イラク攻撃に反対します(その4)

Pics: Paola Desiderio
London: 30 October 2002
(その1) (その2) (その3) (その4) (その5)
劣化ウラン弾廃絶!(→劣化ウラン(DU)とは)
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(23) 物言わぬことは「非暴力」?

連日「イラクの解放」について報道されていますが、現実にはアメリカはイラク北部で今まで以上に激しい爆撃を続けています。
あたりまえのことですが、イラクの人たちが心からアメリカによる力での解放を喜んでいるはずはありませんし、無政府状態の略奪が日常茶飯事になっている今、これからの不安は報道されているような歓喜の表情とは程遠いものでしょう。

アメリカが解放の象徴とした、フセイン大統領の像をひき倒している映像も、アメリカインディペンデンス紙によれば、周りを戦車でかこみ、戦車のそとで抗議している女性たちをアメリカ兵が追い払っている状況があるにもかかわらず、そのような場面は報道されていない、とのことです。

この戦争の大義名分を「テロリストの撲滅」から「大量破壊兵器の武装解除」・「圧政からのイラク民衆解放」とコロコロ変えてきているアメリカですが、だいたいアメリカに「圧政からの解放」を語る資格などあるとは思えません。
今まで、そして今でも、アジア・アフリカ・南米などでアメリカに都合の良い独裁政権とその圧政を支えてきているのは、アメリカそのものではありませんか。

我々はなんと良い人間なんだろう、と信じて疑わない顔のブッシュ大統領の顔を思い出す度、同じ?人間として顔をあげられないほどの恥ずかしさを感じるのは私だけではないと思います。

本当の被害がわかってくるのはこれからですし、被害はこれからも増加します。そうでなくても湾岸戦争からずっと続いている劣化ウランの放射能・経済封鎖による物資不足で苦しみつづけてきた人たちのうえに、さらにこの戦争によるたくさんの被害者がでるのです。

ティクリットでは今まで以上の爆撃や砲撃が予想されているといいます。
湾岸戦争のときのように、退路をふさいで皆殺しにするつもりなのでしょうか。

どのくらいの劣化ウラン弾を使うつもりでいるのでしょうか。
フセイン政権が機能しなくなった今、なぜこれ以上の犠牲をださなければならないのでしょうか。
敗戦が決定的となった日本に原爆を落としたように、イラクでもバンカーバスターやデイジーカッター、劣化ウラン弾などの大量破壊兵器を大量に投入するのでしょう。
戦後の人道援助といいますが、取り返しのつかない所業を重ねて、いったい国連も日本政府もどのような援助ができるというのでしょう。

一番の人道援助は、今すぐ戦争をやめさせることしかないことぐらい、わかりすぎるほどわかっているはずなのです。
すき放題に殺戮させておいて、思う存分悪魔の兵器を使わせておいて、その後で、なにが「人道援助」なのでしょう。

今回の戦争で劣化ウラン弾を使用したのか、という質問に対してブルックマン准将はこう答えています。
「使用はしたが、数々の実験により、安全だと確認して使っている。」
もとより「安全」な兵器など存在するわけがないのですが、5倍10倍と白血病等が多発しているイラクの子供たちの調査などには目をつぶっての発言でしょう。
小児病棟にはいっているこどもたちが、経済制裁による、物資や薬の不足で治療をうけることができず、ただ死ぬのを待っている状態であるということを、あれだけの情報量をもつアメリカが知らない、とでもいうのでしょうか。

「数々の実験」には日本も協力しています。
1995年から1996年にかけて、沖縄の鳥島で劣化ウラン弾を誤射した、というアメリカの事後報告にたいして、日本政府はきちんとした調査すらしていません。

日本は唯一の被爆国なのです。いいえ、もはや唯一ではなくなっています。
しかし、原爆を落とされた唯一の国として放射能被害の恐ろしさを世界に伝えることは、日本人だからこそできることではありませんか。

「力」に追随してなにも物言わぬことは「非暴力」ではありません。
「力」に追随し、迫害されている人たちを見てみぬふりをするのは、立派な「暴力」だと考えます。

2003.04.11 ヤスミン植月千春

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(24) 気が狂いそうになるほどの悲しみに

今のイラクの状況について、「戦争は確かに悲惨だと思うけど、イラクの人々がフセイン政権がたおれたことをあんなに喜んでるんだから、結局はよかったんじゃない?」・・というひとがたくさんいるのに、おどろかされるとともに力が抜けていくような思いです。

