注1:この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但しISO規格の解釈と引用文献や法令名とその内容はすべて事実です。
注2:タイムスリップISOとは
5月18日火曜日の16時頃、本社人事部の下山の電話が鳴った。
「本社人事部の下山です」
「福島工場の桧山です。重大事件が発生しました」
「何が起きたのですか?」
「本日は福島工場のISOの予備審査でした。今から1時間半ほど前、審査中に、審査員が激高して置いてあった重いガラスの灰皿を女子社員に投げつけ、それを見て佐川という社員が女性の前に立ち
ところが負傷して倒れた佐川を、尾関副工場長が蹴とばすという乱暴を働き、周りにいた社員に取り押さえられるという事態になりました」
注:重傷とは30日以上の治療を必要とする怪我をいうそうです。また肋骨3本以上の骨折は重傷となるようです。私は2本骨折したことはありますが、3本はありません。
「なんだってえ!」
「私が現場に行く前に、救急車と警察が来ていました。これも会社のルールからおかしいのですが、現場で直接119番したそうです。事件発生時に近傍にいた人の位置や証言などを、品質保証センターの猪越が取りまとめて警察に提供しました。
私の方で内容を確認する前でしたので、これも問題です。
灰皿を投げた原因は当社に責はなく、審査員が突然興奮して暴挙にでたとしか、現時点では分かっていません。
また尾関副工場長が怪我人を蹴ったのは審査員と関連はなく、また佐川に責があるわけでなく、副工場長がおかしくなったとしか思えません。
二つの出来事は連続して起こり、複数の社員が目撃しており、それらの証言は概ね一致しています。
審査員と副工場長は警察に連行されて、現在、警察で事情聴取中です。
以上、とりあえずの報告です」
「分かった、報告ありがとう。とりあえず今の話を書面にして、メールかFAXで送ってください。
またこれからの進展を把握したら、すぐに連絡してほしい。私は夜9時頃までいるから、進展があってもなくても、それまでにまた連絡を頼みます」
下山は驚いた。人間だからもめることはおかしくない。だけどISO審査中に灰皿を投げて客先で傷害事件を起こすと
しかしその佐川という奴はすごいな。普通の人が他人を守ろうと、自分を犠牲にできるだろうか、その勇気と機転を尊敬する。
実を言って尾関は下山と同期入社で、下山は尾関を知っていた。尾関はマスターで、1年留年したので下山より3歳上になる。まあ、それはどうでもよい。
なんでまた尾関も、年に似合わず馬鹿なことをしたのか。なぜそんな行動をしたのか、全く理解できない。
そしてまた佐川とは最近なにかで聞いた名前だ。ああ、生産技術部が本社に呼びたいと言ってたのが佐川だっけ。そいつは昨年懲戒処分を受けた課長だった。この怪我したのは同一人物だろうか? いやいや、佐川と言っても、この会社に10人や20人はいるだろう。
とりあえず副工場長レベルが関わった事件となると、人事部長に報告しておかないとまずいな。一般社員とは違うから、マスコミ報道されると問題だ。
報告するのに足りない情報はないだろうか?
夕方6時頃、吉富氏は取り調べを終え、解放された。逮捕されなかったのは、佐川の怪我が思いのほか軽かったことと、吉富氏が逃亡や証拠隠滅のおそれがないと判断されたためだ。
ハワード氏が警察の受付窓口に並んでいるベンチで待っていた。ふたりは会話もせずに新幹線に乗って東京に帰る。
尾関副工場長も取り調べを受けたが、これもまた同じ頃に解放された。こちらは桧山課長が待っていて会社に連れていく。
桧山は尾関が警察で、どんなことを聞かれどう答えたかを聞き取りする。
尾関副工場長の話は要領を得ない。そもそもなぜ怪我をして倒れている佐川を蹴るなどしたのか?
