タイムスリップISO 7.千客万来

24.08.05

*この物語はフィクションです。登場する人物や団体は実在するものと一切関係ありません。
但しISO規格の解釈と引用文献や法令名とその内容はすべて事実です。


タイムスリップISOとは

注:文中「私」とは、作者である私、おばQのことではなく、このお話の主人公である「佐川真一」であります。お間違えの無いようお願いします。




1992年の12月もあと10日で終わりだ。師走というくらいだから忙しい時期であるはずだが、営業や製造部門と違い、品質保証は年中気楽な稼業だ。

もっとも気楽な稼業と言えるのは私だけかもしれない。
ジングルベル♪
メリークリスマス

村上さんは私が1時間でできる仕事を、丸一日かけて青色吐息である。不思議というしかない。
もしかして己の評価を上げるために、自分の仕事をとても難しそうに見せているのだろうか? あるいは暇だから仕事が忙しく見せているのか。だとすると、そんな余計な工夫、苦労も大変だな。
福田課長は私の顔を見るたびに村上さんを見習えというが、正直それは無理だ。

ところで「人の噂も七十五日」という。マスコミが犯罪や政治家のスキャンダルを75日間も報道するのは放送法に決められているのかもしれない。
だが現代社会は変化も激しく、日常生活でもインプットされる情報量は莫大だ。だから人の噂など1週間で忘れられてしまう。
実際に福田課長と大村さん、島田さんの懲戒処分(第5話)はまだ忘れられてはいないだろうが、社内で話題になることはもうない。


しかし考えてみれば、あの処分はおかしい。おかしいと思わなければその人はおかしい。だが前世の私はおかしいと思わなかった。それはまだ品質保証とかISOMS規格などを、自分のものにしていなかったからだ。

品質問題に限らず、なにごとでも問題が起きたら、その後始末だけでなく、再び同じ問題が起きないように是正処置をしなければならない。人生において問題が起きた原因を究明し、それを反省して判断や行動を見直さなければ人の成長はない。
孔子も行ってるじゃないか、過ちて改めざる是を過ちというって、


注:多くの国語辞典では「是正」の語釈は「悪い点を改めただすこと」とある。「是正処置」は載っていない。「悪い点」が悪い点が起きた原因も含むと解するのは、いささか拡大解釈だろう。
品質管理で「是正処置」とは「原因を除去し再発を防止すること(注1)である。「是正」のみの定義は見たことがない。

品質問題に限らず男女関係でも買い物のおつりでも、問題が起きたら「悪い点を改める処置」と「再発させない是正処置」が求められる。


そう考えると今回の問題の真の責任者は福田課長とも思えるし、課長に最終責任があるのは、会社のシステムに問題があるとも思える。だが現実は福田課長止まりで、真の原因を究明したという話は聞かないし、再発防止の処置など聞いていない。

校正期限の過ぎた計測器を使うこと、提出文書に記載する校正日時を偽ったこと、それはすべて現象に過ぎない。なぜ起きたのか、なぜを5回繰り返し、原因を究めるのが鉄則ではないのか?


私も暇だったし、桜庭さんも暇そうにしているのを見て、声をかけた。

私、佐川真一 「桜庭さん、ちょっと仕事のことお聞きしたいことがあるのだけど、お時間取れますか?」

桜庭さん 「佐川さんは丁寧な言葉を使うのね。いいわよ、何か資料が必要?」

私、佐川真一 「いえ、桜庭さんの記憶で十分と思います。ちょっとここではあれなので、会議室でよろしいですか?」

桜庭さん 「ドアのあるところね、しっかりした会議室にしましょう」



*****


5分後、小会議室である。

私、佐川真一 「今回、課長と二人に懲戒処分がありましたが、それについてお聞きしたいのです」

桜庭さん 「なんでしょ?」

私、佐川真一 「私には人事から事情を聞きたいなんて声がかかりませんでしたが、桜庭さんには何かありましたか?」

桜庭さん 「なかったわ、こういう懲戒処分などの時は周りの人の話を聞いたりするの?」

私、佐川真一 「事件の内容によるでしょうけど。
打ち合わせ
打ち合わせ
打ち合わせ
私は校正期限が過ぎていたことを課長が知っていたかどうか、知っていないならなぜか、知っていたならなぜ手を打たなかったのかを確認しないとならないと思いますね。
当事者だけの聞き取りで、それが究明できるとは思いません」

桜庭さん 「確かに電波暗室の測定器の校正期限が過ぎた件は、浜本さんの週報に何度も書かれていたわ」

私、佐川真一 「それを見て課長とか大村さんは何も言わなかったのですか?」

桜庭さん 「そんなことないじゃない。まず課長は浜本さんの週報を見て、大村さんに早く校正できるように電波暗室の使用を止められないかと言いました。
大村さんも早く校正してほしいけれど試験が混んでいて時間が取れないと、そのたびに答えていました」

