タイムスリップISO38 事件収拾1

24.12.02

注1:この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但しISO規格の解釈と引用文献や法令名とその内容はすべて事実です。

注2:タイムスリップISOとは




下山は夕方6時には本社に戻った。5月も下旬となると、日没は7時前まで日が伸びて、まだ十分明るい。
桃井次長が席にいるのを見て、そのまま次長席に向かい報告したいという。
桃井も待っていたようで、何も語らず、すぐに下山と小会議室に入る。

桃井次長 「事件の概要は分かったか?」

下山 「事件について調べましたが、そればかりでなく報告事項が盛りだくさんです。
まず灰皿事件ですが、審査員がなぜ暴行したのか不明です。なにかがトリガーになったのでしょうけど。

ハテナ

また尾関副工場長の蹴とばし事件についても、なぜ暴力をふるったのか分かりません。本人は佐川がふざけていると思ったと言ってますが、複数の目撃者は怪我をしていることは、一目で分かったと言います。
瑕疵を見つけた気になって、日頃のうっ憤を晴らした感もあります。

なお被害者である佐川は、一昨年の秋に尾関が福島工場に転勤した直後から、いじめというかパワハラを受けていたとのことです。それ以前は二人の勤務地は工場も違いますし、出張とか会議でも会ったことがないと言っていました。
ただ思い当たることが、ひとつあるとのことです」

桃井次長 「なんだい君の口調じゃ、くだらないことだろう」

下山 「御明察のとおり。尾関は辞令が出る前に福島工場に挨拶に来て、その日の終業後、常夜灯しかない工場をひとりで歩いていたそうです」

桃井次長 「自分は有能だと思っている者のやりそうなことだな」

下山 「まさしく、そのようです。
佐川の話ではその夜は機種切り替えのために、残業で佐川と現場の人とふたりで塗装ロボットのティーチングをしていたそうです」

桃井次長 「佐川は当時、課長だろう。なんで現場作業をしていたの?」

下山 「佐川は使う方から見ると極めて重宝なのですよ。元々現場で作業者、リーダー、監督者と上がってきてますから、自分の課のすべての機械が使えるし作業ができる。必要資格も全部持っていると」

桃井次長 「器用貧乏か、」

下山 「器用貧乏というとネガティブなイメージですが、奴は何事も人一倍できるマルチタレントです。彼の悲劇は何でもできるから、彼がいればできるとみなされたことです。
だから彼は過去何年も毎月時間外を百数十時間して、管理者と作業者の二人分の仕事をしていたわけです。

実際に調べましたが、彼が管理職になって以降、工数計算に彼を含めています。土曜日に休んだことなし、日曜日の7割はフルタイムで出勤していました。こりゃどう考えても異常ですよ」


注:物を作るには人が必要だ。その必要人数は
 (1日の生産数量×標準時間)÷(出勤率×能率×作業率)=人数
で表される。

人数が足りなければ、出勤率向上(休むな!)か能率向上(手を速く動かせ!)か作業率向上(掃除や朝礼をなくす)などの方策を取るしかない。
だがそれらが妥当な条件において標準時間(1個の製造時間)を設定している。簡単に生産が上がり人を減らせるなら苦労はない。


桃井次長 「本当かよ、それも問題だぞ。工場の人事は何をしていたんだ?」

下山 「ともかく、そこを通りかかった尾関が、ブース内に入ってきた。
これまた自分は専門家だと自認している者がしそうなことです。

それを佐川が、関係者以外は入って来るなと止めたのですが、それが気に入らなかったとのこと。そして尾関が赴任してきた直後から、いじめられていると笑っていました。
この二つが、無関係とは思えないですね」

桃井次長 「ええと、俺の記憶だと産業用ロボットには安全柵を設けて、そこに入っちゃいけないはずだよな(注1)

下山 「おっしゃる通りです。思うに、尾関は残業している連中に、指導してやろうと考えたんじゃないですか。
佐川としては、夜中に顔も名前も知らない人が入ってきて、怪我でもされたら大問題です。いくらエアを抜いて電源を切っていても、見知らぬ人をブース内に入れたら佐川が責任を問われます」

