注1:この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但しISO規格の解釈と引用文献や法令名とその内容はすべて事実です。
注2:タイムスリップISOとは
1993年ゴールデンウイークが終わった。
福島工場の予備審査が5月18日である。実質7日しかない。
佐川は千葉工場に2日間行っただけで、長野と兵庫の本審査に向けての指導を山口に頼み、自分は勤務先である福島工場の最終チェックをしている。
長野や兵庫であったような、規定集のファイルのミスもなく、各課長は聞かれることも答えることも、暗記したようなものだ。 何を聞かれるか分かるのかと思うかもしれないが、マニュアルに書いたこと以外は聞かれるはずがない。それは三段組にある通りだ。
工場の現場も歩いたが、整理整頓、表示類、作業指示書の掲示などおかしなところはない。アース線の切れとか建屋の破損など、他の工場で指摘されたことは点検して対処している。
正直やりすぎという気もする(笑)
審査を受けるのは社内で3番目となるが、認証機関が皆違うから認証機関の流儀が違うかもしれない。切り口が違うとか、規格解釈が違うとか、
そうそう、審査は英語で行うのが先行2工場と大きく違う。質問と回答ごとに通訳が入るから、コミュニケーションがとりにくいだけでなく、質疑の時間が日本語で行うときに比べ倍かかるだろう。この辺は課題だ。本審査が日本語オンリーになれば良いが。
半面、良いことではないが、相手に知られずに日本語で打ち合わせできること、出した書類が別物でも、あるいは書いてあることが説明と違っても分からないなど、ごまかしがきくかもしれない。もちろん審査員は第三者に内容の確認を取るだろう。
ともかく複数の認証機関の審査を経験することにより、審査の情報蓄積になると佐川は期待する。
参ったのは尾関副工場長が毎日、佐川のところに来て、掃除が悪い、現場に切粉が落ちている、帰るのが早い、夜12時前に帰るなとか言ってくることだ。
まっとうな意見なら真面目に聞くが、邪魔するためが見え見えだ。ハイハイと右から左に流したいところだが、佐川を捕まえて放そうとしない。この忙しいのに仕事のプライオリティを考えろと言いたい。尾関副工場長はビジネスの今後に支障が出ても、佐川の足を引っ張るほうが重要なのか?
![]() | 💥 | ![]() 佐川 |
毎日、副工場長と戦っていても、日は過ぎて予備審当日になった。
経営者は工場長、管理責任者は猪越センター長であり、尾関副工場長に出番はない。もちろん役割がなくても、副工場長という職位からどこにでも顔を出すだろう。口も出すかもしれない。不安はある。
審査の朝、佐川は守衛所で審査員がやって来るのを待っていた……わけではない。
前日に泊まるホテルの連絡があったので、佐川は工場長の社用車を借りて、ホテルまで迎えに行った。もちろん運転は工場長専属の運転手である。
車を降りると佐川は応接室まで案内する。工場長と副工場長そして猪越センター長が挨拶する。お茶は、イギリス人なら紅茶でしょうと、桜庭さんがわざわざ紅茶を用意した。
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デイブ・ハワード 主任審査員 | 吉富 審査員補 |
審査員は、イギリス人のハワード氏と、見習いと称する日本人の吉富氏である。
ハワードは40歳くらいで、英語で日本語は話せないと断り、二木さんが付きっきりで通訳した。とはいえゆっくりハッキリと発音するので、佐川にも半分は聞き取れた。通訳にだけでなく、皆が理解できるようにと話しているのだろう。
イギリスからISO審査のためにきた、日本では数社の審査をしていく予定だという。
日本の事務所が動き始めれば、日本駐在になるような話をした。
吉富氏は新人とは言うものの、御年58歳である。某企業で品質管理の専門家だったという。ISO審査員というものは定年間近でなるものらしく、その分、70歳近くまで仕事ができると説明する。
吉富氏は審査員研修を受けると審査員補というランクになり、何度か審査を経験すると審査員になり、更に研鑽を積むと主任審査員になる。そして一人で審査できるのは主任審査員である必要があり、主任審査員になって一人前の審査員だという。