それについて尾関は、佐川が倒れたのはふざけていると思ったという。
しかし周りにいた目撃者約10名は口をそろえて、ガラスの灰皿がすごい勢いで佐川に当たり、大きな音がしたから、ただ事ではないのは明らかだと証言している。
そして怪我して倒れた人を蹴るとは、ひどいと口をそろえている。その怪我も若い熊谷嬢を助けようとした名誉の負傷だから、証言者のトーンは厳しい。
また病院に入院手続きで行ったとき、佐川の診断書も手に入った。
左肋骨4本骨折とはひどい。どんな具合に灰皿が当たったのか。肋骨は折れやすく関節もないから、骨折の中では軽い方だろうが、大変なことは間違いない。
医者の見立てでは灰皿が当たって骨折したのは間違いなく、蹴ったことで折れたのではないという。しかし万一折れたろっ骨が、蹴ったことにより肺とか心臓に刺さったりしたら、命にかかわることになっただろう。
桧山はそれらを要約して、本社の下山に報告する。
そしてこの佐川が、半年前に懲戒処分を受けて、役職解任になったことも付け加えておいた。
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最初の電話を受けてから1時間半ほどで桧山の第二報が下山に届いた。
下山は予想より早く桧山課長から情報が来たので、それを持って人事部次長に報告する。人事部長は取締役だから、人事部の通常業務は次長が決裁しているのだ。
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桃井人事部次長 |
人事部次長も下山の話を聞いてギョッとした。そしてまだ不明なところが多いが、速報だけでも人事部長に入れておくべきという下山に同意して、ふたりはそのまま取締役人事部長室に報告に行く。
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A松崎取締役兼A 人事部長 |
「驚いたね、副工場長レベルの者が、そんな馬鹿をするとは、
被害者と速やかに示談するとかできないか?」
「まず被害者である佐川は入院中ですので、まだ怪我の具合ははっきりしません。示談に進むには日数が必要でしょう。
それと尾関副工場長が蹴ったことだけでなく、ISO審査員が灰皿を投げたことも関連しています。いろいろ複雑で、すぐの示談は無理でしょう。少なくとも警察の取り調べ結果が出なければ。
それでですね、今後詳細な調査をしなければなりませんが、負傷した佐川は昨年懲戒処分を受けて課長解任されています。そして解任を言い出したのは尾関副工場長でした。二人の間で何かあったのかもしれません」
「処分したほうがされた方に、暴行するというのも変な話だな。
尾関を、昨日付で懲戒解雇してしまうか」
「既に警察沙汰になっていますから、日付を戻すわけにはいきません。警察の判断がはっきりする前に動いては悪手でしょう」
「経緯がはっきりしてからでないとまずいか。社名が出ちゃうかもしれんが、要らぬことをすると余計不味いか……
ここで考えていてもしょうがない。下山君、明日一に福島工場に行ってこの事件の調査と、ついでに懲戒処分の内容を調べてきてくれ」
「佐川は入院していますが、なんとか病院で事情聴取してきましょう」
「そのへんは上手くやってくれ。問題ないようにな」
下山は翌朝一番の新幹線で下向し、佐川の入院している病院に行き、業務上重要な話のためと面会を申し込む。
佐川は骨折なのでベッドで寝たままならと、OKされた。
経緯が経緯であるから、桧山課長が会社から部屋代を出すことにして個室だ。社内で女性を暴漢から守ろうとして怪我したのだから、当然と言えば当然だ。公傷扱いでもおかしくない。
もちろん秘密保持の意味もあるだろう。佐川に同室の患者や見舞客に事件の話を広められては困る。
「本社人事部の下山です」
「佐川です。人事のお偉いさん登場ですか、私の怪我がそれほど大事になりましたか?」
「正直言って君の怪我より、下手人が副工場長というのが問題だ」
「それはまた露骨というか正直な表現ですね、あまり私を笑わせないでくださいよ。笑うと、とても響きますから」
「君は昨年11月に懲戒処分を受けているね?」
「はあ? それは悪い冗談ですか?」
「えっ!」
「誰が言い出したんでしょう? 私は誓って、懲戒処分を受けていません」
「だって君は課長解任されているね?」
「あれは懲戒処分ではないですよ。尾関副工場長から私が命令に従わないから、課長解任と降格人事をしたと言われました」
「ええと、本社に来た懲戒処分の報告では、君は昨年10月に作業者が怪我をしたときに、業務上の負傷を労災でなく私傷病として健康保険を使わせようとしたので、戒告処分とし降格と降職に処したとなっている」
「あなた、ふざけてるのですか。それは話が逆ですよ。
ご存じないようなので、経緯を言いますと、現場で怪我人が出ました。私が彼を病院に連れて行こうとしたとき、副工場長に出会い、彼が病院に連れていくことはまかりならぬ。工場の裏にある、流行らない個人の医院に連れていって、健康保険で処理しろと命じたのです」
「はあ〜?」
「そんなことが許されるわけがありません。私はその場では承諾しましたが、副工場長が見えなくなると、タクシーに乗せて市立病院に行って労災で処理しました。
翌日それを知った副工場長から叱責を受けて、すぐに課長解任されたのです」
「本社報告では、君が労災を隠そうとして懲戒処分にしたとなっているぞ」
「誰が言ったのか、それはまったく事実と違う虚偽です。
実際に工場に懲戒処分の公表はありません。そして副工場長が労災でなく健康保険を使えと言った話は、工場で多くの人が知っていることです。
それに言っておきますが、私がそういう理由で懲戒処分を受けたなら、即弁護士連れて監督署に飛び込んでいますよ。今からでも行きますよ」
下山は開いた口が塞がらない。
佐川はウソを騙っているのか? それとも工場の人事が虚偽の報告をしたのか?