桃井次長 「バカバカしい話だな」

下山 「そのバカバカしい話から、灰皿事件よりも大変な問題が発覚したのです」

桃井次長 「ま〜た、なにごとだ?」

下山 「昨年10月に福島工場で労災が発生しました」

桃井次長 「ああ、知っている。ええと……右腕挫創ざそうで不休災害だったはずだ。それが?」


注1:挫創ざそうとは転倒や打撲などで、刃物でないものが当たるとか刺さることで生じる皮膚の損傷で、出血を伴う開放性損傷。
刃物・カッターなど鋭利なもので切った傷を切創せっそうといい、これとは違う。


注2:不休災害とは業務上負傷や疾病を負い医療機関で治療をしたが、その日以降1日も休業しなかった労働災害をいう。1日以上休業したものを休業災害という。
休業災害との違いは、労働基準監督署長への報告書の提出や労働者死傷病報告の提出をしなくて良い。だから怪我で仕事ができなくても、会社に来て座っていれば(以下略)


下山は、佐川は自分が懲戒処分を受けたことを知らなかったこと、工場で広まっている噂、噂の内容や広まった経緯、怪我をした者と話をして噂が事実であることを確認したこと、桧山課長に自宅待機を命じたことを説明する。


桃井次長 「なんと、そういうことがあったのか。確かにそれは灰皿事件どころではない。刑事事件であるだけでなく、当社の事業上の大問題になりかねない。
工場内でそういう噂が広まっているということは、いつ監督署が、いや警察が入るかも分からんぞ。
まだ発生して半年か……すぐに手を打たんといかんな」

下山 「私もそう考えます。それで当社として早急に被害届を出すべきと思います」

桃井次長 「被害届というと……従業員が不法な行為をして当社が被害を受けたということか。当社が受けた被害とは何だね?」

下山 「当社内で不正を行ったことがすべてです。それにより当社の信頼性が棄損され、従業員の士気、社会の評価、顧客の信頼、そういったものが失われたわけです。
重大な被害を受けた佐川は、人事管理の問題として会社を追求する気満々です」


そのとき会議室のドアがノックされたあと、ドアが少し開き女性事務員が顔をのぞかせた。


事務員 「下山さん、福島工場から電話が入っています、大至急とのことです」


電話機

下山は桃井に断って部屋を出て受話器を取る。
この時代はスマホどころか携帯電話も普及していない。企業の内線がPHSになったのは2000年代だと思う。

下山 「下山に代わりました」

守屋 「福島工場の守屋です。
本日聞いた話ですが、当市の一部地域では当社内で灰皿をぶつけた傷害事件が起きたという噂が流れています。噂の出所でどころをたどると被害者の女性、熊谷と言いますが、その家族のようです」

下山 「被害者というと佐川がかばった人か?
その家族が近隣住民に話したということか?」

守屋 「そうです。正直言いまして当時は混乱しておりまして、熊谷には口止めはしていませんでした。昨日は昨日で課長があれでしたので。

噂の内容としては、女性に投げつけられた灰皿を、傍にいた社員が身を挺して止めて救ったが、助けようとした社員が大怪我をしたと事実通りです。ニュアンスは当社の責を問題視するものではなく、むしろ美談扱いです。助けられた家族の感謝の言葉は本音でしょう」

下山 「分かった。今更、家族に口止めするのもおかしくするだけだ。
事故を広報するか否かは別途考えるとして、とりあえず何もしないこと。
知らせてくれてありがとう。重大なことだ。何かあれば、また連絡してほしい」


会議室に戻ると下山は今の電話の内容を伝える。


桃井次長 「はぁー、尾関の蹴とばし事件がなければ、堂々と灰皿事件を広報できるのだが……
尾関の野郎が複雑にしやがって……」

下山 「佐川のことですが、佐川本人は灰皿事件も蹴とばし事件も特段大きな問題とはとらえていないようです。もちろん傷病欠勤とか慰謝料は、会社持ちと考えているでしょうけど、
しかし私が懲戒処分を受けていると語ったことから、それに対しては憤りがすごい、当たり前ですね。それでそれについては被害届を出すと言っています」