いや、佐川は聞くまでもなく知っていたけど。
佐川はこの二人と会ったことがない。前世ではやはりイギリス人が来たが別人だったし、日本人の審査員補は来なかった。
二度目の人生は一度目の人生とは、いろいろ変わり始めている。
オープニングミーティングは工場長以下審査を受ける部門の、部長・課長そして副工場長の10数名だ。言葉が違っても、話の内容は万国共通らしい。
その後同じ部屋で経営者インタビューをする。これもまた万国共通なのか、ISO認証を受ける理由、認証範囲を決めた理由、方針に込めた思い、そんな程度で終わった。
オープニングミーティングを終えると、現場巡回となる。案内は製造部長がし、管理責任者の猪越センター長と、書記役の製造課の庶務の女性が付いていく。
悪いところを見つけるというより、どんな仕事をしているのか、どのような施設や機械があるか、働く人の様子を知るのが目的のようだ。
その間に佐川、山下、桜庭で審査会場の準備をする。書面審査の始まりは1カ所だが途中から二手に分かれるので、会場となる会議室はふたつだ。
机と椅子は前日に並べておいたが、灰皿の用意、座る位置の指定など細かなことは多々ある。席札も置かなければならない。
その他、コーヒーを出す時刻、次の部門を呼ぶ担当とか、再確認する。
「灰皿はガラスじゃなくてアルマイトの物が良いな」
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「ガラスの方が上品でいいじゃないですか」
「落としたりすると危ないと思ってさ」
「審査中にタバコを吸うのですか?」
「吸うかもしれませんから、用意しておくほうが良いでしょう」
3人は各机にアルマイトの灰皿を配置して歩く。
そこに尾関副工場長が現れる。
「なんだ、お前たち、こんなチャチな灰皿じゃタバコがまずいだろう」
「アルミの灰皿なら審査員が不要と言えばすぐに片づけられますから」
「いや、だめだ。ガラスの灰皿を用意しろ」
佐川は肩をすくめて桜庭さんと山下さんに「すみません、お願いします」と声をかける。
桜庭は、佐川が何か考えているのは分かるのだが、何を考えているのかが分からない。佐川はいろいろ考える人だから、軽いからだけでアルマイトの灰皿にするはずがない。
灰皿を取り換えていると、副工場長が今度は椅子が悪いという。審査員の椅子は皆と同じではだめだから、部長用の椅子で余っているものを持ってこいという。部長の椅子は背もたれが大きく、ひじ掛けも幅広くゆったりしているのだ。
この時代、役職で机も椅子もスペックが違ったのである。平社員の椅子には、ひじ掛けなどない。
佐川以下三名が逡巡していると、幸いにも工場巡回していた審査員一行が戻ってきた。
そして尾関副工場長が何か言おうとする前に、製造部長以下、審査員も含めて全員が手近なところに座った。
佐川が桜庭に目で合図すると、桜庭がお茶の用意に行き、山下は少し離れて座ってしまった。もちろん佐川も座る。
副工場長も口を閉じて、手近なところに座る。
「ハワードさん、工場の印象はいかがでしたか?」
二木さんが通訳する。
「想像していたより、とても整理整頓が行き届いていてすばらしい。
作業はコンベア上で行われているが、休憩時などどこまで作業したか、どこから作業するのか分かるのか?」
そんな軽いやり取りが続く。
二木さんは一生懸命ハワード氏に通訳している。
ハワード氏は、二木氏の通訳を聞いてニコニコしているが、一方、吉富氏は面白くなさそうな顔をしている。
今回の審査はどうなるのだろう、佐川も予想がつかない。
「どこを見ても品質方針が掲示されていないが、方針は周知されているのか?」
「我々は規格を熟読しました。品質方針は『理解され、実施され、維持されること(4.1.1)』とあります。掲示しろとも携帯しろとも暗記しろともありません。
弊社ではISO以前より、一人一人の職務を理解させ、工場長の意思、つまり方針を実現するには、自分は何をすべきかを考えてもらいます。当然、作業者のすべきことは、ひとりひとり違うはずです。それが方針の理解であり実施であると考えます」
「方針の周知とはそうじゃない。周知とは皆が方針を覚えることだ」
