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折り紙談義


「折り紙」とは

この言葉の意味は少なくとも3つあると思う。
ひとつは、素材としての紙。
ふたつ目は、それを使って折るという行為。
三つめは、完成した折り紙作品である。
例えば、「折り紙をするときには、折り紙の厚さや強さなどを選ぶことが大切で、それが折り紙の良し悪しを左右することになる」というわけである。

まあ、「折り紙では、用紙の厚さ強さを選ぶことが大切で、それが作品を出来上がりの良し悪しを..」などとより言葉を補っていえばよいのかもしれないが、一般にはあいまいに上記の3つの意味があるといってよいと思う。

同じように、愉しみも、素材を選ぶ時、折るとき、完成品を眺める時、それぞれに違った愉しみかたがあると思う。

しかし、紙でつくられたものはたくさんあるが、その中で折り紙という分野はどのように認識されるのだろうか?

何が「折り紙」か?

紙を使って何かを折れば、それは折り紙とはいえる。
しかし、切り刻んで折ったり貼ったりして作ったものが折り紙かというと、それは違うような気がする。もっと大きなジャンルとしてペーパークラフトといいたくなる。

それでは、折り紙には何らかのルールがあるのであろうか?

私事になるが、もう随分前の1980年のこと、雑誌に掲載されていた、前川淳さんの「悪魔」を見て非常に興味を惹かれ、1枚の正方形からこんなものが折れるのかということ、そして、どうしてこんなものを設計できるのかということに非常に驚いた。

苦労しながら、掲載してあった展開図(正方形に折り筋だけ描いてある図)をもとに悪魔を折った。何時間もかかった。それからも、この作品については時々思い出しては展開図だけで折っていた。

頭の隅にそんな複雑な折り紙への想いをしまいこんだまま四半世紀ほど経った2006年の年頭であったか、インターネットを検索していたときにふとしたことから折り紙技術が急速に進化していることを知った。早速、ネットで知った「おりがみはうす」に出かけて行き、すばらしい作品の展示に驚きつつ、いろいろな折り図の書籍を買い込んでいそいそと帰ってきた。
それからというもの、休日や夜などに時間を見つけ、折り図をたよりに複雑なものを中心に折った。このサイトに掲載した折り紙たちは、これまで折り溜めたそれらの代表的なものである。

ところで、折り紙には、材料となる紙の形や、枚数、また切り込みを入れるか否かなど、いろいろな要素がある。

その中で、私が特に興味をもっているのは不切正方である。これは、正方形の紙を切らずに折り上げるという手法だ。

超複雑系と呼ばれているものは殆どこれに従っていると思う。作品も超複雑だが、不切正方で作るからこそ、折り方も何百ステップというような超複雑なものになるのだ。たとえば、神谷哲史さんのエンシェントドラゴンなどが不切正方で作られているといわれても、知らない人は俄かに信じられるものではないだろう。また、裏の色を使い分けて折る手法があるが、これなどは特に印象的である。(例)
しかし、こういった作品が切ったり貼ったりして作られるならば、それほど面白くもないのではなかろうか?、つまり、何でもありのルールでは、いくら複雑であっても不思議でもなく驚きもないからである。

とはいえ、折り紙はこうでなければならないと言うものはない。結局は人の好き好きであってそれで楽しめればよいのであろう。


「不切正方」と複雑系

「不切正方」とは、折り紙を折る方法のひとつで、正方形の紙を切らずに作品を折り上げる方法である。

さらにもうひとつルールを加えるならば。基本的に、一回折るごとに平面に折りたたまれることが望ましいということ。これはどういうことかというと、折鶴を想起して見て欲しい。普通、折り紙は、一回ずつ最後近くまでペッタンコに折り畳んでいき、完成という間際に風船のように膨らませたりして立体的に整形する。
要するに、これもルールに加えたいというわけであるが、基本的にということである。厳格にしたらつまらなくもなる。それゆえ、そのルールでなくてはならないというわけではないし、厳密な基準を作っても意味がない。むしろ、これは、そうしなければ折りにくくて仕方がないという要請からくるものと理解したほうが良いといえる。あるいは一種の美学であるのかもしれない。