桃井次長 「当然だろうな。佐川の相手は尾関じゃなくて会社か?」

下山 「弁護士の入れ知恵かもしれませんが、佐川は、会社と一緒に尾関と人事課長を訴えようと考えています。そのほうが会社の協力を得られて、やりやすいからでしょう。彼にとっては尾関を懲らしめれば、過去のパワハラのこともあり、留飲は下がるでしょう。

なお工場の人事課のメンバーをヒアリング中でして、人事課の中に共犯がいるかどうか、まだ定かではありません」

桃井次長 「経緯は分かった。しっかり調査してほしい。
しかし君一人じゃどうにもならんだろう。若手を数人連れていって事情聴取と同時に、懲戒処分の証拠も調べないとならない。
今までの人事のメンバーを業務から離してしまえ。そのための人も必要だろう」

下山 「私もそのつもりでおりました。本社からと近隣工場に頼んで、助っ人を3人くらい集めるつもりです」

桃井次長 「仕事は戦争と同じで逐次投入はだめだ。チマチマやらずに5・6人集めていけ。その代わり労災隠しと人事をおもちゃにした証拠を確実に見つけろ。

しかしあれだな、我々は人事行政をしっかりやることが仕事だ。懲戒処分の解明と被害者救済は仕事だが、事件の究明や佐川の弁護士対応とか、被害届などは人事マターじゃない。

刑事事件対応なら法務部だろうし、労災隠しとなれば総務部だ。あらましが見えて、これから警察、検察、被害者対応と進めば、法務部マターだろう。明日行くときは、法務部に話して専門家をひとり同行してもらえ。弁護士資格はなくても良いだろう。

おっと、その前に人事部長に報告しよう。そのあと人を集めて、明日早く福島工場に行け」



*****


桃井次長と下山は、人事部長へ報告する。

松崎取締役人事部長 「いやはや、驚いた。灰皿事件が隠れていた重大犯罪を暴露したということか。
ウチの会社で労災隠し……更にそれを嘘で固めた懲戒処分とは、極悪非道だ、許しがたい。

まず基本方針は、速やかに調査を行い、できるだけ早く、今日は木曜日だから遅くとも来週中に被害届を出すか、警察への相談までこぎつけたいね。
そしてこれは、桃井次長の言う通り法務部マターだ。まずは法務部と一緒に福島工場の捜査と事情聴取をして証拠・証言をしっかり集めること。
それと広報部と噂と広報について事前協議をしておいてほしい。後はそれからだな」

下山 「佐川は弁護士を依頼しましたから、相手と上手く話をしないと進みませんね。相手が納得しなければ、向こうが先行して被害届を出すかもしれません」

松崎取締役人事部長 「よく話合い、被害者と敵対せずに共闘するよう話を付けてほしい。
法務部が話すときは君も陪席してくれ」



*****


人事部に戻ったのは、まだ遅い時間ではない。
桃井は法務部と広報部に、これから打ち合わせしたい旨伝える。
話し合い 下村は本社人事部から2名、千葉工場と宇都宮工場から合わせて3名の応援を出してもらうよう話をつけた。

その後の広報部、法務部との打ち合わせで、明日は各1名が同行することになった。
広報部は噂の状況把握と対応の検討、法務部は事実の確認と佐川の弁護士との話し合いをする予定だ。



*****


5月20日木曜日である。
本社からの5名は同じ新幹線で8時半に到着、千葉工場と宇都宮工場から来た3名の応援者とは駅で集合して福島工場に向かう。

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下山は福島工場の総務部長に挨拶して、一連の問題対策用に会議室を三つ確保することをお願いした。一つは法務部・広報部の事務所、もう一つは人事課の仮事務所、そして尋問もとい事情聴取する部屋だ。人事部の事務所は、やって来た一同で捜索をする。

そして、法務部の人には、佐川の弁護士との交渉を進めてもらう。
広報部の人には現在の噂を調べて、対策が必要かその他の調査をお願いする。


もう一つの部屋は……
下山は人事課に福島工場の調査の応援に来た5名を連れて行き、挨拶する。
福島工場の人事課は、男の総合職が2名と、女性の一般職が2名である。

下山 「本社人事部の下山です。昨日より福島工場の傷害事件調査のためにお邪魔しております。
その過程で、桧山課長がおかしな人事手続きを行ったことが判明し、昨日より自宅待機を命じました。日常業務があると思うので、守屋君を課長代行として業務を行って欲しい。
いろいろ事情があり、会議室を確保したので、そこに皆さんのパソコンやプリンターなど必要なものを移動してもらい、そこで業務を行ってもらう。期間は今日から数日を考えている。