二木さんの通訳を聞いたハワード氏が、手を振って吉富氏の話を止めた。
そして二木さんがハワード氏の言葉を語る。
「製造部長の語ったことは、まさに規格要求そのものです。そういう発想で工場の人たちが働くことがISO9001の実現です。壁に方針を貼るなんて、意味のない行為です……とハワードさんは語っています」
それを聞いて製造部長はドヤッとした顔をし、吉富氏は面白くない顔をする。
佐川は、吉富氏は先生、先生と持ち上げられないと、怒るタイプのようだと思う。
佐川は今まで社内では、審査員は対等、大いに議論すべしと話していたので、これでは問題が起きるかなと懸念した。
しかしリーダーがイギリス人なので、上から目線ではないと期待もする。
審査が始まる。
管理責任者に対してはハワード氏と吉富氏が一緒に審査をして、それ以降はひとりずつ分かれて行うスケジュールだ。
審査を受けるのは猪越センター長と佐川で、その後ろで山下が待機する。
なぜか尾関副工場長が脇に座って身を乗り出している。これは……諦めるしかなさそうだ。
![]() 尾関副工場長 | ||
吉富審査員補 ![]() | ![]() |
|
ハワード主任審査員 ![]() | ![]() ![]() |
|
![]() 二木さん(通訳) |
「『管理責任者は他の責任とかかわりなく』とありますが、職務分掌では品質保証課長は計測器管理、信頼性評価試験などの責任者となっています。
これらの責任は管理責任者のお仕事とコンフリクトが生じませんか?」
注:コンフリクト(conflict)とは名詞で、紛争、対立、二者択一の状況、矛盾などの意味である。
『管理責任者は他の責任とかかわりなく』という文章から「管理責任者」は品質に関わる人はできないとか、品質保証なら良く品質管理の人はダメという説が多かった。裏返しで、企業内に品質に利害のない管理職はいないという意見も絶えなかった。だからこの質問はISO9001審査の初期にはポピュラーな質問であった。
英英辞典によると「irrespective of something」とは、「somethingに関係なく」とか「somethingに優先して」のときに使われるとある。
例文「People thought well of him generally, irrespective of whatever party you support.」「人々は己の支持政党に関係なく、彼を高く評価した」
余談だが「you」は特定の個人ではなく、文を読んでいる人を意味するそうだ。
この伝でなら「立場を気にせずに」「立場に囚われずに」というニュアンスかな?
考えてみれば、会社の各職務の行動手順や基準にコンフリクトがあるなら、それはそもそもおかしくないか?
例えば営業部長が不良品でも良いから売れとか、品質管理課長が赤字を気にせず良いものを作れなどと言うわけがない。
「コンフリクトとおっしゃると、計測器に校正はずれがあったけど出荷が迫っているからOKにするとか、信頼性試験で規格を満たしていないけど開発完了にすることを想定されているのかもしれません。しかし、そりゃ職務のコンフリクトではなく、ルール違反という不正ですよ。
就業規則でも規定でも制定や改定時には、そこで定める判断基準や業務手順が既定のルールに矛盾がないかをチェックします。そして我々は規定に基づき、命令に従い、誠心誠意、職務を遂行します。全工場の基準と手順に矛盾がなく価値観ですから、基本的にコンフリクトは生じません。
ご質問を言い換えると、仕事をするとき法律や会社のルールを守らないことがあるのかと問うのと同義です」
「いや『他の責任とかかわりなく』とは他の職務の責任を考えずにという意味です。それは担保されているのですか?」
「コンテキストから考えると、吉富さんがおっしゃることと違うように思います。
『他の責任とかかわりなく』とは、管理責任者が元々担っている職務の他に、品質システム管理の仕事ができるのか……能力的にも負荷的にも……という意味にとらえました。
それについては大丈夫と言えます」
「それはあなたの見解でしょう」
ハワードが手を振って二木さんに何か言う。
「ハワード氏は、猪越センター長が品質保証センターの仕事をした上に、管理責任者の仕事ができるのかと言っています」
