ヨルダンにて

イラク・レポート(その1)

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劣化ウラン弾廃絶!(→劣化ウラン(DU)とは)
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イラクの現状

帰国当日(2003年5月17日)の報告会で今のイラクの現状をすこしお話させていただきました。
すくなくとも私の見たイラクは、ブッシュ大統領が誇らかに「イラクの人々は一歩一歩解放に近づいている」と語った言葉とは程遠いところにいます。
今彼らが食べている食料は戦前にサッダーム・フセインが配給した6ヶ月分の小麦粉・砂糖・粉ミルクなどです。
電気はアメリカ軍にコントロールされていて、地区によってはましですが、ある地区では一日に一時間しか供給されていません。
そのため、野菜・肉類の保管は、暑い国でもあり、とても難しい状態にあります。
サッダームが配給した食糧も他の生活必需品を買うために売られたり、略奪されたり、というケースも多く、いつまでもつかわかりません。
今あるストックがなくなったら、ほとんどの人たちが失業状態のイラクに於いて一体どういうことになるのでしょう。
考えただけでも体の力が抜けるような気持ちになります。

水はもともときちんとした浄化システムがないところに、供給量もコントロールされ、チョロチョロとしかでないところ、川の水を汲み、それを使っているところ、涌き水を使っているところなどさまざまですが、重金属で放射性物質である劣化ウランの汚染された水であることは、いずれの地区でも同様だと思われます。

無政府状態で行政が機能していないため、ゴミは町中にそのまま放置されています。
すでに蚊・蝿などは増えていますし、赤痢・コレラなどの伝染病がはやっています。
ゴミの量はどんどん増えていくわけですし、これからもっと暑くなるイラクでの非衛生化は必至です。

産油国であるイラクの人々は今、自分の車のガソリンを買うために、炎天下で2日も3日もすでにガソリンのなくなった車を押しながら、辛抱強くガソリンスタンドでの25リットルと制限されたガソリンを買う順番を待つのです。
そばでアメリカ軍の戦車が彼らを見張っています。
給油を待つ車の列
バグダードの街中にて(5/3)

憤りと無力感とでいっぱいになりながら、いくつガソリンスタンドを情けない思いで通りすぎたことでしょう。
タクシーの運転手に法外な運賃を請求されても文句が言えないような思いでした。

この混乱のなかで、要領の良いひとたちだけが、町で略奪などの手段で得た品物を泥棒市で売り、儲けています。
略奪を取り締まるべき警察はいないからです。
そして泥棒市はなんと米英軍によって守られているのです。

今イラクの人たちは、略奪したり、不当にひとを殺したりする自由を米英軍の手助けによって得たわけです。
そして米英軍は子供たちにポルノ雑誌をばらまき、性の解放という自由を教えようとしています。
これがアメリカのいう民主主義であり、自由を満喫する、ということのようです。

イラクの状況をもっと詳しく書きたいとは思うのですが、これから、すこしずつメモを見ながら、日付順に思い出してみようと思います。

2003.05.18 ヤスミン植月千春


ロシアからドバイへ

4月21日(月)
朝アエロフロートで成田を発つ。もしかしたらもう帰ってこられないかもしれない・・・という思いが頭をよぎる。家族の顔が浮かんできてやるせない。もう引き返したいような気持ちの自分を感じながら、ひたすらクルアーンを唱える。私はあれほど心配している家族やイスラームの兄弟・姉妹たちを説得して、なかば振りきったようなかたちでこのイラク行きを決めたのだ。もう引き返すことはできない。

モスクワではトランジットのため1泊しなければならない。18時にモスクワにつき、トランジットオフィスでホテルをとりたいと言うと、手続きは21時から、という。仕方なく時間をつぶして21時にもう一度オフィスに行くと「トランジットホテルはすでにいっぱいでホテルの予約はできない」と信じられない返事。これからハードな旅になるのに、始めから空港で夜を明かすのはどうしても嫌だった。

「なんとかしてください。他にホテルはないのですか」とすがるようにきく私と傍で疲れた顔で頬杖えをついているママジャミーラ(旅行中私はジャミーラさんをそう呼んでいた)に、対応した若い女性は「搭乗便は明日なのだからそれまでここで待てばいいでしょ。なぜ私があなたたちのためになんとかしなくてはならないの?」と石のように冷たい表情で言う。この人と話していてもどうにもならない、とあきらめて空港事務所までいって交渉する。結局これしかないといわれた一泊130ドルのホテルに泊まれることになった。
ホテルがあるのならどうして最初からそう教えてくれないのか、と不親切さに腹がたつ。
でも、とにかく空港で夜を明かさなくてすんでよかった、よかった・・というところ。