ここにいるメンバー3名と私は、過去の業務執行状況の調査を行う。また人事課員のヒアリングを行う。あとで一人ずつ呼び出すので対応してほしい。呼び出しなどで仕事が滞らないよう、2名が福島工場の事務を手伝う。
以上です」

守屋 「急に言われても対応できません。新入社員対応とか夏季賞与のこととか、仕事は山積です」

下山 「仕事にはプライオリティがある。協力してほしいと申している。
さあ机上のもの必要なものをもって会議室に移動してください」

下山は命令すると、その通り実行させる。
すぐに、きよちゃんともう一人の女性は、今仕事をしているものをてきぱきと台車に載せて、会議室まで何度も移動する。
それを守屋ともう一人の総合職の男が唖然として見ている。


下山 「それじゃ打ち合わせ通り関係書類をチェックする。吉田君と秋山君はメールサーバー(注2)と人事のサーバーのチェックからだ。そこでおかしなものがあれば本人のパソコンを調べる。それは君たちでは手が負えないから、本社の情報システム部から呼ぶことになる。

山本君はカギのかかるファイル棚のチェック……俺も手伝う。
山岡君と岡部君は仮事務所で彼らの仕事の手伝いをして状況を把握してくれ。いつでも代われるように。もしおかしな動きがあれば、報告を頼む。守屋の課長代行を取り上げて山岡君を代行にする」

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広報部の人と、法務部の安達さんは、佐川が入院している病院に見舞いを兼ねて、今後の方向を考えるために行くことにした。その旨を佐川に電話連絡する。
佐川はそれを聞いて、佐川の弁護士を病室に呼んでおくという。それはありがたい。



*****


佐川である。目の前では旧友の泉田弁護士が、本社から来た法務部の安達さんとこれからの話をしている。話は聞こえるが、使われている言葉が日本語とは思えず、聞いていて半分も分からない。

打ち合わせ

分かったのは、昨日来た本社人事部の下山氏が、私の課長解任は会社規則に反することであったこと、そして文書偽造など違法なことをしていたことを確認したという。
それらの犯行は会社の指示命令ではないが、監督不十分であり、会社は佐川の受けた損害を賠償するそうだ。

会社は被害届を出して、犯人である尾関副工場長と桧山人事課長の法的制裁を行うつもりであること。その方法や時期については、今、工場で下山氏が証拠探しをしており、また関係者の聞き取りをしているの。その結果が出たら早急に決定し実行したいこと。
ただ実行に当たっては、会社と私個人がどういう形で行うかなど弁護士と詰めるという。


佐川としては暇だし、横になっている分には身体に痛みとかあるわけでもなく、話し合いが聞こえてもうるさくもなく、半分子守唄のように聞いている。

自分としては課長解任されても悔しいということもない。その結果、品質保証の仕事に移ったことで、面白い体験をしている。兵庫工場とか長野工場なんて今まで行ったこともなく、退職するまで訪問することもなかっただろう。これからも他の工場や関連会社を訪問することが多いだろう。それはエキサイティングに思える。
そしてこの仕事に就いて、本社に来いと言われたのはハッピーだと思う。
ただ、この仕事も多忙で、せめて休日はしっかり休めるようになりたいとは思う。

ちょっと待てよ
本社の生産技術部は、私が怪我をしたことを知らないんじゃないか?
もしこれを知ったら、これから本審査が相次ぐ重要なときにISO認証の指導ができないことから、転勤話がなしになってしまうかもしれない?