「当社の職務分掌では、文書管理は総務課と技術管理課が行うこととなっています。また教育訓練は社内資格や昇進昇格においては人事課、その部署に固有の技術・技能についてはその部門となっています。
そこには品質保証センターの名前は出てきません。
ではそのように広範囲にわたっての権限を持つ人、責任を持つ人が職務分掌で定められているかといえば、いません。
規格をよく見れば、『確実に履行、維持されるようにするための明確な権限及び責任』とあります。『確実に履行、維持する権限及び責任』ではありません。これは直接に監督するという意味ではない。
品質保証のための文書管理、教育訓練、その他のISOの要求事項を満たすように、品質問題や内部監査、日常管理の結果から、この工場の関連部門に対して仕組を構築することや是正を指示することであれば、品質保証センター長の職務そのものです。
故に、ISO9001認証に当たり、規格の役割として品質保証センター長がもっとも近いと考えられて管理責任者に充てています。
なお、この工場では管理責任者という職位はなく、通常使われてもいません」
注:該当箇所の原文は「Authority and responsibility for ensure that the requirements of this international standard are implemented and maintain」
日本の企業で品質システムを維持する職務など存在しない。だからこの文の意図するところは、そういうことではなかろうかと考えた。
とはいえ、今ではmanagement representativeそのものが、規格からなくなったから気にすることはない。なくなったのは現実に合わせたのだろうと思う。
「それはおかしい。問題が起きたら対策の陣頭指揮をとるのが管理責任者だ」
「陣頭指揮をするのは問題の原因部門の責任者です。新製品の性能がでないなら設計の責任者、輸送中に交通事故が起きれば対策を指揮するのは運送を手配する部門の責任者です。
管理責任者が陣頭指揮できるわけありません。それは職掌上からも能力的にも不可能です」
「じゃ管理責任者は何をするのだ?」
「品質システムの管理ですよ。すべての問題はシステムの不備あるいは運用によって起こります。今の例なら設計者の力量の不足なら採用や教育の見直し、運送会社の評価が問題であったなら調達先の評価方法などを見直す必要があるかもしれない。管理責任者の役割はそこでしょう」
「ハワードさんは猪越センター長の見解を適正であると言います」
吉富氏が英語でハワード氏に何か話しかけるが、ハワード氏は手をパタパタさせてもういいというしぐさをする。
「ハワードさんは、次に進んでほしいそうです」
経緯を見ていた人たちは、吉富氏を信用できなく感じたことと、これからどうなることやらと心配そうな顔をする。
似たようなやり取りが続き審査はなかなか進まず、管理責任者の審査に30分のところが50分かかった。
これから隣の会議室と二つに分かれての審査となる。
一方はハワード氏で猪越センター長がアテンド、二木さんが通訳だ。
他方は吉富氏で佐川がアテンドである。
当然ながら佐川の監視なのか邪魔したいのか、尾関副工場長は佐川の方に来る。
・
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吉富さんの最初の部門は営業部だった。
![]() 尾関副工場長 | ||
吉富審査員補 ![]() | ![]() |
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![]() |
||
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スタートは営業部のお仕事、各課の役割分担についての無難な質問だったが、すぐに剣呑な雰囲気になってきた。
傍目には、特段込み入った話もなく、紛糾もしてないのだが、吉富氏ひとりが不機嫌になってきた。
佐川が見ていて感じたことは、「吉富さん」と呼ばれることが気を悪くするようだ。じゃあ、何と呼べばよいのだろう? 「あなた」なら良いのか、「審査員さん」なら良いのか?
