのを見ると、ドクターになって大学に残ろうなんてのは、無謀な冒険に思えます。


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