佐川は、これは大変だと冷や汗が出る。
即座に泉田弁護士に声をかける。


佐川真一 「ちょっとお話し中すみません。
泉田君、私の代理人だよな。実を言って、今、俺は転勤を打診されているんだ。しかし今回怪我をしてしまいひと月は動けない。肋骨骨折でリハビリが必要かどうか知らないけど、すぐには仕事ができないと思う。
それで先方に、怪我した旨と転勤はどうなるか、問い合わせてもらえないだろうか?」

法務部の安達 「おお、それなら、この話が終わり次第、話をしておきますよ。佐川さんの上長から問い合わせた方が間違いないでしょう」

佐川真一 「よろしくお願いします」



*****


その頃、福島工場の人事課である。

皆が分担して書類や電子メールを漁っている。
サーバーを調べていた本社から来た吉田が下山を呼んだ。

吉田 「下山さん、こんなのがありましたよ」


下山がその男が指さすモニターを見ると電子メールアプリが開いてあり、桧山課長が守屋に送ったメールだ。

なになに……


始末書の件

下記のような文面で書いてほしい。文字はていねいに、しかしへたくそに書くこと。

この度、私 佐川真一は、下記の行為により、会社に多大なご迷惑をおかけいたしましたこと、誠に申し訳ございません。当該行為について深く反省し、心からお詫び申し上げます。


1.日時 1993年10月 5日・14時半頃
2.場所 第5工場
3.不祥事の経緯及び原因



下山 「これはたまげた。この返信はあるか?」

吉田 「ないようですね、紙に書いて提出したのかもしれません」

下山 「守屋は共犯確定だな」

吉田 「本文だけじゃなく、送信先をご覧ください」


宛先を見ると「To」は守屋宛だが「Cc」はもう一人の総合職の林宛になっている。


下山 「おやおや、人事課は丸ごと共犯か? 一般職はどうだろう?
きよちゃんのパソコンを見たか?」

吉田 「これから見ます。ヒットする可能性が高いと思いまして、守屋を先行しました。
次は林です」

下山 「女性陣も頼むぞ」



*****


結局もう一人の総合職男性である林にも、桧山課長からの、佐川の懲戒処分の秘密を漏らすなというメール受信が発見された。となると総合職ふたりは間違いなく一味だったわけだ。
桧山の方を見るとしっかり発信記録が残っている。日付は昨日19日、時刻は下山がまだ病院にいた朝だ。そのときには灰皿事件だけでなく、懲戒処分がバレるかもと考えていたのか?


下山は思う。机を並べているのに、こんな危ないことをメールで傍にいる人に送るなよという気がする。とはいえ仕事中のやり取りをチャット並みにメールでするのが多くなった今、会議だとかちょっと話をしたいなどと会議室に連れて行くことが、目立つ時代になってしまったのかもしれない。

💭
下山

電子メールを読みながら下山は考える。
守屋が言った『課長が直接手続きや本人への話をするから、我々は知らなくて良いと言った』は事実と相違する。
守屋は共犯であり、かつ桧山課長の犯行が昨日時点で発覚したことを知ったわけだ。それにしては彼が下山がまだ知らないと思っているのは、ずいぶん甘い。
いや、彼らは紙ファイルの方には手を打ったのだろうか?

下山は電話してきよちゃんを呼ぶ。そして鍵付きのロッカーのカギは課長以外も持っているのか確認したが、総務部長が予備を持っているが、課員は持っていないという。
となると紙の資料は大丈夫だろう。

  ・
  ・
  ・
  ・

吉田 「一般職の女子社員2名のメールのやりとりには、怪しいものはありませんでした。
その代わりと言っては何ですが……」

下山 「代わりに何があったんだ?」

吉田 「佐川の降格処分がおかしいという雑談メールがたくさん飛び交っていました。メールというよりもチャットのようです」

下山 「訓告処分もせずに定期異動でなく怠慢で管理職解任とは、人事の者ならおかしいと思うわな。いや工場中がおかしいと思うのは当然だ。
しかし仕事しているふりしてメールでおしゃべりか、遊んでないで真面目に仕事をやれって言いたいね〜」


注:「訓告」とは官公庁・自治体また一般企業で定められている最も軽い懲戒処分で、文書や口頭で本人に注意をし、反省を促すこと。日常注意されるのとは、呼び出されて懲戒処分であると言われること、しっかり記録に残ることが大きい。
訓告を受ける具体例としては、度重なる遅刻、業務上小さなミスを繰り返す、備品の浪費など


吉田 「あれ、下山さんは知らないですか?
全社を挙げて庶務担当者競技大会ってのが、3年前にありました。女性も総合職志向が強くなり、くさっている庶務担当の意識向上を図ったのでしょうね」