要は、複雑な作品を見て、こんな作品が一枚の紙から切り込みも入れることなしに折ることができるといったことによって、その意外性や驚きが増幅されるということであって、そのルールの中で面白さが最高潮になるということではないか。

たとえば、非常にデフォルメされ洗練された小さな折り紙作品が、多数の紙で作られていたり、切り込みがあったとしても、美しければそれで満足であって、それが不切正方で作られている必要はまったくない。そう考えると、不切正方というのは、複雑性と強く結びついているように思える。

さて、そんな不切正方だが、それでは、切らなければそれでよいのか?ということを少し考えて見よう。
理想的なことを言えば、切らないで全ての部分を有効に使うということが望まれる。それでないと切らないという意味がないからだ。しかし、たとえば、長方形の紙から折りたいがために正方形を長方形に折り畳んでそれを基本に折ったとしても、これは不切正方とはいえないだろう。二等辺直角三角形から折りたいからといって、正方形を三角に半分に折って、一方の半分は必要ないのだが二重に折りこもうというのであれば正方形から折る意味はない。最初から長方形や三角形に切り取ってから折ればよい。

とはいえ、本当に単純なものはともかくとして、少し複雑になれば、利用されずにたくし込まれる部分などは多かれ少なかれ生じてくる。それゆえ、厳密にいえば無駄のない完全な作品などはないかもしれない。かなり完全性の高いと見える作品、たとえば、前川さんの悪魔を例にとってみても、両手の指を5本折りだすために予め手となる部分の角を三角に折り込まねばならない。これらを、無駄と呼ぶかはおそらく些細なことであろう。あるいは、形状を丈夫にするための構造だなどと抗弁してもよいが、まあ、議論してもおもしろいかもしれないが、しかし、所詮はどうでもよいことなのだろうと思う。

こういった部分を少なくする努力は、自己満足としては意味深いと思うが、要するに、自分がどこで満足するか、どこで納得するかの問題に過ぎない。

関連して、もうひとつ触れておきたい作風がある。超複雑系のひとり北條高史さんである。この人の作品も目を瞠るものがあるが、特徴的なところは、彫像の金剛力士像などを写実的に折りあげるといったところである。それらの作品は、折り紙とはいえ、何と言うか、折り紙を材料に造形するといった印象が私にはある。誤解されると困るが、折り紙らしさからは抜け出た感があるのだ。これらの作品は完成に至る折り図を詳細に作成するのはおそらく困難である。基本形を折り出すところまでは折り図を描くことは可能であるが、途中からは造形に入ってしまうのである。ともあれ、折る自信もないので、私はまだ手を出せずにいる。



抽象化、簡素化vs.複雑化、写実化−−本当の折り紙の良さとは?

上記したように、私は複雑系に興味がある。それも不切正方。さらに写実的であればあるほど興味が掻き立てられるし、その作品を折って見たくなる。
これは、私の好みの問題だ。

たとえば、宮島登さんのコウモリであるが、これはコウモリの特徴をとても良く捉えたすばらしい作品である。格好も良いし、非常に良くできた完成品で私の好きな作品だ。しかし、一点気になるところがある。脚が綺麗に角として折りだされているのだ。なぜわたしがこの脚を気にするのか?