「懲戒処分の場合、本人にその旨を書面と口頭で通知しなければなりません。また社内に広報しなければならない。私も管理者でしたから、そのくらいは存じています。
私は懲戒処分に付すと言われていませんし、社内の掲示板に広報が掲示されたこともありません。
工場で皆に聞けば良いでしょう。誰でも知ってます」
「だが始末書を出しただろう?」
「書いた記憶がありませんね」
「君のサインのある始末書が出ている」
「それはすばらしい、立派な捏造の証拠です。
私はそれに触っていませんから、警察に出して指紋を取ってもらってください。もし私の指紋が付いていれば、私がウソをついていたことになる。下山さん、やって損はありません、是非やってください。
誰が偽造したかが問題ですね。有印私文書偽造・同行使ですか。いやその前に、私に冤罪をかぶせたという罪名が付きますね。完璧な刑法犯です。
下山さん、あなたが言ったこと、懲戒処分の記録があるのが事実なら、私は被害届を出します。
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注:「被害届」とは、犯罪の被害者が警察や検察などの捜査機関に犯罪被害の事実を申告する届出をいう。
「おっと、その始末書を始末したら、あなたを訴えます。
ここは患者に異常があるときに備えて、常時監視モニターが回っています。もちろん録画も録音もしています。
入院したとき、監視カメラで写されることに同意する署名をしています。それには入院した者は録画テープを閲覧できると条件が付いています。ですから私は、下山さんがこの部屋から入ってからの発言記録はゲットしました」
佐川は天井の丸いドームを指さして言う。
下山はいつの間にか、蜘蛛の糸に巻かれてしまったような気がする。佐川は只者ではない。
「俺もそんな悪いことはしないよ。
人事課長からも懲戒処分のことを言われていないのか?」
「桧山課長ですか。彼には週に一度は会っていますが、何も言われていません。そうしますと、彼も共犯ですね」
「君が怪我人を工場近くの医院でなく病院に連れて行こうとしたことは、工場の誰でも知っていると言ったな?」
「誰でもというのは言葉の綾ですが、多くの人が知っていると思いますよ。人事の女性とかに聞いてみたらどうです?」
下山はすぐに病院から工場に向かう。
人事課で桧山課長を捕まえると、ふたりで小会議室に入る。
職制表では福島工場の人事課長の上長は福島工場の総務部長であり、その上は福島工場の工場長である。だが実質的に人事部門は本社人事部の指揮下にあり、工場の人事課長の直属上長は下山である。査定も下山だ。
下山に肩書はないが、職階としては部長クラスと見て良い。
だから工場を訪ねてくれば、桧山も自分の査定者である下山を下にもおかない。
「下山さん、朝からご苦労様です。佐川の件、尾関副工場長の件、ご説明いたしましょう」
「うん、ちょっと君と打ち合わせる前に、しなくちゃならないことがあるんだ。君はこの会議室で待っていてほしい。
携帯電話持っているか? 持っていない。
部屋の電話はと……ちょっとこれを借りていく」
下山は受話器のコードを抜いて手に持つ。
「今から、この部屋を出ないように、そして誰にも連絡をとらないこと
30分くらいだから、いいね」
桧山はあっけにとられた。
何事が起きたのか?
自分は被告人か?
何かミスででもしたか?
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下山は人事課に戻ると、一人座っていた女子社員に会議室の前にいて、桧山課長が出ないよう見張っていろという。
パーテーションで仕切られた打ち合わせ場に座る。
人事課には誰もいないので、隣の課にいた女性を呼ぶ。
「あなたは佐川さんを知っていますか?」
「品質保証センターの佐川さんですね、ハイ、存じてます」
「彼が課長解任になった経緯を知っていますか?」
「公表されていませんから、ホントのことは分からないです。
噂では、副工場長が怪我した人を、健康保険で治療させろといったのを拒否したから、逆鱗に触れたと聞きました」
「その逆で、佐川さんが健康保険を使わせようとしたのではないですか?」
「そういう噂は聞きませんね。それはないと思いますよ。佐川さんは人格者で表裏のない人ですから」
「昨年、佐川さんが懲戒処分になったという広報はありませんでしたか?」
「過去1年、この工場で懲戒処分はなかったはずです。
ああ、去年の12月にあったか。別の人ですが、計測器を校正期限過ぎて使っていたという問題でしたね」
彼女は下山が止める間もなく、パーテーションから首を出して、近くにいた女性に声をかける。
「斎藤さん、ちょっと来て」
「なんでしょう?」
「斎藤さんは品証の佐川さんが、懲戒処分を受けたなんて聞いたことある?」
「まさか、冗談?