私、佐川真一 「課長は校正を時間外でするとか、外部の施設を借りるようにとか言わなかったの?」

桜庭さん 「福田課長は大村さんや浜本さんからそういう提案があっても、予算がないとか皆で考えてほしいとか言うだけで、ご自分は何もしなかったですね。
お金がかかることになると、時間外はするな、部門費は使うなって、何を考えているのか分からない。

佐川さんは時間外をしないから……身分は管理職だから時間外が付かないのか……課長から何やかや言われてないのね、村上さんがここに異動になったとき、仕事が間に合わないって時間外をしたらとんでもなく叱られたわ」

私、佐川真一 「村上さんも仕事がはやいとは思いませんが、定時内にできないなら時間外も仕方がないでしょうね」

桜庭さん 「課長はルールを守らせるのが目的のような人ですね。
そもそも管理とは目的を果たすためにリソース『人・もの・金』を有効に使うことですよね。でも能がない人ほど、手段を目的化するのよ。リソースを使わないこと・節約することに努めるのよ。

で、佐川さんの話の目的は何なのよ?」

私、佐川真一 「普通、懲戒処分などは客観性を保つために、当事者だけでなく周りの人とか関わった人の意見を聴取するはずです。それで桜庭さんは人事などから聞かれたかなと思ったのです」

桜庭さん 「そう言われるとそうよね。人事が課長と大村さん、小島さんから話を聞いて処分を決めたのかな?
それに佐川さんが言ったように、原因を究明していないわ。再発防止なんて考えてないのでしょう」

私、佐川真一 「この会社のレベルが低いのかもしれませんね」

桜庭さん 「おやおや、また同じ問題が起きるということ?」

私、佐川真一 「問題の関係者を処分して終わりなら、また同じ問題は起きますね」



*****


副工場長
佐川の天敵
尾関副工場長
事務所に戻ると課長の席に副工場長が座っている。
私はこの人が嫌いだ。性分が合わないレベルではなく、過去1年間いじめられてきた。それも権力を基にパワハラどころか違法な命令をしたりする。
今日も暇ができたから私をいじめに来たのかなとさえ思う。

副工場長 「おお、佐川、待っていたぞ。行先表示に会議なんて書いてあったが、一緒に戻ってきた庶務との打ち合わせか? 優雅なものだ」

私、佐川真一 「何か御用でしょうか?」

矢印








































佐川真一って主人
公の名前だよ★★

副工場長 「そうだ、危険物屋内貯蔵所の看板にお前の名前が書いてある。知っているか?」

私、佐川真一 「存じませんね。しかしそれはいけませんよ。私は異動しましたので、標識の責任者名を変更しなければなりません。

それだけでなく、危険物保安監督者の名義は変更届を出さないとなりません。届け出先は消防署ではなく市役所だったかな?
届をしないと罰金です(注2)
もちろん罰金を払うのは会社で、私じゃありませんが」

副工場長 「バカ語っているんじゃない。
危険物屋内貯蔵所は枯葉の山だ。今すぐ行って掃除しろ」

枯葉

注:危険物貯蔵所には可燃物を置いてはいけない。枯葉などが入るのは整理整頓だけでなく、これに反する。
一斗缶などを木製パレットに積んだまま保管するケースもあるが、これは消防署によって見解がいろいろである。

私、佐川真一 「副工場長、勘違いしていませんか。私の所属は品質保証課で、危険物屋内貯蔵所と関係ありません。危険物標識が私の氏名のままなのは法違反です。届けた人に人事異動があれば、遅滞なく氏名の変更と届をしなければなりません。

異動に伴って責任者名を書き直すのは私ではなく、総務課あるいは人事課のお仕事です。そちらに苦情を言ってください」

副工場長 「わしがお前を責任者に指名すりゃいいんだろう。製造所属でなければならないなら、製造部兼務にしてやる。ありがたく思え」

私、佐川真一 「いえ、ありがたくないので結構です。危険物屋内貯蔵所の責任者は危険物取り扱いを自らする者、あるいは資格を持たない者を監督する者であって、実務と無関係な有資格者を書いても名義貸しとみなされ違法です(注3)
掃除なら新任の危険物保安監督者に指示してください」

副工場長 「そんな講釈いいから早ようやれ」

私、佐川真一 「副工場長、いいですか。当社規則では命令は直属部下に対してだけです。命令を受けるほうから言えば、直属上長以外の命令に従うのは就業規則違反です。
非常時や指揮者不在の場合であっても、指揮権継承順位は規則で決まっていて、それ以外の人は命令権はありません。