多分「吉富先生」なのだろうけど。
「ええと、このシステムは過去10年以上動いているということですので、それでは○○機種の10年以前の契約の見直し記録を見せてください」
「契約の見直し記録の保管期限は10年です。それより古いものは廃棄しています」
「保管期間が短いんじゃないの?」
「法律で、青色申告関係で10年、一般的なものは7年です。しかし納期や発送先などの記録については、法の定めはありません。
我々は取引先との関係とか過去のトラブルなどを考慮して決めています」
「まあいいや、それじゃ10年前の記録を見せてください」
「○○機種は5年前に生産開始ですから、10年前はありません」
「それじゃ、何でもいいから10年前の記録を見たい」
「10年前ですと事務所保管ではなく、製品倉庫の奥の方に保管していますから、取り出すのに……1時間くらいいただけますか」
「吉富さんが次の部門を審査している間に用意しましょう。次の部門の後に、ご覧頂いたらいかがでしょうか?」
「1時間ですと!、記録は即座に取り出せることとISO規格にありますよ」
「規格は『即座に検索できること』です。即座に取り出せることではありません」
「『they are readily retrievable』なら『即座に手に入る』じゃないか、JIS規格の翻訳が間違っている」
「とりあえず急いで用意しましょう。関口課長、頼みますよ」
「了解しました」
関口課長は、後ろに控えていた女子事務員に探してくるように指示する。
彼女はすぐに部屋を出ていく。
ご苦労なことだと皆心中思ったが、佐川はこの先の展開が見えたような気がして、気が気でない。
![]() |
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熊谷さん |
審査会場である会議室は、学校の教室より若干小さい。その一方の壁際に机を置き、審査の場とし、その後ろに10脚くらい折り畳み椅子を置いている。部屋の半分は空間だ。入り口は通路側の壁面にふたつある。片方のドアの前にコピー黒板があるので、出入りするのは一方だけだ。
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今部屋にいるのは審査員1名、受査側3名、そのうしろに控え要員と見学が6名。佐川と山下を加えて、都合12名。
佐川は脇にいる山下の肩を軽く叩く。
山下は振り向いて、何か用ですかというような顔をする。
佐川はちょっと来いとしぐさをする。
二人はドアのある壁まで離れて小さな声で話をする。
「佐川さん、どうしました?」
「何事か起きたときの対応を頼みたい」
「何事ってなんですか?」
「審査の録音はしているか?」
「ええ、オープニングミーティングで録音禁止と言いませんでしたので、審査開始から回しています。録音時間は十分です。
録音機は審査員の机の下の小さな棚にクッションの上に置いてあります」
「けっこう、けっこう、そのまま継続して。
ええと頼みは、これから席に戻ったら、この部屋のレイアウトを図に書いて机の位置と誰がどこにいるかを書き込むこと、
事が起きたら、まず大きな声で、全員に動くなと大声で叫ぶこと、証拠保全だ。
誰かに、隣の会議室から猪越センター長とハワード氏を呼んでこさせること。
君はここにいて、他の人を動かないように監視するんだ。頼むぞ。
センター長が来たら、それ以降は課長に指揮を任せること」
「事件が起きるのですか?」
「起きて欲しくないけど、分からない
じゃあ、席に戻ろう」
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審査は要求事項にないような、どうでもよいことを聞かれている。
営業課長が振り向いて佐川に「三段組になかったぞ」と小声で苦情を言う。
佐川は片手で拝むように謝る。
突然、ダーンという音がして、皆ギョッとする。半分居眠りしていた人も目を覚ます。
吉富氏が机の脚をけったのだ。なにか吉富氏は興奮状態だ。
三木部長は、苦虫をかみ潰したような顔をしてあたりを見回す。やってられないという気持ち丸出しだ。
「古い記録を見せてもらおうと待っているのだが、まだなのかね?
こんなに時間がかかっては規格要求に不適合だ」
大きな声を出したせいか、自分の声で吉富氏は更に興奮してきたようだ。
ちょうどそのとき、熊谷さんがパイプファイルを数冊抱えて部屋に入ってきた。
「遅いじゃないか、何をしているんだ」
「すみません、何分遠いもので」
「言い訳するな、俺を甘く見るなよ」
吉富氏はガラスの灰皿を手に取ると、熊谷さんに投げつけた。
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見学者の後ろに座っていた佐川が、素早く立ち上がり射線をふさいだ。
ガラスの灰皿は佐川の左脇に当たり嫌な音がした。佐川はギャという声を出して、ゆっくりと床に倒れてしまった。
皆が立ち上がり、佐川のところに駆け寄ろうとする。
山下は言われた通りに、机の上に上がり大きな声を出す。
「動くな、証拠を確保しろ。
灰皿に触るな!