国境なき医師団の報告によれば、今のイラクは「かつて見たことがないような惨状」だということです。
今日現在の Stop the War Coalition HP写真には、血だらけで、足がつぶれてとれてしまってぼろきれのようになった少女をトラックからおろしている市民の姿があります。

これがイラクに住んで、生きているひとが、いやおうなく見ている日常茶飯事です。アメリカが、そして日本が支持してやっていることです。

インディペンデンス紙にも、「手をのばして戦車を追いかけている黒い服をきた女性。7人の家族全員を殺されて。」
そばに立っていたというだけで殺された女性。「申し訳ない。だけどあの女は邪魔だてしていたんだ。」とアメリカ兵は言う。

このような記事を見るたび、読むたびに、私は気が狂いそうになるほどの悲しみになんとか耐えようと、無意識にクルアーンを唱えています。

武器を持たないものに対する殺戮が日常になっているイラクを、メディアでしつこくながされる「解放されて喜ぶイラクにひとたち」の映像をみてホッとすることで、頭のすみにおいやってしまわないでください。
本当のイラクは今、阿鼻叫喚のなかにあるのだということを、私たちは戦争をとめられなかった責任とともに、逃げないで考えつづけなければなりません。

フセイン大統領たちの行方をさがすため、アメリカ軍がかれらの顔写真をトランプにして兵士たちに配っていました。
この戦争はゲームなのですか?
最後通知をつきつけたときも、ブッシュ大統領は「ゲームは終わりだ。」と言っていました。
数々の大量破壊兵器をもち、一方的な殺戮が可能なアメリカにとっては、自分たちの政策を推し進めていくためのゲームにすぎないのかもしれません。
アメリカは人の命でゲームをしているのです。

アメリカは今まで世界中で数々の戦争をおこしてきましたし、その姿勢は今もかわっていません。 戦略を考える側にとって民衆のひとりひとりは、あたたかい血がながれ、愛する家族がいる、じぶんたちと同じ人間であるとは、思われていません。単に効果的かどうかの材料でしかありません。

いままでの数え切れないほどの戦争の歴史の積み重ねは、これからの抑止力になるためのものでなければならないはずなのです。

でも、抑止力になりうるのは論理ではないことは、これまでの「言葉の羅列」が証明しています。
自分を大切にし、隣人を思いやるこころが大切なのだと考えます。

ヤー・スィーン章45節でクルアーンはいっています。
「あなたがたの前にあるもの、また後ろにあるものを畏れなさい」と。
過去と将来の間に浮かんでいる現在は一瞬一瞬過ぎ去っていきます。
人間には過去という、将来へのはっきりとした指針があり、きちんと過去の過ちを悔悟しさえすれば、進む方向を正すことができる、という神から与えられた恩恵についてもっと深く考えてみたいと思います。

2003.04.12 ヤスミン植月千春

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(25) こどもの墓地

先日テレビで、湾岸戦争以降何度もイラクを訪れて、劣化ウランの放射能被害の実態を調べている、伊藤政子さんというかたが撮った写真を紹介していました。
昨日紹介したような惨たらしいものではなく、笑っている天使のようなこどもたちの写真です。
この子たちはみんな白血病に冒されています、と伊藤さんはおっしゃっていました。
とても病気とは思えないような、大きな輝く瞳をきらきらさせた、本当にかわいらしいこどもたちでした。

ある2歳の女の子の手の甲にちいさな傷があるのをみて、アナウンサーが「この傷はなんですか?」とたずねました。 「点滴の跡です。この傷が化膿してこの子はこの写真を撮った2日後に亡くなりました。」と伊藤さんは答えたのです。

わたしは、一瞬呆然とし、心のなかで、「そんなこと!嘘でしょう?」と叫んでいました。
呆然としているあいだにも、伊藤さんは続けたのです。
「私はイラクで何百人というこどもたちに会いました。そのなかで今生きているのは3人です。」と。
「それでも、私が会ったのは、たった何百人かにすぎません。会っていないこどもたちも、毎日どんどん死んでいます。」

言葉をなくした私の脳裏にうかんできたのは、バグダードのもとはこどもたちの遊び場であった空き地に作られた「子どもたち専用の墓地」の映像でした。
だいたい子ども用にたくさんのお墓が必要とされる、ということ自体が気狂いじみています。

イラクでは、風邪をこじらせただけでも、経済制裁による医薬品などの不足から、治る病気も治すことができず、子供たちが毎日死んでいくのを医師たちはなすすべもなく見ているだけなのだ、とイラクから来た医師が言っていました。
これは、湾岸戦争が残したもので、今回の戦争が始まる前のことです。
今回の攻撃でも劣化ウランが大量に撃ちこまれまれたはずです。