ガミガミバカバカしい
副工場長がなすべきことは、製造部長に危険物屋内貯蔵所の清掃を命じることです。製造部長は担当の課長に、そして課長が危険物屋内貯蔵所の責任者に命令します。

副工場長が私の上長に命令するのも筋違いですし、品質保証課長が私に危険物倉庫の清掃を命令するのは職務分掌から逸脱します。
組織ってそういうものです。ルールを破れば組織は崩壊します。

まさか副工場長が組織論の初歩も知らないとか、就業規則に反する命令をすることはありませんよね。ましてや罰金まである違法な仕事を命じたら刑法犯になります。もしそんなことがあれば、私は遵法を定めた会社方針を守るために、副工場長の命令を拒否しなければなりません。
ご理解いただけましたら、私は自分の仕事をしなければなりませんので」


参考まで
最近はやりのAIに直属上長以外から指示されたときの対応を聞いてみた。

ChatGPI
直属の上長以外から指示を受けた場合、まずは直属の上長にその指示を伝えて確認するのが基本です。これにより、上長がその指示に同意しているかどうかを確認できます。
直属の上長に即時に連絡が取れない場合でも、自分の判断で行動することが求められることがあります。その場合、後で必ず直属の上長に報告し、事情を説明します。

Copilot
上司以外からの指示でも、職務範囲内であれば適切に対応しましょう。指示が職務外の場合は、適切に断り、上司に報告することが必要です。

AIじゃないですが、ライブドアニュース
直属の上司に、誰からどんな指示を受けたのかを報告しましょう。 直属の上司が不在のときには、上司の上司に報告して相談しましょう。

なるほど、いろいろあるものです。もちろん規則があれば第一義にはそれに従います。


副工場長はドンと音を立てて席を立ち、足早に立ち去った。
桜庭さんが心配そうに傍により小さなことで話しかける。

桜庭さん 「佐川さん、大丈夫なの? 工場長より権力のある副工場長ですよ。下手するとクビかも?」

私、佐川真一 「いくらなんでもそれはないよ。万が一のときは監督署に駆け込むからね。それに私は既に降格されているから、もう昇進の見込みはありませんしね。
しかしさあ〜、なんで私を目の敵にするのかねえ〜。いちゃもん付けるなら少しは理論武装して来いってもんだ。
警官 いくら警視総監が偉くても、交番の巡査に命令できるわけないでしょう。あの御仁、組織論を知らないのか」


なんてのどかな話をしていると、電話が鳴る。
桜庭さんが受話器を取ってすぐに私に渡す。

桜庭さん 「人事課長よ」

私、佐川真一 「ハイ、佐川に代わりました」

人事課長 「大至急、人事課まで来てくれ」
 ガチャン


電話機 電話が切れた。笑うしかない。能無しめが、
しょうがない、行ってきますか。
どうせ副工場長が何か言ったのだろう。



*****


人事課に行くと課長が私の顔を見て立ち上がり、人差し指で会議室に来いとしぐさする。態度の大きな奴だ。
部屋に入るとすぐに二人とも座る。

人事課長 「君は、危険物屋内貯蔵所の責任者と危険物保安監督者になっているそうだね」

人事課長
佐川の天敵2号
桧山人事課長

私、佐川真一 「そのようですね、知りませんでした」

人事課長 「自分がその任に指名されているのを、知らないことはないだろう?」

私、佐川真一 「私が製造部にいたときは、危険物屋内貯蔵所の責任者と危険物保安監督者になっていました。しかし先月、職場が変わりまして当然仕事も変わりました。
現在は危険物の取扱とか、その業務を監督する職におりません。よって会社はその任に当たっている人で有資格者を指名すること、また保安監督者については行政に変更の届を出さないとなりません。

もしかして、私が異動したのに責任者の変更を届けていないのですか? それは違反ですよ」

人事課長 「そうなのか。法規制があるのか。
有資格者はいるのか」

私、佐川真一 「有資格者のリストは人事課にあると思います。
但し会社が業務命令で受験させた人だけですが」


人事課長が電話をかけ、書類を会議室に持ってくるように言う。
数分後、女子事務員がパイプファイルをひとつ持ってくる。そして課長の前に広げてパラパラとページをめくり指さす。
人事課長が手をパタパタさせて女子事務員に帰れとしぐさする。事務員はムッとした表情をして消える。人事課長は恨まれるタイプだなと他人事ひとごとのように考える。実際、他人だもんね。