下山 「知ってるもなにも、それを企画したのは俺だ」

吉田 「それなら『きよちゃん』こと『立花きよら』が、最優秀庶務担当者になったのを知らないのですか?」

下山 「ほう、そうだったのか、それは知らなかった。
それじゃ、きよちゃんは、優秀過ぎて暇を持て余しているのかもしれんな」

吉田 「有能な人は前任者から引継いだ仕事を改善して後任者に引継ぐ っていいますからね」

下山 「有能な人は前任者から引継いだ仕事を簡単にして後任者に引継ぐ(注3)じゃなかったか」

吉田 「とりあえず電子メールでの情報収集はこんなもので良いですか?」

下山 「ああ、次は人事のファイル共有サーバーを漁って、面白そうなものを見つけてくれ」

吉田 「了解」



*****


午後になり、尾関副工場長が事情聴取を受けにやって来た。

通路で尾関と守屋がすれ違った。下山はどんな顔をするのだろうと、両名の顔色をチラチラと眺めた。
尾関は誰もいないように注目もしなかったが、守屋の方はソワソワして尾関が何か自分に不利なことを話さないか気にしているようだ。いや、疑心暗鬼というから、二人ともなにも気にしていないのかもしれない。
あるいは尾関は桧山とだけ交渉していて、守屋は尾関と直接の関係がなかったのかもしれない。


どうせ俺の懲戒解雇は
決定だろう。
今更あがいてもどうに
もならん。
尾関副工場長
尾関副工場長
このとき刑事事件にな
るとは思いもしなかった

下山は大柄で筋肉質の尾関が暴れたら抑えきれないと考えて、応援に来ている柔道四段の岡部を書記として、向かい合う下山と尾関の横の辺に座らせた。
法務部の安達さんも一緒に聞きたいというので同席する。

事情聴取は埒が明かない。
まず佐川を蹴ったのは『ふざけていると思った』でおしまいだ。
佐川をパワハラしていたことは『気のせいだ』でおしまい。
次に佐川に無実の罪を着せて懲戒処分にしたことは、君たちがそう考えたならそうなのだろうと言ってあとは黙秘だ。
対応を桧山課長と話し合ったのだろうが、言い逃れ出来そうなアイデアがなくて、匙を投げたのかもしれない。

下山は安達と話をして、これはもうこれ以上聞いても時間を無駄と判断して、お引き取り願った。



*****


尾関副工場長の事情聴取が終わると、法務部の安達さんが佐川の頼みを果たそうと、品質保証センター長の猪越を訪ねる。

法務部の安達 「佐川さんに会ってきました。猪越さんに伝えてほしいと頼まれましてお邪魔しました」

猪越センター長 「法務部までご出馬ですか、ご苦労様です」

法務部の安達 「佐川さんも動きが早い。もう弁護士を頼んでいましたよ」

猪越センター長 「昨日、人事の桧山課長が自宅待機を命じられました。工場内では彼も尾関の共犯だという噂でもちきりです。
それで佐川君は下山さんも信用できないと考えて、弁護士を頼んだのでしょう。なにしろ身体的に自由が利きませんから」

法務部の安達 「なるほど誰が敵か分からない、バトルロワイヤルですか。おっと、佐川さんから見れば私も会社側だよね。

そうそう、彼から頼まれたのですが、彼は今本社応援しているので、本社のことを心配していました。
まずは当面動けないと本社に連絡してほしいと、猪越さんに伝えるのを頼まれました」

猪越センター長 「ああ、それは既に連絡しました。一昨日、ISO審査の首尾を伝えたときに野上課長に伝えました」

法務部の安達 「それは良かった。いっときでも上長ですから、傷病を伝えないといけませんね。
それから転勤の話があるそうですが、この怪我が元で転勤話がなくなるのではと心配していました」

猪越センター長 「その恐れは無きにしも非ずかな。ISO認証は、今が一番忙しいときでして、野上課長も佐川君の怪我で困っています」

法務部の安達 「でも聞いた限り、皆さんは佐川さんの英雄的行為を評価していますよ。怪我程度で切ることはないでしょう?」

猪越センター長 「確かにあのとき審査の部屋には十数人いたのに、動いたのは彼ひとりでした。とても真似できません。
でもいくら立派で仕事ができても、忙しいとき傷病で使えなくては、評価を下げるのも事実。