4月22日(火)
ドバイに着き、空港の免税店にThurayaの衛星携帯電話を見に行く。扱い方を質問したが、売ってる側も使い方をよく知らないらしく、ここでは設定ができないので、他の国に行ってから設定することになる・・・と訳のわからないことを言う。
スラーヤ衛星携帯電話
Thuraya携帯電話のドバイ免税店での値段は本体が820ドル。本体しか扱っていなくて、付属品やプリベイドカードは町のThurayaを扱っているお店を探して買わなければならない。
本体の値段も他のところで買うよりお買い得・・・らしいがやっぱり高いものは高い。
通話料金も1分間390Yenと高いのだが、イラクに入ったらこれしか日本への通信手段はないので選択の余地はない。
万一の場合も考え、結局ふたりともThurayaを買う。
使い方はまあ説明書を読めばわかるだろう・・と思っていたのだけれど、機械に弱い私たちにはこれがなかなかむずかしい。
結局アンマンのThurayaのスタッフに説明してもらうまで宝のもちぐされ・・・。

4月23日(水)
クウエートからイラク入りしたい、というママジャミーラの思いもあり、ヴィザをとりにドバイのクウェート大使館へ行く。が、ドバイでの保証人とクウェートでの受け入れ人の両方がいなければヴィザはだせない、と門前払いされてしまい、クウェートからのイラク入り・・・という私たちの夢はあっけなく崩れてしまった。

ママジャミーラが、以前ドバイに来たときたしかドバイからイラクのウムカスルまでの船便があった、と言うのでポート・アル・ラシッドに行く。たしかに船便はあるという。ウムカスルまで2日間の船旅だ。

ところが、戦争の前までは誰でも乗れたけれど今はイラク人しか乗れない、という。
それにあそこには戦争があるのにどうしてイラクなんかに行きたいのか?・・ときく。イラクの状況を知りたいから、と答えると、こわくないのか、と。そりゃこわいけどね・・・でも行きたいから・・という私たちに、イラクのヴィザをもっていれば大丈夫かもしれない。イラク大使館へ行って、とにかくヴィザをとってから様子をみれば、そのうちイラク人以外ものれるようになるかもしれないよ・・などと気の長いことを言う。

今日は水曜日なのだけれど、ドバイでは官公庁は木曜日・金曜日がお休みだという。2日待って土曜日に大使館に行くとしてもヴィザがその日にでるとは限らない。
そのうえヴィザがとれて、運良く船にのれて2日かけてウムカスルまで行けたとしても、アメリカの上陸許可が下りなければ、またドバイまで2日かけて戻ってこなくてはならない。
なにしろ今イラクはアメリカの占領下にあるのだ。
時期的にも気分的にもあまり楽しいペルシャ湾クルーズとはいえない。
いろいろ考えた末、イラクへの船旅はやはりあきらめることにする。



ドバイからアンマンへ

4月24日(木)
もしかしたら開いているかもしれない・・とイラク大使館にいってみるが、やはりお休み。
仕方がないので、ドバイ博物館へ行く。
ここには年代順にドバイの歴史を展示しているコーナーがあって、わかりやすい。
波止場での貿易の様子などが詳しく説明されていた。
屋内にいるとひんやりして気持ちいいのだけれど、外にでると目をあけていられないくらい紫外線が強い。
そのあとゴールド・スークで目の保養。
紫外線と同じ位(?)こちらもまぶしい。

まるごと野菜に喜ぶ2人(4/24)
以前大塚モスクにいらしたOmarさんがアラブ料理をごちそうしてくださった。
最初に、食べきれないほどの野菜がとても美しく飾られてでてきたのには驚いた。
キューリもトマトもピーマンもレモンもそのまままるごと飾られているのだ。

Omarさんが頼んでくださったドライバーが夕方6時までは時間がある、というので、ドバイの郊外ベッドタウンであるSharjahという町につれていってもらう。
芝生の上で携帯電話の説明書を読む(4/24)
緑のおおい美しい町で、ドバイよりずっと安全でもある、という。
噴水がある入り江の近くの公園で、芝生に寝転がってアイスクリームを食べる。
これからイラクへ入る道をさぐる私たちにとって、嵐の前の静けさ・・といったかんじの平和な時間。
インターネットカフェをみつけたので、日本にメールすることができた。
アイスクリームを食べたSharjah(4/24)


4月25日(金)
昨日Omarさんが近くの電話を扱っているお店でThurayaのセッティングをしてくれる、という情報をくださったので行ってみたが、あいにく金曜日でどこもお休み。
結局ドバイでThurayaを使うことはできなかった。
14時のエミレイツ航空でアンマンへ。
アンマンは7つの丘の町とよばれている。坂道と丘でできた町だ。
ここの住民の60パーセントがパレスチナ人だという。
空港からバスで40分くらいで、アブダリ・セルビス&バスターミナルに着く。
そこからタクシーに乗り換えてアンマン・パレスというホテルにおちつく。