人事課長 「たくさんいるじゃないか。何十人もいる。
なんで君を届けていたの?」

私、佐川真一 「私を届け出したのは何年も前ですが、前任者が退職したとき甲種を持っているのが私しかいなかったからです。

ご存じのように危険物は1類から6類までありまして、この工場では4類だけでなく、3類、5類、6類も保管し、かつ使用しています。それで乙種ならそれぞれ類の資格者が、あるいはすべてを取り扱える甲種の資格者が必要なのです」

人事課長 「ええと5類はひとりいるが、3類と6類はいないと……甲種は君しかいないのか。
どうすればいいのかな?」

私、佐川真一 「試験を受けて資格を取ることです。試験は県内各地で年30回くらい実施しています。どこの住民も受験しやすいように、あちこちの町で試験しますから、近隣の試験会場の日程が合わなければ、多少遠くの会場で受験するしかないです。
それと毎回全ての種類の試験をするわけではありません。需要が多い乙4は毎回しますが、他の類では年に数回というのもあります。詳細は県に問い合わせるしかないです」


注:今はこのような情報はウェブサイトで見られるが、1990年代前半はウェブサイトはなく、公報も紙に印刷して消防署や商工会議所に掲示されるくらいだった。

私はそもそも何という機関が試験をするか分からなかったので、消防署に聞きに行った記憶がある。1970年頃は、公務員はどこでも一般ピーポーを目下に見ていて、どこが試験するのか教えてもらうだけでも嫌になった。
1990年代半ば、法律のことを市役所に聞きにいったら、丁寧語で話すので驚嘆した。

人事課長 「合格率は?」

私、佐川真一 「難しい試験じゃないですね。乙種なら気が利いた人間がひと月勉強すれば7割方は合格するんじゃないですか」

人事課長 「資格者がいない3類と6類のふたつを受けないとならないわけか。ああ甲種なら一人で済むと」

私、佐川真一 「では私はこれで失礼してもよろしいですか?」

人事課長 「君が従来のまま責任者をするのはまずいのか?」

私、佐川真一 「副工場長にも説明しましたが、危険物取扱者とは自ら作業をする人、あるいは資格を持たない人を指揮する人が必要な資格なのです。
私は現在品質保証で仕事をしています。兼務発令されても日常的に危険物の取り扱いはできません。

設計に資格マニアがいます。彼は甲種を持っていますが、業務上資格を取ったのではないので、人事に届けてないのでしょう。
その設計の方も私も、その職務に就いていないので、有資格者だからと責任者にすると名義貸しになるという行政のQ&Aがあります。組織上兼務にしても実態がなければ違法です」


注:名義貸しとはいろいろなケースがあります。
法律で有資格者が必要なとき、有資格者の名前を借りて登録したり必要な表示をすること。国家資格の名義貸しは禁じられていて、多くの場合、罰則があります。

その他、お金や不動産を借りるのに、信用状況が悪く契約できないとき、他の人の名前を借りること。
電話詐欺などで、自分名義のスマホを売る・貸す、あるいは振込口座を使わせる名義貸しは犯罪です(犯罪収益移転防止法違反)。
無断で人の名前を使うことは名義貸しではなく、私文書偽造・同行使とか詐欺罪になります。

私、佐川真一 「そもそも副工場長が今日私のところに来たのは、危険物屋内貯蔵所の掃除が悪いという苦情でした。そんなこと品質保証課の私に言われても困ります。

今回の問題は、副工場長が工場巡回中に危険物貯蔵所の清掃が行き届いていない、標識を見たら私の名前がある、奴に掃除させようという程度の発想でしょう。

お宅がしっかりと人事異動を反映して表示を書き換えさせていれば、私が副工場長に見当違いのことを言われることはなかったのです。いずれにしても法違反ですから、しっかりしてください」


人事課長は面白くない顔をしているが、こちらはもっと面白くない。
お前の怠慢で私はいい迷惑だ。もっとも消防法関係の所管部署は人事課でなくて総務課だったな。私でないことは間違いない。頑張ってくれ



*****


人事課長との話を終えて戻ると、私の席に私と同じくらいの年齢の人が座っていた。

猪越課長 「やあ、あなたが佐川さんですか。ちょっと話をしたいのですが」

私、佐川真一 「失礼ですが、お会いしたことありましたっけ?」
 (本当は30年前に会っているのを覚えているけど)

猪越課長 「あっ、失礼しました。猪越と申します」


話が微妙なことだろうと、桜庭さんが気を利かして空いている会議室を探してくれた。
会議室に二人が入ると、すぐに桜庭さんがお茶のペットボトルを持ってくる。
はて、今朝福田課長が来客以外にペットボトルを出すなとなっているはずだ。なぜか桜庭さんは猪越氏に親切なようだ。
桜庭さんが部屋を出てから猪越氏は口を開いた。