熊谷さん、隣の部屋に行って猪越さんとハワードさんを呼んできて」
熊谷さんがパイプファイルを投げ捨ててドアから飛び出す。
横になっている佐川の傍に、誰かが近寄り佐川の脇腹を蹴る。また佐川が叫び声をあげる。
誰かと見ると尾関副工場長だ。
「佐川、ふざけているんじゃない、立て、このバカ」
「佐川さんは骨折している、止めろ、死ぬぞ」
数人が駆け寄って尾関副工場長を押さえつける。
ほとんど同時に猪越センター長とハワード氏、その後ろから何人も部屋に入って来る。
「センター長、必要外の人を入れないように
佐川さんは骨折したようです」
「私は看護婦さんを呼んできます」
注:2001年までは女性を看護婦、男性を看護士と呼んでいたが、2002年に保健師助産師看護師法改正により、看護師に統一された。この時代は看護婦が正解である。
ハワード氏が吉富氏のところに行って両手で吉富の両肩を抑える。
「落ち着きなさい。自分が何をしたか理解しているか?」
皆はその言葉を聞いてギョッとした。日本語ペラペラじゃないか。
「私は……私は……」
「ちょっと隣の部屋を借りるよ」
ハワードが吉富を連れて部屋を出ていく。
「痛むか?」
「痛い」
「顔が真っ白だ」
「骨折するとショックで顔が真っ白になるんです。たぶん肋骨が折れてますね」
「内臓に刺さってなきゃいいけど」
看護婦が部屋に入ってきて佐川の様子を見る。
「完全に骨折ですね。肋骨が何本か、救急車を呼ばないと」
「救急車などとんでもない。呼ぶなよ!」
「冗談言ってる場合じゃない。呼ばないと法違反ですよ
「俺は、俺は、見たぞ、副工場長が佐川さんの怪我したところを蹴ったのを、俺は警察に言うからなあ〜」
山下は大きな声で叫ぶ。
看護婦は会議室の電話から119を回して救急車を頼む。
尾関副工場長は皆に睨まれて、さっと部屋から出ていく。
「近くだから5分で来るって」
「誰か守衛所に行って、救急車をこの前まで通すように守衛所に連絡して」
数人が表に出ていく。たぶん正門から救急車はまっすぐ入って来るだろう。
「誰か、手伝ってください。目撃した経緯をまとめてほしい」
「私がここにいた人たちの証言を取ろう。
みんな、自分がどこにいて何を見たか話してくれ」
そのとき救急隊員がストレチャーを持って部屋に入って来る。
救急隊員が猪越センター長に話しかける。
「事故ですか、事件ですか?
「事件です」
「では警察を呼びますね」
「警察を呼ぶな」
「法律です」
いつの間にか尾関副工場長が戻ってきていたが、また部屋から出ていく。
なにをしているんだ、このおっさんは! 皆がそういう顔で副工場長を見ている。
佐川は病院で検査を受けた。CTで調べると一発だよと医者が言うのを、痛みとショックで意識朦朧状態で聞いた。
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手足の骨折の場合はギブスをして固定するが、肋骨はギブスではなく、コルセットのようなものをマジックテープで抑えるだけだ。 |
とりあえず今晩は入院だと医者は笑う。佐川は笑い事じゃないと思うが、日常すごい怪我を見ている人にとっては大したことではないのだろう。
気持ちが落ち着いた頃、妻の洋子が蒼い顔をしてやってきた。桜庭さんから連絡があったと言う。
「車で来たんじゃないよね?」
「タクシーで来たわ。自分で運転したら事故る気がするもの」
「それでいい。
怪我の方なんだけど……外傷はあざだけど、肋骨が4本折れたそうだ。
自分にとってはひどい怪我なんだけど、医者に言わせると大したことないそうだ。とりあえず数日は入院だよ」
洋子はナースステーションで必要なものを聞いたので手配するから一度家に帰るという。子供たちの面倒も見なければならない。
佐川は、娘たちを安心させること、すぐに帰宅するから見舞いに来ないように言った。
洋子はハイハイといって帰っていく。佐川は洋子が自分を子ども扱いするのが嫌だった。
夕方、猪越センター長と山下さんが病院に来た。
「お医者さんに病状は聞いた。大したことなくてよかったよ。痛いか?」
「正しい位置に骨を戻して固定してもらったら、痛みは軽くなりました。
熊谷さんに怪我は無かったのでしょう?」