アンマンからベイルートへ

4月26日(土)
アンマンは寒いくらいで、暑いドバイでひいた風邪が悪化しているみたい。なんだかゾクゾクする。
ドバイでは官公庁は木曜日・金曜日がお休みだったので、開いてるかな、と思いイラク大使館に行くが、ここアンマンでは金曜日・土曜日がお休みなのだそう。仕方がないので、またまた博物館へ。
遺跡の前で(4/26)
ここには、丘の上にアンマン城と考古学博物館があり、青銅器時代のエリコで発掘された頭骸骨や副葬品などが数多く展示されている。丘の上の強い風にいっせいになびいている野草がとてもきれいで、しばらくうっとりとみとれてしまった。
丘の上の野の花に囲まれて(4/26)
美しい紫色の野あざみや黄色の菜の花たちに埋もれるようにしてママジャミーラに写真をとってもらった。
野の花たちは私たちを優しく包んでエネルギーをくれた。

何軒も電話やさんを訪ねてやっとThuraya衛星電話の扱い方をきちんと説明してくれる人に出会えた。
これで日本に電話できる!・・ドキドキしながら電話をかけた。しばらくジーッという音がした後、呼び出し音が鳴る。つながった!!なつかしい家族の声。(まだ5日しかたっていないのに)電話は使えないかなー、なんて思っていただけに、嬉しさはひとしお。ひいてた風邪がどこかへいったような気がする。

4月27日(日)
アンマンの日本大使館へ行く。
戦争が終わり、人間の盾でイラク入りした日本人から被害者がでなかった、ということにひたすらほっとしている様子。
アル・ラシッド・ホテルの一角を借りて活動しているORHAの日本人職員はアメリカの装甲車に守ってもらって外出している、という。バグダードの街中は一日中銃声がしているので、こわくてでられる状態ではないということだそうだ。
食料品も不足しているし、ミネラルウォーターは6本20ドルになっている、という情報だった。
それに、バグダードにはいる道には盗賊がでるそうで、先日もイギリス人2人がタクシーでイラク入りする道中で、身ぐるみ剥がれた、という。防弾チョッキまでとられたそうですよ・・と大使館の方はおっしゃっていたけれど、私は心の中で、へえ〜、防弾チョッキまで着ていくのか・・となんだかそちらの方にあきれていた。
ともあれ、今のイラクがあまり安全なところでないことは確かなようだ。

4月28日(月)
今日こそは・・とイラク大使館へ行く。
イラクに入ろうとする何人かの日本人の方たちと会う。
ヴィザをだしてもらう為には、何の目的でイラクへ行くのか、
という理由と、所属団体の証明書がいるのだという。 彼らはちゃんとお手製の証明書を用意していた。(所属団体の印をよく見ると、十円玉の裏で押してあったのには笑ってしまった。みんな知恵をしぼってるんだなあ、とつくづく感心する)
親切に私たちの分の偽造証明書もくださったのだけれど、パスポートナンバーがプリントされていない、とはねられてしまった。
どうも私たちは、イラクのヴィザに縁がないらしい。
まあいいか、今日ベイルートに向かうのだから、ベイルートでヴィザとりましょう、ということで、結局アンマンでヴィザをとるのは時間切れ、とあきらめる。

以前日本にいらしたDarrasさんというご夫妻のお宅におじゃまし、おいしいモロヘイヤスープをごちそうになる。
モロヘイヤは今では日本でも人気のあるエジプト原産の野菜で、その昔クレオパトラも美と健康を保つため好んで食した、とか。
かるーいアラビア米の上にトロッとした山芋のようなスープをかけていただいたのだけれど、とてもおいしくて元気がでる。
ちょうど赤ちゃんが産まれて間もないところで、特別なお祝い事があるときだけ食べるお米のプディングのお菓子もつくってくださった。

おなかいっぱいになって、夜21時15分発のロイヤルヨルダン航空でベイルートにむかう。
夜中にもかかわらず、今回イラクに医薬品を運ぶという話をしてきたグループのNahhasさんご夫妻が空港までむかえにきてくださっていた。
奥さまのDiana は性格も体格もダイナミックな方で、真っ黒なアバーヤに身を包んでいても存在感がある。引越ししたばかりのアパルトマンをステキにコーディネートしていた。
このひとたちが医薬品をイラクに運ぶプランをもっているのかしら?と胸がときめく。

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