私はあの人を尊敬しているわ。自らの身は顧みず、正義を貫くって尊いです。熊谷さんを身をもって救ったのには感動したわ。
あの副工場長に立ち向ったのも佐川さんだけよ」
「立ち向ったって、どういうことですか?」
「昨年秋でしたけど、現場で怪我した人を、副工場長は裏のヤブ医者に連れていって、健康保険で治療しろと言ったのよ。それを佐川さんが断固拒否して病院に連れて行ったの。
当たり前とは言え、当たり前ができる人はいないわ」
「それは噂ですか? 誰かから聞いた話ですか?」
「怪我をした元山さんよ。本人が言ったことだから間違いないわ。
おーい、きよちゃん、ちょっと」
ドンドン人が増えていくので、下山はいささか慌てた。
「なによ、集まって雑談?、暇なの?」
「あんた人事でしょ。佐川さんが懲戒処分を受けたって本当?」
「それはないな。懲戒とか人事異動は公表しなくちゃならないんだけど、その文章を書くのは私なのよ。書いた覚えないもの」
「懲戒処分の書類はどこにあるの?」
「そこのカギ付きのロッカーです。カギは課長が持っていて人事課のメンバーでも見られません」
「ありがとう、みなさん。知りたいことは充分お聞きしました。
きよちゃんでしたね、元山さんをご存じかな?
その人の職場まで案内してくれるかな?」
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下山はきよちゃんと共に現場に行き、元山氏に会って怪我をしたときのいきさつを聞いた。
元山が語ったのは、佐川や事務所の女性たちが言った通りであった。
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裏の藪医者では、この 怪我は治らなかった。 |
更にダメ押しに、元山が言うには、以前から労災を表に出さないために、工場で怪我人が出ると、その藪医者に診療させていたという。それって会社も問題だけど医師法違反じゃないのか?
ヤブだから、治りが悪い人もいるという。更に医者代を会社が払うならともかく、自前だと聞いて、呆然とした。
それでは病院に連れていこうとした佐川が、褒めたたえられるのは当たり前だ。異常とは普通と違うこと、平常とはいつものことというが、ここは感覚が逆転している。
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これは佐川の傷害事件だけでなく、根が深そうだ。
そもそも佐川の話では、以前から尾関副工場長に憎まれていたというか、いじめにあっていたようだ。佐川は生意気で憎まれ口をきくようだが、間違ったことはしていない。何がきっかけで尾関がおかしくなったのか?
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さて、懲戒処分の報告は捏造なのは分かったし、副工場長が悪者であることは間違いないが、一人でできることではない。桧山人事課長が手伝わなければできるはずがない。あるいは共犯はもっといるのか?
下山は桧山が待っている会議室に戻る。
下山がそこを出てから40分しか経っていない。短時間であったが、喜ぶべきか・悲しむべきかはともかく、ものすごい収穫だ。
そして工場でこんなことが実行されたとは信じられない。
まず当社のような大企業で、労災を隠すために私傷病にしろという管理者がいることだ。
そして反論した部下を懲戒処分にかける理不尽さ、
それを手助けする人事部門、
ヒアリングするとすぐにばれるようなへたな犯罪を犯す人、
許せない以前に、嘘か夢かと思ってしまう。
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「何かありましたか?」
「大ありだよ。君は佐川氏の懲戒処分捏造に、どこまで関わっているんだ?」
「えっ」
「驚くことはないだろう。悪事千里を走ると言うように、悪いことは必ずバレる。
事務所で、佐川が懲戒処分になったことを知っているかと聞いたら、誰も知らないんだ。人事課の女性でさえ佐川が懲戒処分を受けたことを知らなかった。その代わり、佐川が怪我人を病院に連れて行こうとしたのを、尾関副工場長が健康保険を使えと言ったことなら皆知っていたぞ。
あまりにも面白くて笑ってしまった。
君の表情を見ると事実のようだね。懲戒の事実を本人に告げなかっただけで、君は十分懲戒解雇にあたる。ましてその罪が捏造ときたら、刑事事件になるのは理解しているね。
なぜ君はそんなことをしたの?」
桧山は黙っている。
「事実無根であるのに懲戒処分したとは、規則違反どころか犯罪だ。人事課長なのだから罪の重さは割増だな。会社は被害届を出す他ない。
まだ朝だ。今日一日じっくりと聞かせてもらおうか」