今、破壊されたイラクの町々には、医薬品も麻酔もない、と報道されています。

歯の治療にすら、麻酔がないと耐えられない私です。
爆弾の破片で、傷だらけになったこどもたちが、痛みで泣き叫んでいるそばで、親はどうすることもできないのです。

頭に包帯を巻いた男の子に母親が、「私がかかわってあげたい」と泣いているのを、痛みに顔をゆがめながら、「ママ、泣かないで。」とその子が慰めているのをイラク・ピースチームのメンバーが目撃しています。


アメリカの政権を握っているひとたちにも、こどもはいるでしょう。
小泉首相や川口外相にもこどもがいるでしょう。
アメリカの兵士たちにも、こどもがいるでしょう。
なぜ? どうして、こんなに簡単なことがわからないのでしょう?

戦争は、汚れのない、無垢なこどもたちを、こんなにも無惨に殺すのです。
政治というものが、政を治めるものであるなら、真っ先に守られなければならないのは、こどもたちではありませんか。

伊藤さんの撮ったこどもたちは、神様のそばで楽しく笑っていることを私は信じています。
それでも、私は言わずにはいられません。

この世界で、もうこれ以上こどもたちを、醜い大人たちの欲望の犠牲にしないで!
こどもたちをこれ以上殺さないで!

2003.04.13 ヤスミン植月千春

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(26) 安心して眠れますか?

「イラクの現状を、イラクにいないあなたにわかるはずがないし、メディアが流している情報がアメリカに都合のよいものばかり、と現地にいないあなたがなぜ言えるのか。」という疑問をなげかけられました。

おっしゃるとおりです。その意味では、全世界の人間がイラクの戦火の下に行って確認する必要があります。イラクに行くことを断念していた私としては、今のところイラクの現状を知る術はメディアや個人的なつながりをとおしてかありませんし、アメリカの政策についても、私が信頼できると判断して得た知識のなかから推察するしかないわけです。間違っていることもあると思います。絶対正しいなどという考えは危険なことですし、間違いがあるかもしれないという危惧をもちながら考え行動することこそが大事だと私は考えています。

そもそも、私は政治について詳しく述べたいわけではありません。
イラクの現状についても、できることなら「解放されたイラク」の面だけ見て、少しでも安眠したいと思います。

それができないから、なぜ、こういったことが起きているのかを調べ、考え、訴えつづけているのです。
それに、たとえ、すべての情報源を絶ったとしても、すでに今戦争がある、という事実を知っている限りこの心の激しい痛みからのがれることはできません。

私にとって、どちらが正しいか、など言ってみればどうでもいいことなのです。
絶対的な正義というものがありますか?
宗教的にはありますが、考え方や立場によって解釈も違えば、価値観も違うのです。アメリカ政府が特定の人々の利益のために何万人もの老若男女を殺すことが正義だと考えるか、この世の中で暮らしているひとびとの命がひとつひとつかけがえも無いものであるとするという立場をとるかは、考え方や良心のおきかたの違いです。

私たちが置かれた状況で、どのように考えるかが私たちの義務であり、どのように振舞うかが私たちの責任なのです。少なくともこの惨状は、私にとって、攻撃を支持した日本政府について、日本人のひとりとして、わからないし関係ありませんなどといって済まされる問題ではありません。

正しさとか正義という言葉は、すでに泥にまみれてしまいました。

アメリカが攻撃に踏み切った時、話し合いではなく武力を手段として自分の目的を達成することを意識的に選んだわけです。実際、数々の情報から、今アメリカがやっていることが、虐殺以外のなにものでもないことは、あきらかですし、今までのやりかたを見ても、心をもった人間のやれることとはとても思えない、というのが正直なところです。

わたしが大切にしたいのは、アメリカ人もイラク人も日本人もみんな人間だということなのです。 このあたりまえのことが、あたりまえとして考えられていない、ということをもう一度心に刻んで欲しいのです。

戦争はひとを殺すだけでなく、神からあたえられた恩恵である大地をも破壊します。
物体としての人間や大地だけでなく、ひととひとの精神的な繋がりをも破壊します。
アメリカの戦争推進派のひとたちが、「我々が安心して眠れるのは、今イラクで戦っている兵士たちのおかげだ。」といっていました。
彼らはなんとおびえているように見えたことでしょう。
そのはずです。アメリカが今やっている殺戮のおかげで、これからどんどん追い詰められたひとたちが「テロリスト」になっていくかもしれない、という恐怖がいつも彼らを脅かしているだろうことは、容易に想像がつきますから。