ところで、佐川君は弁護士を頼んだのはともかく、どうしたいのかな?」

法務部の安達 「元々、会社側も佐川さんも、尾関副工場長が蹴ったことは、示談で済ますつもりだったと思います。

ところが単純な傷害事件でなく、労災隠しの罪を佐川氏に負わせたことが発覚して、これは示談で済ませられないと考えたのでしょう。
佐川さんは、会社が途中で腰砕けにならないよう、自分は絶対に被害届を出して、犯行を公にするぞという姿勢を示したのだと思いますよ。

ということで相手が弁護士なら、こちらも弁護士となるわけです。残念ながら、インハウス弁護士に刑事事件を扱った者がおらず、今日は弁護士でない私ですが、話だけ聞いてこいと指示されました」


注:インハウス弁護士(インハウスローヤー)とは企業に勤務する弁護士のこと。
2024年時点、日本の弁護士は46,000人だが、内3,000人がインハウス弁護士である。


猪越センター長 「ということはゴネたとかではなく、会社が間違った道に進まないようにしたということですか?」

法務部の安達 「間違っているかどうかは分かりませんが、安易な道を選ぶなという意思表示でしょうね。
仮に尾関側が大盤振る舞いの和解案を出したら、佐川さんは名誉よりお金を取ってもおかしくない。告発するか・しないかは、費用対コストということもあります。真実を追求することがベストとは言えません」

猪越センター長 「私は今の安達さんの説明を聞くまで、そういう考えを知りませんでした。下山氏はどういう考えでしょうか?」

法務部の安達 「まず人事部は、佐川さんの地位の原状復帰、減俸の補償などは担当ですけど、事件は人事の手を離れます。

当社としてこの事件をどう処理するか、社内処分で止めるのか、刑事裁判にするのかは、佐川氏の考えに左右されないでしょう。というのは客観的に見て、明らかに刑事事件ですからね。変な噂が立つとか暴露されたとき、事業上のリスクが大きすぎる。

当社のコンプライアンスが問題となれば、事業継続に多大な影響があります。佐川氏が示談を選んでも、当社は訴えると思いますよ。私はそういう方向で報告するつもりです。
今後の方向は、法務担当役員が中心に検討し社長も参加して決定されるでしょう」



*****


下山は、今日は東京に帰らず、こちらに泊まろうと思う。
それで今日の実施事項、工場の人事課の書類の点検、メールの受発信を漁って、人事課長だけでなく、その下の総合職二人も共犯である証拠を見つけたこと、及び午後は尾関副工場長を呼んで事情聴取したこと、それらをまとめて電子メールを送信した。

ああ〜、これで今日の夜はぐっすり眠れる。昨日は本社で打ち合わせとか、関係部門への指示とかで帰宅したのは午前様、そして今日は朝6時半には家を出て本社に入って準備して……とにかく今日はホテルに入ったら風呂に入って寝よう。

電話が鳴る

そう思っていると桃井次長から電話が来た。


下山 「はい、福島工場人事課です」

桃井次長 「ああ、桃井です。報告書は読ませてもらった。
ちょっと今夜、打ち合わせたい。すぐに帰ってこれんかな?
今、6時少し過ぎだから、7時半には本社に入れるだろう。
松崎取締役もいろいろお聞きしたいという」

下山はそれを聞いて、仕方ないと受話器を置いた。




うそ800 本日、考えているこれから

一応、佐川の懸案は片付けたので(あと2回くらい続くけど)、これからはISO審査のチャンチャンバラバラをメインに進めるつもりです。
おっと、野上課長は佐川が負傷したことで、ピンチヒッターを用意したでしょうか?
佐川が失業しては困るぞ



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日本では、会社が社員のメールボックスを監視することは、一定の条件下で合法とされている。
条件はみっつあり、正当な理由があり、事前通知をすること、社員のプライバシー保護とされる。

「有能な人は前任者から引き継いだ仕事を、簡単にして後継者に引き継ぐ」とは「愛に時間を」の「ものぐさすぎて失敗できなかった男の話」より、
「愛に時間を」、ロバート・ハインライン、早川書房、1978






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