実は、こうもりの皮膜は、手、脚、そして尻尾の間にめいっぱい張られているので、脚は皮膜と離れていてはおかしいのだ。だから、原作の設計で、完全に脚が皮膜と関係なく突き出しているのが気になって仕方がないのである。そこで、美しさなどとは関係なく、ここでは脚を皮膜と一体化するように私は改造したくなる。その結果はここで紹介しているので比べて愉しんで欲しい。

折り紙は特徴を捉えていれば良いのであって、写実的である必要はない。むしろ、デフォルメに折り紙の良さがあるといっても過言ではない。例えば、このカニを参考にして見ていただきたい。
上の8本脚のカニがお好きか、脚をまとめて簡素化した折りの下のカニがお好きか、いろいろあると思う。私は両方好きだ。

8本脚のカニは写実的だ。しかし、ではどの種のカニであるのか?カニには脚の数が8本系のものと6本系のものがあるが、これは8本である。まあ、よく川原にいるアシハラガニなどに似ているといえよう。このカニは昔から言い伝えられてきたようだが、作者が何か特定のカニを意識したかどうかは分らない。
現代の複雑系の作品では、シオマネキであるとかガザミであるとか、それぞれの種の特徴を意識した作品がある。(昆虫でもの単なるクワガタムシでなく神谷さんはメタリフェルホソアカクワガタなどと種の名前を特定している。)
一方、下の写真の脚を簡素化したカニの方だが、これの足の本数は当然わからない。そんなことはどうでも良いのだ。カニというものを抽象化してあるのだから本数を最初から問題にしていない、あるいは穿って言えば本数を問題にしたくないのかもしれない。

もっとも、古からの折り紙においては、比較的単純なものしか折れなかったのか、その抽象化した形状に美しさを見出だしていたのか、それはわたしにはわからない。何ゆえこの形がカニに見えるのか?千羽鶴のツルの形が鶴に見えるのか?

それは感性の問題でもあり、実物を知っているかどうかにもよるだろう。
ただし、具象度と抽象度は紙の大きさと大きな関係があると私は思う。
小さな紙で複雑なものを折るのは難しい。もちろん逆は真ならずで、抽象度の高いものを大きな紙で折るのは容易であるが、でもそれは、似つかわしくないのだ。やはり、解像度の問題というか、デフォルメされたものは小さいもののほうが似あっていると私は思う。

私が特に好きな折り紙作家は、小松英夫さんだ。彼の折る動物には。いつも感心する。
生きているのだ。複雑とか写実的ということを離れて、オオカミは、吠えているし、キツネは動きだしそうな感じがするほどなのだ。ライオンは、見たとたんに、折りたくてたまらなくなった。


ところで、おもしろいことに、人々の中には、折り紙作品をみて、全くその形から意図した対象をを理解してくれないひとがいる。また、全く折り紙に対して全く興味を示さないひとも少なくはない。
がっかりすることもある。しかし、当たり前だが、それは、仕方がないし、それで良いのだ。
私は、とにかく、一枚の正方形から複雑なものが折りだされることに驚きを禁じえないし、興味をそそられて折ってみたくなるのだ。


「切りこむ」ことについて

古くから伝わっている連鶴の場合、幾つも繋がった鶴たちが切れ込みを入れずに出来ると思う人は少ないだろう。
それでも、凄いと思う。切れ込みをいれても凄いものは凄いのだ。手先の器用さを凄いと思い、どうやって折るのかの不思議を想う。
ところが、たとえば、この連鶴の鶴が2羽重なった作品「巣籠」(冒頭写真)や「妹背山」を不切正方で折る凄い人(S太郎さん)もいるのだ。

それでは、切れ込みを入れるのが邪道なのか、入れないのが邪道なのか?

もちろん、どちらも邪道ではない。もっとも、この場合は切れ込みを入れないほうがはるかに折り方が難しいと思う。それに、折り方が異なるので、できあがりの感じも異なっている。
要するに、当たり前のことであるが、切り込みがあってもなくても、折る人、見る人の好き好きだということだ。

上述したカニであるが、足を8本折りだしてあるカニは、最初の正方形に4本の切り込みをいれて折ってある。これとよく似た複雑なカニを切れ込みなどいれずに折っている方がおられる。笠原邦彦さんだ。
ともあれ、わたしは、不切正方・複雑系に興味は傾斜しているが、切り込みを入れたり、デフォルメしたカニたちも好きだ。