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下山の話は午前で終わらず、昼飯抜きで午後まで続いた。桧山は尾関と組んだ悪事を語った。もちろん桧山の話だけでなく、これから尾関の話も聞かねばならない。
桧山が語った話は、長い長い物語であった。
そもそもは10数年前に始まった。桧山が若いとき工場のイベントで酒を飲み、自転車で帰るとき自損事故を起こした。人事の者としてそれは重大な瑕疵である
![]() | ∧ | ![]() | ![]() ⇒ | ![]() |
飲酒 | 自転車乗る | と |
注:「∧」は、論理学でその左右のものが同時に満たされることを意味する。
「⇒」は「ならば」という意味で、左辺が成り立つとき、右辺も成り立つこと。
当時その工場の課長だった尾関が、桧山を庇ったおかげで桧山は処分を免れた。
だがご想像通り、その代償として桧山は尾関の手下となって人事上の問題の対処……つまり尾関の指示で人事異動、もみ消し、尾関の望む懲戒処分などをしてきたと言う。
もちろん尾関と桧山の勤務地が合致しなければ直接的には動けないが、桧山が他の工場の人事課長に要請することは、できないことではなかった。例えば嘘でも「
注:「○○」には「反社」とかを入れれば良い。
かように、トラブルがあればお互いに助け合い、尾関は副工場長に桧山は課長までなったわけだ。
そして尾関が昨年4月福島工場に転勤してきて、久しぶりに尾関と桧山が再会した。
昨年10月に佐川が尾関の指示に従わず、負傷者を病院に連れて行き治療をさせたとき、佐川を憎んだ尾関から頼まれたのは、話を真逆にして佐川を懲戒処分にすることだった。
事は簡単ではない。佐川が出るところに出たら、尾関と桧山は逆襲の憂目だ。つまり手続き的には懲戒処分としても、懲戒処分したことを、本人にも一般社員にも知られないようにしなければならない。
そのためには書類を全て整え、佐川への懲戒処分を公表せず、本人にも通知もせず本社に報告した。始末書は尾関が書いたという。これは要確認だ。手書きだから筆跡鑑定はできるだろう。ハンコも要チェックだ。
完璧に有印私文書偽造・同行使、詐欺罪、
注:私文書偽造とは、一般人が作成する手紙、契約書など他人名義で作成すること。
名誉棄損罪とは他人の社会的評価を低下させること。
佐川には桧山課長ではなく、尾関副工場長が懲戒処分のことを知らせずに、命令に反抗したことと業務怠慢であるとして、課長解任を通告したという。
結果は懲戒処分に合わせたわけだ。とはいえ社員資格の降格は、査定が悪くてもならず、懲戒処分なしでできるはずはない。佐川は細かいことを知らなかったのだろう。
桧山課長は二人で行ったというが、人事課のメンバーに聞き取りしないとならないな。これを知っている者がいたら事後従犯だ。法で罰せなくても、懲戒処分は必須だ。
注:事後従犯とは犯罪が行われた後、その犯罪を助けること。該当する行為は、証拠隠滅、逃亡を助ける、犯人をかくまう、犯行を黙認するなど。
日本では罪にならないケースが多いが、アメリカでは罪に該当することが多い。
まったく会社のルールを逸脱した犯罪行為だ。
下山は、桧山が公平、遵法を旨とすべき人事課長でありながら、ひどいことをしたものだと憎しみを持った。
ひと通り、桧山の話を聞いて、下山は腕組みをして沈思黙考である。桧山は机の反対側に座って頭を下げている。
この事実は隠しておけない。実際、工場の多く人が佐川と元山の経緯を知っているわけで、いっときごまかしても、いつかはバレる。定年であろうと中途退職であろうと、退職時は昇給や賞罰の履歴一式を本人に渡す。そのとき懲戒処分があれば、問題になるのは明らかだ。
そのとき佐川が異議を申したてれば、今膿を出すよりも会社は大きなダメージを受けるだろう。
下山が会社視点の価値観でしか、ものを考えられないのは、人事部門の職業病だ。
現実問題として佐川は社内資格が社員3類3号俸だったのを、社員3類1号俸に降格させ、課長を解任した。3号から1号への降格で月収3万減、課長解任で役職手当4万減だ。賞与が3か月として、降格から半年で収入減は100万近い。佐川はよくおとなしく受け入れたものだ。
それに、こんな目にあいながらよく頑張っている。まずそれに感心する。普通は
そういう精神を持ち実践し成果を出しているのは、大いに引き立てるべき人財だ。生産技術部が本社に呼ぶのも納得する。
そういう人間が社内にいるのは、下山にとって誇らしいことではある。下山が詫びることではないが、なおのこと彼に報いてやらねばとは思う。
だが、と下山は考える。
佐川は二人を懲戒解雇にしただけで納得するだろうか。その他、社内資格の原状回復をして、降格してから下がった賃金と年末賞与の補償もしなければならない。また懲戒処分の記録の抹消も当然だ。いやいや、精神的なことや名誉棄損の慰謝料もあるな。実際に補償するか否かはともかく、交渉のときに名目は上げないとなるまい。