猪越課長 「品質保証課の課長が替わることを聞いてますか?」

私、佐川真一 「いや、聞いておりません」

猪越課長 「福田課長は今月いっぱい、今年いっぱいでもありますね、退職するそうです。
彼は一度大きなミスをしていて、以前から転職先を探していたようです。今回二度目ですから、この会社に見切りをつけたんでしょうね」

私、佐川真一 「初耳です」

猪越課長
羽釜 「後釜になる」とか「後釜に座る」というが、由来を知らなかった。
昔、炊事はかまどだから、火を起こしたり火加減が大変面倒だった。
前の人が使った火が残っていれば楽なので、前任者の功績や財産を引き継ぐ後任者を「前の人の後に置く釜」に例えたという。
「ということで私がその後釜あとがまになります」

私、佐川真一 「そうですか、よろしくお願いします。
ところで後釜とは、前任者の財産とか栄誉を引き継ぐ意味ですけど、ここでは負債の相続ですよ」

猪越課長 「存じております。私の使命は品質保証課の立て直しです。
佐川さんとは面識なかったですね。私は設計の機構設計の課長をしております」

私、佐川真一 「機構設計では下田課長を存じてますが」

猪越課長 「今まで機構設計1課と機構設計2課があったのですが、来月付けでひとつになり、下田さんがまとめて面倒を見ます」

私、佐川真一 「参考までに、福田課長はどちらに行かれるのですか?」

猪越課長 「海外では既に行われていますが、まもなく日本でもISO認証制度ができるそうです。その審査員になるそうです」

私、佐川真一 「へえ〜、そうですか! 初耳のことばかりです」

猪越課長 「そんなことで、品質保証課の状況を探りに来たわけです。
桜庭さんとは同期入社でしてね、彼女の話では品質保証課を牛耳っているのは佐川さんだそうで……」

私、佐川真一 「ご冗談を、私はここ来てまだひと月ですよ。どういう見方をすると、よそから来たばかりの人が牛耳っているなんて言えるのですか」

猪越課長 「あまり真面目に取らないでくださいよ。
私の使命達成のためには、一番まともに見える佐川さんに頑張ってもらわないと困ります」

私、佐川真一 「まともに見えるですか、見えるだけで中身はまともじゃないと…
私だって前職からこちらに左遷されてきた身、期待されても困ります」

猪越課長 「まあ、誰にでもいろいろありますよ。私も設計で管理職に不向きだと言われて此方に来ます」

私、佐川真一 「ほう、どんなことが不向きだったのですか?」

猪越課長 「設計部なら誰でも知っていることですが、私が人を使えないことが問題でした。
リーダーシップを発揮して云々というのが期待される管理職なのでしょうけど、私は人に細かく指示して頼むなら自分でした方が良いという人間です。

平社員のときは私のような人間が有能と見なされるのでしょうけど、管理職になると能無しとみなされるわけです。毎日部下が定時で帰り、私が毎退社するのはまずいとなりまして品質保証にきます。
ここなら前任者の様子から、残業しないだろうと思われたようです。
佐川さんの場合は噂がいろいろありますが、事実はどうなんですか?」

私、佐川真一 「それは勘弁してください。
しかし皆が脛に傷を持つですか……傷口をなめあってもしょうがないですね」

猪越課長 「ここの仕事は全体的にどんな塩梅ですか?」

私、佐川真一 「まず信頼性評価は今までも課長が仕事を見ておらず、二人の係長が設計と直接交渉して仕事しており、実態は設計の下請けですね。
信頼性評価の力量もどのくらいのレベルなのか、私は分かりません」

猪越課長 「計測器管理もありますね」

私、佐川真一 「計測器の校正期限の問題は聞いていると思いますが、問題は電波暗室だけではありません。校正期限切れが15%もある状況です。私が見るところ計測器管理の問題は技術的なことではなく、管理の問題です。

平たく言えば課長が必要工数を与えていないからです。
私は計測器の担当ではありませんが、電波暗室の計測器の校正期限過ぎを見つけたのは私です。
それから計測器管理の浜本さんと校正期限過ぎ一掃の活動中です。今年度中には達成できそうです」

猪越課長 「工数が足りないとはどういうことです? 具体的にどういうことをしたのですか?」

私、佐川真一 「仕事量が多くて在籍のメンバーだけでは、時間外をかけないと処理できないのです。何年も前から分かっていたのに手を打っていません。
製造現場に人がいなければ生産できませんが、計測器を校正しなくても使えますからね。

更に福田課長は時間外を禁止していまして、リーダーがひとりサービス残業で頑張ってましたが、とても無理ですよ。
いくらなんでも平社員やパートにはサービス残業を命令できませんからね」