「熊谷さんは大丈夫でした。むしろ佐川さんに怪我をさせてしまったと、心配しています。命の恩人と言ってました。
佐川さんがガラスの灰皿を使うなと言ったのは、これを予測していたのですか? 実は桜庭さんは、事件が起きるのを知っていたのではないかって言ってました。ノストラダムスの大予言ですね(注3)」
「正直なことを言うと半分予想していた。と言っても、予言とか占いじゃないよ。審査に来る審査員がどんな人か調べるのは当然です。
ハワード氏については調べようなかったですが、吉富氏は元勤めていた会社で、調達先の品質監査をしていたそうです。監査ではかなり高圧的でマナーも悪く、言葉は乱暴、怒鳴る、机を叩く蹴るは日常茶飯事だったらしい。
そして極め付きは灰皿を投げる特技があると聞きました」
注:怒鳴る、物を叩く、唾を吐くなどは暴行罪になる。
「それでか……確かに灰皿を投げる前から、机の脚を何度も蹴っていましたね。
それじゃ、尾関副工場長に灰皿を交換しろと言われても、無視すれば良かったですね」
ちなみにアルマイトの灰皿の重さは20g前後、ガラスの灰皿は大小あるが、応接室に置くようなものは軽くて1kg、重いのは1.5kgほどある。野球の硬球の重さが142〜149gである。
禁煙がデフォの現在はないが、喫煙が当たり前の20世紀には、ガラスの灰皿を凶器に使うサスペンスドラマがたくさんあった。
更なるちなみにだが、2014年銃刀法改正で「重さ100g以上の灰皿を持ち歩くと逮捕される」というのはデマらしい。
「いや、私が甘かった。最初は大丈夫かなと思っていましたが、机を蹴るのを見て危ないと気づき、急遽、山下さんに対応をお願いしたのです。
良くやってくれました。被害を最小にできたと思います。
私は熊谷さんが来たときが危ないと思い、後に座っていました」
「山下君が録音していたもの、部屋にいた人の配置図、三木部長が聞き取りした部屋にいた人の証言は警察に渡したよ」
「そういうものを渡して、会社で問題になりませんか?」
「正しいと思ったことをしたのだから心配してないよ。
尾関副工場長が、怪我をした君の脇腹を蹴ったのは全員が証言していた。あの人にも……呆れるしかない」
「あれは痛かったですよ、アハハハ
う〜痛っ……」
「骨がくっつくまで笑うのは禁止ですね。僕はスキーで骨折しましたから経験者です、アハハハ
「それじゃそろそろお暇するよ」
「あの、ISO審査の方はどうなりました?」
「その話はまだだ。あの後ハワード氏と話したよ。彼は日本語ペラペラじゃないか、
認証機関の責だから、日程はそれなりに対応すると言っていた。審査員を変えるのはもちろんというか、彼は解雇だろう。
君は示談になるだろうけど、それは先の話だな。それに尾関副工場長との示談もあるぞ。
お医者の言うことには、君が復帰できるまでひと月かかるそうだ。1週間くらいは入院して、それ以降も安静にしていたほうが良い。5月の連休も本社に出たそうだから、挽回すればいい。
福島工場の認証は確実だ。こんな事件を起こしたからには、まさか不適合は出せないだろう、アハハハ」
本日の裏話
裏話と言っても大したことじゃありませんが、このタイムスリップの話は、こういうことを書きたかったから書き始めたのです。
この事件は荒唐無稽と思うかもしれません。もちろんこのお話の、すべてがそろったイベントに立ち会ったことはありません。しかし過去に自分が体験したり聞いたりした出来事をマージすると、この事件になります。
理不尽は世の常だけど、それに巻かれたくはない。
私はこの世の悪を許すことはできない……このセリフを知っているなら65歳以上
「倍返し」なんて言葉が一世を風靡しましたが、私は池井戸潤を好きになれない。だって被害にあった人が復讐をするよりも、被害にあわないようにすることに価値がある。
犯罪をしようとしている人がいたら止めるべきだ。そして犯罪ができない仕組み、しない風土を作るべきだろう。
気になる人はこちら⇒「快哉せずに振り返れ」
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雇用者が負傷者発生のとき救急車を呼ばないことは、保護責任者遺棄罪(刑法218条)違反となる。 保護責任のない人が、救助作業を妨害することは遺棄罪(刑法217条) 怪我人に更に悪化を引き起こした場合は傷害罪(刑法204条)となる。 ![]() | ||||