いずれにしても松崎人事部長がいうような、早急な示談は無理だ。単なる暴行事件ではない。人事に関する大事な犯罪が根本にあり、その先にはまた何かありそうだ。
単に怪我人を蹴った話ではなく、重大な社内犯罪じゃないか。
ともかく佐川の救済は法的義務だ。会社に責任がないという理屈もありそうだが、佐川が知った以上、救済しなければ佐川が裁判を起こすとか、あるいはいざとなったら自爆攻撃をする予感がする。
佐川はおとなしいようだが、堪忍袋の緒が切れたら何をするか分からない。そのときの攻撃目標は、尾関や桧山ではなく会社だろう。マスコミにチクるとか、いや、いや、監督署とか検察に乗り込む方が手っ取り早いし強烈だ。
だからというわけではなく、円満に収めるためには佐川が納得する解決策を取らねばならない。
病室に監視カメラがあるというのは本当だろうか? それが本当で佐川がやる気なら、今日の話し合いの録画テープを持って、今は無理でも、動けるようになったら検察に行くかもしれない。会社が検察の捜索を受けて、懲戒処分の関係資料一式を差押えされたらアウトだ。
いまはともあれ会社ともめたら、佐川の愛社精神など憎しみに変わるだろう。
注:この時代、動画メディアはビデオテープである。
人事部長はこの事件の経緯を知れば、被害届を出すだろうか? 出すのも恥、出さなければリスク大。
佐川だけでなく会社も実質的な被害を受けている。今回の灰皿事件をきっかけに、あるいは社員の噂から調査が入れば、当社自体が捜査対象になる。コンプライアンスがダメだしされたら、営業にも株価にも大影響があるだろう。
公明正大に懲戒解雇をして被害届を出すのが正解だろうな。
いろいろ考えるほどに、下山の心は悶々とする。そしてとんでもないことをしてくれたものだと怒りが沸く。
ハッと気が付いて、桧山が目の前にいるのに気づく。
「桧山君、ただいまから君に自宅待機を命じる。家に書類など持ち出していないね?」
注:「自宅待機」は懲戒処分の一つである。但し感染症などに罹患した場合も行える。
この場合は、桧山課長が会社で資料の廃棄などを防ぐためと、社員に口裏合わせるよう接触するのを防ぐためだ。
「ありません」
「貸与されたパソコンは、持ち帰っていないですか?」
「会社にあります」
「それでは今から机上を整理して帰宅してください。持ち帰って良いのは私物のみです。会社の物は一切置いていくこと。
今2時半ですから、3時までに退去してください。
明日以降、外出は構いませんが、こちらから呼び出しがあるかもしれないから、連絡が付くようにしてください。
なお、人事課長だから知っているだろうけど、今から辞表を出すのは意味がないからね。自己都合退職は認められ懲戒解雇は逃れられるけど
「承知しています」
正門で桧山が退社するのを見送ると、守衛所の警備会社のリーダーに、今後、彼が入場するときは、来客扱いしなければならないと伝える。
来客扱いとはお客様扱いすることではなく、見知らぬ社外の人が訪ねてきたときと同じ対応をすることだ。
それから下山は人事課に戻る。
「きよちゃん、人事課の次席は誰?」
「守屋さんです」
「会議室で待っているから、守屋君を呼んでくれ。
それから……課長だけが開けられるロッカーのカギは誰が持っているの?」
「課長が身に着けていることになっていますが、今は私が預かっています」
「OK、それじゃ今から俺が預かる」
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10分後、守屋登場。
「君は佐川氏の懲戒処分に関わったのか?」
「いえ、タッチしていません。今までこの工場でも懲戒処分に携わったこともありますが、人事課のメンバーに懲戒処分の実施と内容を周知しなかったことはなかったですね。
佐川のときは普通と違い、課長は課員へ周知はしませんでした。人事課の総合職2名、私ともう一名を呼んで、課長が直接手続きや本人への話をするから、我々は知らなくて良いと話がありました。そして佐川から、恥ずかしいから社内公表は勘弁してほしいと強い願いがあったと言いました。
他人の手を煩わせなかったのも、そのためかと思いました」
「なるほど……
話は変わるけど、副工場長と佐川氏の間に何があったか、知っているか?」
「尾関さんが佐川を嫌っているのは工場で有名な話ですが、原因は知りません。佐川は特段、尾関さんを嫌う様子はなかったですね。本当のところ何があったんでしょうね」
「明日、尾関さんに事情聴取をしたいので出社するように伝えてほしい。
時間は……13時から17時としよう」
「了解しました。
質問してよいですか?