猪越課長 「おやおや、労基法違反とは末期ですな」

私、佐川真一 「猪越さんの異動先に、ここなら残業しないだろうとは考えた人、たぶん人事課長あたりでしょうけど、現状を分かってませんね。
ここを正常化するには、かなりがんばらないとなりません。
私もここに来てから何かしたわけじゃないですが、桜庭さんの手伝いも、浜本さんの手伝いもしています」

猪越課長 「福田課長はそれを見てなんと?」

私、佐川真一 「初めは余計なことをとお叱りを受けましたね。計測器管理室に関しては、例の電波暗室の件があってからおとなしくなりました。
そしていつの間にか福田課長の頭の中では、私が計測器管理の責任者になったようです。電波暗室の問題では、私の責任と言われました、アハハハ」

猪越課長 「品質保証はどうですか?」

私、佐川真一 「私が来るまで村上さん一人で対応していたそうです。正直ひとりでできるものではなく、ものすごい手抜きをしていたのですね。
あの程度ならひとりでできる……というかひとりでできることだけしていたということかな?
私が来てまだひと月ですが、既に仕事の半分以上私が処理しています」

猪越課長 「テレビゲームの件では、村上さんより佐川さんの方が品質保証のベテランだと設計の課長たちの評価でしたね」

私、佐川真一 「お褒め頂きありがとうございます。
私も品質保証の仕事は初めてですが、なぜか仕事が合う感じですね。
いや簡単な話、品質保証なんて、文章をよく読むこと、理屈を考えること、ワープロが得意なこと、それだけで十分ですよ。固有技術は関係ないですから。

品質保証って元々の英語はQuality Assuranceで、Assuranceの元々の意味って、強い自信、傲慢、厚かましさなのですよ(注4)だからAssuranceの訳は『保証』でなく、上品なら『安心させる』露骨に言えば『悪いものを良いと言いくるめる』でしょう。私は詐欺師に向いていますね」

猪越課長 「村上さんが異動しても大丈夫ですかね?」

私、佐川真一 「村上さんも転勤になるのですか? それもまた初耳です」

猪越課長 「仮定の話ですが」

私、佐川真一 「村上さんのお仕事は総合的に考えないと何とも言えませんね。単に今のままなら何とかと思いますが、先ほどの話から想像するに、まもなくISO9001認証することになるのでしょう。
特にISO認証が難しいとは思いませんが、絶対的に手が足りないですね。

ISO9001は私が担当するにしても、従来の顧客対応の品質保証にひとり欲しい。ISO9001を認証しても、従来からの顧客ごとの品質保証協定がなくなるわけではありませんから。

猪越さんのお話には庶務がなかったのですが、桜庭さんは今大変なのです。工場の規定類が定期見直しされていない。改定しようにもワープロの電子データがないなど、途方に暮れています。
実を言ってわたしも手伝っているのですが、ボリュームが大変です」

猪越課長 「規定といっても桜庭さんの仕事じゃなくて、信頼性とか計測器管理などの手順書でしょう。それぞれの担当者がすることはできないのですか?」

私、佐川真一 「理屈はそうですが、無理でしょうね。みんな日々の仕事さえ片付けていないのだから。それに規定なるものを、作ったことなどないんじゃないかな?

猪越課長 「佐川さんはISO9001の経験はないですよね。だってまだ日本で認証が始まってないのだし。
それにしては、やることとか必要工数など推定できるとはどうしてですか?」

私、佐川真一 「ISO9001といっても、品質保証にすぎません。先ほども言いましたが、品質保証とは、要求事項を理解すること、何をすれば良いか考えること、規則をワープロする、内部の人に周知徹底するだけです」

猪越課長 「自信があるのですね」

私、佐川真一 「審査にやってくる審査員も福田課長も、これから勉強するわけでしょう。なら私も同じですよ。
それと想像ですが、顧客の品質保証要求より楽と思えることがいくつかあります。
ひとつは英語ですから修飾語のかかりとか形容詞のレベルなど、日本語より解釈に間違いが起きにくい。
ひとつは第一世代の審査員は、船級検査とかプラントの品質監査などをしていた人が多いと聞きます。ですから要求事項の理解もまともだろうし、過剰な要求もないだろうと思います」

猪越課長 「見てきたようなことをおっしゃる」

私、佐川真一 「講釈師見てきたような嘘を言うですか。まあお手並み拝見と楽しんでください。
ところで猪越さんがISOと言い出すとは、もう認証の日程は決まっているのでしょうか?」

猪越課長 「まもなくEU統合になりますが、そうなるとEU域内が一つの市場になりますが、そのためにはISO認証工場での生産が要求されるそうです。
ウチはOEMとか図面をもらって製造するものが輸出されることも多く、いつ顧客からISO認証を要求されても良いように来年夏までと考えているようです」