救急車が出動して怪我人の場合、必ず事故か事件かを確認する。そして事件の場合、警察を呼ばなければならない。 病院でも怪我人が来たときは原因を確認し、事件・事故の場合は警察に通報しなければならない。テレビドラマでピストルで撃たれると、まともな病院に行かず闇医者にかかるのはそのためだ。 怪しいときは患者に内緒で警察に通報するようだ。
![]() 30年前、私は家でリンゴの皮をむいていて、誤って左手の親指と人差し指の間の水かきのようになっている部分に、ザクッと包丁を入れてしまった。 ![]() その夜は痛さを我慢して翌朝、整形外科に行って何針も縫ってもらった。幸い神経も血管も支障なく、それでおしまいだった。 しかし病院から通報があったようで、その翌日、警官が来てどこで喧嘩したのか、誰にやられたのかと質問された。リンゴの皮をむいていて切ったというと、呆れられた。 ![]() | ||||
ノストラダムスの大予言とは「1999年の7月に空から恐怖の大王が降ってくる」という予言で、世間の関心を集めたのは1990年代だった。まさにこの物語の時期である。 ![]() | ||||
どうでも良いことであるが、私は骨折の権威である。ただし骨折を治す方ではなく、骨折する方だ。 ![]() 50歳になってからスケートでスピンを見せてやろうとして転び、左手首骨折、若気の至りならぬ、年寄りの冷や水であった。 10cmほどの段差でバイクがこけて左肋骨、後から付き飛ばされて転び右肋骨、会社で年末の大掃除をしていて、同僚が私に気づかず私の手の上に荷物を置いて指骨折……そんなこんな、数えれば10数回になる。 骨折しても自慢にならないが、他に自慢するものがない。 ![]() | ||||
おばQさま 重いガラスの灰皿、こういう事件があった生々しいご記憶がうかがえます。 私は、職場での暴力沙汰を見た経験はないのですが、不正やイジメは随分と見ました。 あの頃は、悲しい事に当たり前にあった、おまけに記事にあるように「表沙汰にしない」事も多かったでしょうね。 よく70年代からの日本の高度成長期を懐かしむ人がおりますが、私は絶対に今の職場環境の方が良い。 だって、あんなハラスメントや性差別が当たり前に存在していたのですから。 社内問題の事例として考えてみると、暴力をふるった両者は解雇ですね。 加えて刑事と民事がついて回ります。解雇されているから個人で裁判は対応が必要。 少なくとも民事については、会社側も監督責任を負うでしょうから負担ありかも。 余計な話ですが、職場の暴力でも労災認定されるのですね。 副工場長のやらかしで労災なんて、シャレにならない。 でも警察の事情聴取があったら有耶無耶に出来ないから、これで会社の労災保険料も上がる。 大きな会社だと数千万円単位かも。 |
外資社員様 毎度ご指導ありがとうございます。 正直言いまして、この要素すべてがそろったイベントにであったことはありません。でも物を投げた・当たった、怒鳴る、蹴った、そういう個々の出来事はすべて経験があります。自慢になりませんが。 おっしゃるように昔より今は絶対に良いです。私が20歳くらいのとき、現場の休憩時間にタバコ吸わない奴は休憩しないで仕事しろと真面目に言われました。当時は40代半ば以降は戦争に行っていましたから考えが殺伐としてました。戦争に行かない人も、疲れたらヒロポンを打って仕事していた。お前たちも……という発想で、論理的にとか話し合いで決めるなんて風潮じゃなかったですね。 休日も完全週休二日制になったのは1983年だったと思います。あのときはうれしかったですね。 サービス残業も自分が作った不良を直すのは無給だなんてのが(以下略) 定年も男女で違ったし、今が最高とは言いませんが、時と共に法律も世の中も暮らしぶりも良くなっていると思います。それを知らずに更なる夢を語る人とは付き合えないと思うのは年を取ったからですかね。なにごとも一挙には成せません。自分が望むなら、そのために自分自身が努力して一歩一歩良くしていくしかありません。 |
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