桧山課長は何か犯罪とか規則違反をしたのでしょうか?」
「君は佐川氏の懲戒処分の理由を聞いているか?」
「先ほど言いましたように公式には聞いていません。課長に質問したら口頭ですが、上司の命令に従わなかったということでした。内容は教えてもらえませんでした。
でも佐川が労災を健康保険で処理しようとしたと噂で聞きました」
「事務所の女性に聞いたが、その逆に副工場長が健康保険で処理しろと言った噂が広まっているそうだ。その話は聞いているか?」
「その噂も聞いたことがあります」
「噂を聞いて、気に留めなかったのはなぜか?」
「まあ、噂話ですから」
「もし本当だったら大変なことになると思わなかったのか?
そして嘘であれ本当であれ、そういう話が外に広まったら、当社にとってまずいと思わなかったのか? マスコミは喜んで飛びつくと思わないか?」
「私は噂話より上長の話を信用してますし、人の噂も75日と言いますから」
「なるほど、
じゃあ明日から当分の間、大変だろうが課長代行を頼む」
守屋は嬉しそうな顔をした。課長に一歩近づいたと思ったのだろう。
下山は考える。自分が来て30分で怪我をした元山に会えた。そして元山は下山を本社の人事の人間と知りながら、堂々と出来事を話してくれた。ということは懲戒処分などなかったと思っているのは間違いない。
守屋は噂の裏取りもしないのか?、それに噂の危険性に気が回らないのは、感受性が欠如している。どのようなことが問題につながるかも考えていない、守屋は人事屋としては使い物にならんな。
ひょっとして……守屋もグルなのか? あるいは事後従犯か? だとすると彼も隔離して、調査をしなければならない。もう一人いる人事課の総合職もヒアリングが必要だな。いや、一般職も聞き取りしなければならない。
💭 | |
明日にでも本社から課長を務められるものを呼ばないとだめだな。それから書類を漁る手も欲しい。2人いや3人は来てもらわないとならないな。
守屋はもちろん、もう一人も様子を見てはずそう。
まずこれからのことだが、5時には新幹線に乗り、本社で次長と相談したのち松崎取締役に報告だ。
今日、結論が出るとは思えないが、とりあえず若手2・3人を連れて、明日の昼前に福島工場に来て、人事課の立て直し、課員のヒアリング、証拠の確保をせねばならない。
下山は新幹線で帰る前に佐川にもう一度会って、あまり
病室に入ると、佐川のところに40前後の立派な服装をした男がいる。
「お客様ですか。明日も福島工場に来るつもりだが、話しておきたいことがあって」
「ちょうど良かった。私も下山さんに話したいことがありました。
こちらは弁護士の泉田先生です。実を言って私の中学時代の同級生です。私が歩き回れるようになるのに、ひと月かかるということで、下山さんにご迷惑かけてはならないと、私の代理人になってもらいました。
概要は泉田先生に話してあります。被害届とかよろしくお願いします」
「弁護士の泉田です。なかなか込み入った事件のようですね。解決に向けて佐川さんの代理人をします。よろしくお願いします」
「それは……どうも」
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下山は、名刺交換をしながら、やられたと思った。
弁護士が出てくるには、佐川が退院するまでひと月の猶予があると思ってたら、即日じゃないか。
弁護士の権限と今朝のビデオテープがあれば、こちらの情報は丸裸に見られてしまう。そして当社が被害届を出さなければ、会社ぐるみと思われるだろう。会社ぐるみで労災隠しをしているなんて思われたら……
明日は会社の弁護士を連れてこないと、泉田弁護士にやられてしまう。とはいえ、会社には会社法や商法の専門家はいるが、刑事事件の専門家はいないぞ。
本日のエクスキューズ
労働法とか手続きなどにタッチしたことがないので、労働法関係の理解の誤りはご教示願います。
劇中で下山は考慮してませんが、桧山や尾関が姿をくらますとか、自殺する恐れも多分にありそうです。
某県知事のパワハラ問題で自殺した人もいましたからね。自殺の理由はパワハラじゃないとか、いろいろ取りざたされているけど……