私、佐川真一 「正直言って今の仕事量にISO9001が追加になると、村上さんがいないと辛いですね。ああ、村上さんがいなければならないわけではありません。桜庭さんがもう一人いれば十分です。
もちろん猪越さんが課全体を考えて、人の配置や仕事の分担をどうするのかもあります。

現在、品質保証課の担当している規定は80本あります。そのほとんどが定期見直しをしていないのです。桜庭さんが見直しをしようとして、わたしも手伝っているのですが、なにせ仕事量が膨大です。規定の原紙が電子化されていないので、現行のものをワープロで打ち直すだけでも大変な仕事量になります。
それを夏までに解消するためには一人事務員が必要になりそうです。

おっと、パソコンも欲しいですね。今品質保証課にあるのは、課長用のノートパソコンと、みんな用のデスクトップが2台です。2台を課長以外の20名が使うので、現在は予約表で管理してますが、日々取り合いをしています。

規定の見直しとか、ISO用の資料作りが佳境になると、ひとりに1台はほしいですね」

猪越課長 「佐川さんはワープロ得意ですか?」

私、佐川真一 「得意、得意、競争しましょうか?」

猪越課長 「私も速いですよ。
分かりました。パソコンが2台追加に事務応援がひとりと……」

私、佐川真一 「猪越さんは自前のパソコンを持ってくるのですか?」

猪越課長 「もちろんです。福田課長の使っていたものが空きますから、それも皆で使うようにするとだいぶ楽になるでしょう」

私、佐川真一 「それは助かります。私はパソコンが無理でも、テキスト入力するワープロがほしいと家内と労使交渉しましたが拒否されました」

猪越課長 「文章を手書きでは能率が全然ですからね。
文書作成は私もやりますから、事務の応援は状況を見ましょう」

私、佐川真一 「猪越さんのおっしゃった『自分がやる』はなし●●でお願いしますよ。朝帰り禁止、遅くても10時には帰りましょう。
課長は社外対応では認証機関との交渉もあるでしょうし、社内では認証準備の指揮官なのですから」

猪越課長 「ISO認証の準備というと、どんなことをするのですか?」

私、佐川真一 「まずはISO認証とはなにかの説明、ISO規格要求の説明、規格要求と規定との対応、規定類の点検、記録類の点検、運用の点検、最終的には内部監査、マネジメントレビュー、まあ、そういったことがメインの流れになります。

実際にはそれぞれの段階で、規定の見直し……改定ですね、記録類の用紙様式の見直し……これも規定の改定となります。
つまらないことですが、そういったイベント対応の会議室の確保、出席者のスケジュール確保も大変なのですよ。審査のとき外部に見せちゃいけない製品があれば、生産日程の調整もいります。

それと並行して各部門の困りごと、悩みごとの相談対応があります。
計測器のトレーサビリティなど細かくなると、とんでもない地雷がありそうで心配です」

猪越課長 「佐川さんの話を聞くとまるで経験者のようですが……実際にISO認証の準備作業に入れば、疑問を解決できないで、悩んだり議論したりの時間がかかるでしょう」

私、佐川真一 「信じられないでしょうが、根拠のない自信があります。大丈夫、大船に乗ったつもりで任せなさい」
 (いや単に失敗や成功を経験して若返っただけだけどね)

猪越課長 「うれしい驚きですよ。ISO認証期待します」

私、佐川真一 「ご心配召されるな。
そっちは心配していませんが、気になるのは品証のパワーですね。
まずは村上さんの異動時期を知りたいですね。村上さんの異動はいつでしょうか?
もし3月以降なら、その前に認証の準備はスタートするでしょうから、仕事の分担が中途半端ですね。
異動が1月なら、即手伝いを1名補充してもらいたい。審査までの期間限定でも良いです」

猪越課長 「審査までの準備にいかほどの期間が必要ですか?」

私、佐川真一 「審査日程は我々だけでは決められません。まずシステムの運用期間が必要です。
認証機関によって違うかもしれませんが、最初は運用期間が6か月必要と言うでしょう。でもそれは難しいから、妥協した風を装い、3か月以上を要求すると思います」

猪越課長 「ウチの工場規定は何十年も前に制定されているよね? ならばいつでも審査を受けられるわけだ」

私、佐川真一 「そうではありません。3か月とか6か月というのは、規格を満たしたシステム、つまり規格適合した規定における運用期間です。彼らが見るのは文書、現場、記録ですが、その記録を3カ月要求するわけです。

現行の規定はISO規格に合わせてかなりの修正が必要でしょう。
先ほども言いましたが、品質保証課の担当する規定80本を見直すのに3月までかかるとして……実際には3月末までに終わらないでしょうけど……見直しが完了してから3カ月となると6月一杯、審査は7月以降になります。
もちろんクリティカルパスを考えて、なんとかそれをひと月短縮したいですが……