彼らが安心して眠れるのは、自分たちがいじめぬいてきたひとたちが、同じ人間としての誇りと意思を放棄するか、さもなくば、そのひとたちを殲滅するときです。
今のイラクになんとなくその兆候を認めて、彼らは少しだけ安心しているのでしょう。
でもなんと大きな思い違いを彼らはしていることでしょう。

すべての人間が神によって創られたという点において、平等であると思います。人間が人間を力で思い通りにすることは、不可能なのだということを、彼らには知ってもらいたいと思います。これはわたしの強い願いです。

自分の都合の悪いことに目をつぶっていたら人間のこの世界での未来はないのだ、ということに気がつかなければ、彼らにとっては「安心して眠る」という人間としてあたりまえのことが、いつまでも願望に過ぎないものになるでしょう。

2003.04.14 ヤスミン植月千春

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(27) 選り好みなどしていられない

アメリカはフセイン政権の崩壊を宣言しました。
ということは、今イラクは政権をもつ国家として認められていない、ということです。
今までは「戦争」でしたが、これからのイラクのひとたちのアメリカに対する抵抗は、「テロ」とみなされるわけです。

鎌倉の内田さんという方からメールで大変興味深い論文をいただきました。アメリカ軍は、フセイン大統領などの行方を追う、という名目で、執拗にイラクの人々の家々を乱暴に家宅捜索しているそうです。そうやって、イラクでふつうに暮らしていたひとたちをわざわざ挑発している、と書いていらっしゃいます。
この状況は私にイスラエルがパレスチナのひとたちにやっていることを思い出させます。
いきなりやってきて理由もいわず家人をつれさり、拷問のすえに捨てる、ということが、日常茶飯事におこなわれているパレスチナ。

イラク戦争のかげにかくれて、おおきな報道もされませんでしたが、ヒューマン・シールドとして、ブルドーザーで家を破壊しにきたイスラエル兵の前にたちはだかった、23歳のアメリカ人女性レイチェルさんは、ブルドーザーに故意に轢き殺されました。
「現場には命を危険にさらす無責任なやり方で抗議していた一団がいた」とは、そのときのイスラエル軍の報道官の言葉です。
国家を破壊し後ろ盾をなくした人民を抑圧して、テロリストにしたてあげ、ますます不安定な状態をつくりあげる・・そういう構想を中東全体に広げていくつもりなのでしょうか。

「あなたはミュージシャンなのだから、政治に関わるのはよしなさい。」との忠告をたくさんもらいます。

私のことを考えてくださっての発言だと思います。

でも私は音楽を奏でる者として、言いたいのです。
音楽とは人間の喜びや悲しみや苦しみを表現する手段であるはずです。
この世界で不当に虐げられているひとたちの苦しみや悲しみに心をむけないで、今自分が享受している安易な生活のことだけ考えて奏でる音が心のこもった音になるとは、私にはとても思えないのです。
私は音楽を通じても、訴えたいのです。

今私が弾いているアラビアの琴、カーヌーンの音はアラビアの情景を運んでくれます。
憂いをふくんだその旋律は、イスラームの偉大な過去を思い起こさせ、また今現在のアラブの人たちの苦しみを伝えているようです。
ミュージシャンであるからこそ、今の苦しんでいるアラブを訴えていきたいのです。
もし世界の情勢に目を閉じたまま音を奏でるのであれば、私には音楽をやっていく資格はない、と考えます。

「この戦争は政治であって宗教とはなんの関係もないんだから、関わるのはよしなさい。」との忠告ももらいます。これも、私のことを考えてくださっての発言だと思います。

でも私は、この戦争が宗教と関係ないとは思っていません。

人間ひとりひとりは、神に創られ、平等です。それゆえ、この世界にある不平等は、大きな宗教的な課題であり、訴えつづけていかなければならないことでしょう。

わたしたち人間はこの世界で、神から一定の生を生きなさいという課題をあたえられています。
私たちには、この世界の喜びを享受するとともに、まわりに起こる出来事を洞察し判断し対処していくことが求められていると思います。

祈っていれば良いのだという人もいます。しかし、来世をよりよいものにするためには、現世での行動の積み重ねがなによりも大切だと思います。祈りは勿論一番大切なものですが、それだけでは不充分だと思っています。
自分に責任があることについては、「知らされる」のを待つのではなく、みずから「知る」ということが必要です。

宗教は生活そのものであり、政治や経済やあそびなどは生活の一部です。選り好みなどしていられないのです。
私にとって、今自分が属している世界の政治を判断することも、いやだと言っていられないのです。

2003.04.15 ヤスミン植月千春

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