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認証機関と依頼者のどちらが客かという議論は昔からある。 1990年代初期には、認証機関は顧客の代理人を自称していた。第三者認証制度が確立する前、顧客から依頼を受けて供給者にお邪魔して監査をするのは、まさに顧客の代理人だった。 ![]() しかしISO17021ができたときから、認証を求める企業が依頼者となり、認証機関は審査というサービスを提供する供給者になった。 ![]() | ||
2024年の法改正で、自転車酒飲み運転は刑法犯となり「危険運転致死傷罪」や「過失運転致死傷罪」として処罰されることになった。しかしそれ以前でも、あまり厳しい取り締まりはなかったが、自転車酒飲み運転は道交法違反であった。 ![]() 人事部門の人が犯罪をすれば、一般社員より厳しい処分を受けるのが普通だ。警官が一般人より厳しい目で見られるのと同じだろう。 ![]() | ||
私も良く理解できないのですが、懲戒解雇される前に退職願を出すと、企業は受理する以外ないそうです。会社に損害を与えていたりしたときは、自己都合退職でも退職金をなしにするとかできるのは同じだから、企業から見て損得はないということらしい。 しかし履歴書に懲戒解雇と書かなくて済むだけでもメリットはありそう。 ![]() |
いつもお世話になっております。ふとしです。 さらに本格的に、転生ものっぽくなってきましたね! いいぞ!もっとやれ!! それにしても佐川さん、2週目の経験値どころかちょっとした未来予知能力まで備えてそうな有能っぷり。 まさか隠されていたチートスキルがまだあるというのか・・? |
ふとし様 毎度ありがとうございます。 予知能力とおっしゃいますが、一回生きた人生なら、どんなことが起きるのかは、予知ではなく記録力の問題でございます。 ![]() ところで今年もあとひと月、 ![]() 今年こそ、今回こそで、年が暮れ……お粗末でございました。 |
おばQさま 想像を超えた展開でした。 凄いですね、面白いですね。(他人事だから?) 自分が人事担当だったら、胃に穴が開きそうです。 酷い話ですが、実は私も似たような社内の「隠し処分」を知っています。 表立って処分すると反論されるから、社内ルールに反して「当人には通知しないままに俸給を下げられていた人」を知っています。 表沙汰にしないままに酷い処分をする、当事者が問題があるならば懲罰会議を開いてほしいと言って、やらないまま有耶無耶。 でも当人は不利益な状態になっている事例は多いようですね。 戦前ですと「ノモンハン事件」の須見新一郎連隊長がこれです。 松原師団長、辻政信参謀の無謀な作戦計画に反対するなどもあり、ノモンハン事件後予備役編入となった、ご本人は軍法会議で事実を明らかにすると言ったが、結局 予備役編入。 インパールで撤退した佐藤師団長も、軍法会議で問題を明白にすると言っていたが、精神病扱いにされ予備役編入。 昔からあった事は、戦後も続いている。 明白にしない事で大きな禍根となる事は大きいから、下山氏のこれからの活動に期待しております。 |
外資社員様 毎度ありがとうございます。 物語に登場するできごとは、これはいつどこで……とは書けませんが、似たようなことを元ネタにしております。 ![]() ところで小松原師団長の名を聞くと、私はジンマシンが出てきそうです。ソ連と通じていたとか、ハニートアップとか、部下には自決を強要したとか許しがたい。 以前異世界審査員を書くとき、ノモンハンに関する本を何冊も読みましたが、1990年以降の本で小松原師団長をよく書いているのはなかったですね。 旧日本軍の師団長というと、功成り名を遂げた老人がする仕事なのでしょうか?小松原も師団長になったのは51歳、なんか老人が務めるような感じでダイジョブかと思ってしまいます(いや、だいたいがダメだったのですが) ![]() ウチのオヤジは辻正信を尊敬していたので、私は大人になってから、彼の行状をいろいろ読みました。戦争に行った人は、彼のような人を尊敬したのでしょうか。あまり裏を取るとかできるような情報のない時代ですから、しかたなかったのでしょうけど。 ![]() ところで私は管理者じゃなくて監督者でしたので、上から見た人事管理というのを知りません。ご指導願います。 |
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