おっと、それは品質保証課だけではありませんよ。設計も、営業も、総務も、製造も、すべての部門で規定の確認と不備なところの補強が必要で、それをしてから規定で定める種々の記録の蓄積期間が3か月必要なわけです。
実際には、規定改定して運用すれば不具合があります。ほとんどの規定で見直しが必要となり、平均して2回は改定するでしょう。

猪越課長 「3カ月というのはすべて完璧になってからということかい?」

私、佐川真一 打ち合わせ いや、概ね形になって運用されている状態で3カ月と考えてよろしいです。
現状のように、定期校正漏れが15%もあっては全く様になっていませんが、校正期限漏れが1・2%で是正処置を一生懸命しているなら良いのではないですか。
あるいは内部監査の規定があって、方法や監査員の教育をしている段階を含めても良いと思います。ただ内部監査規定の制定が3カ月経っていなければ仕組みができてないとみられるでしょうね」

それと大事なことですが、認証機関によりますが本チャンの審査前に審査員がひとり来て、状況を見ると思います。審査のルールで審査に耐えられない組織を審査してはいけないのです。
事前点検で審査できる見込みがつけば、審査が行われます。
もちろん契約時に、いつ事前点検に来るか、いつ審査、本審査と呼ばれますが、その日程も決めることになります。

ともかく規定改定、運用期間を考慮すると最低でも半年は必要です。年初スタートとして、精いっぱい頑張って本審査が7月上旬でしょう。
認証機関によって細かいところは違うでしょうから、運用が何か月なら実行できるか、予備審査と本審査の流れを認証機関に確認が必要です」


注:正式な審査の前に事前に調査することについてだが、認証が始まった当時は認証機関によっても違ったし、時期によって必須とか禁止とか、朝三暮四のように変わった。
そんなことないなんて言わせない(笑)

猪越課長 「審査予定日、運用の期間、予約のこと……まずは認証機関との交渉ですね?」

私、佐川真一 「これから欧州に輸出している企業は、認証機関の門前に行列を作りますから、一刻も早く手付を入れて審査の予約をしないといけません。
猪越さんは人事異動前は動けないかもしれませんけど、営業に話して50万くらい確保して認証機関に手付けを打っておく必要があります。遅くても正月明けには認証機関をいくつか訪問して、良さそうなところに予約を入れないと、半年後に審査が受けられませんよ」

猪越課長 「私がここに異動するとはっきりさせないと、うかつなことはできないな」

私、佐川真一 「人事異動が1月付けでも、認証機関との交渉は今年中にはじめてほしいですね」

猪越課長 「いま日本で審査をしている認証機関はいくつあるの?」

私、佐川真一 「日系の認証機関はまだですかね。イギリスの認証機関の出先はいくつか仕事を開始してます。
まずは本社を活用しましょう。本社生産技術部かな、たぶんそこでISO審査対応の部署なり担当者なりがいるでしょう。捕まえて相談してみたらどうですか。

裏技ですが、一刻も争うならイギリスの駐在事務所に頼んで、向こうで審査契約をしてもらい審査員に日本に来てもらうのもありです。それなら日程の自由度はあるでしょう。問題は旅費がかさむこと、審査が英語になることですか。元駐在員だった方が営業にいるでしょう。それで審査は対応できますよ」

猪越課長 「なるほど、初回はイギリスから来てもらうにしても、二度目の審査のときは日本の事務所が動き出すでしょうからね。
大変参考になりました。佐川さんが詳しいのでたのもしいです。来た甲斐がありました」

握手


うそ800 本日のひとこと

佐川君の副工場長や人事課長に対する姿勢がけんか腰だって
西郷隆盛が言ったじゃないか。太鼓は強く叩くと大きな音がし、弱く叩くと小さな音が出るって。
突っかかる人にはそれなりに、紳士的な人にはそれなりに、それは当たり前だ。


鋭い方は、今日の副工場長や人事課長との話は、妙にリアルに思えたかもしれません。
たぶん誰かの経験をそのまま書いたのでしょう。
でも佐川君はやられっぱなしということはないよね。2倍返しなんて遠慮せずに10倍返しとか、裏返しとか



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注1
ISO9000/JISQ9000:2015 3.12.2是正処置の定義
「不適合の原因を除去し、再発を防止するための処置」

注2
消防法第44条8号 三十万円以下の罰金又は拘留に処する。

注3
消防法第13条3項

注4
Dictionary.comによるAssuranceの意味
・full confidence(自信たっぷり)
・freedom from timidity(内気よさようなら)
・impudence(厚かましさ)





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