イラク・レポート(その4)

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劣化ウラン弾廃絶!(→劣化ウラン(DU)とは)
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バスラにて 

5月5日(月)

シェラトンホテル
気になっていたので、アリババに放火・略奪されたというシェラトンホテルを見に行く。
聞いていたとおり、中は真っ黒こげになっていて使いものにはならないようだ。(写真)
運河沿いの見晴らしの良い場所にあり、リゾートホテルとしてもすてきだっただろうに。

昨年の11月にママジャミーラが日本に招いたバスラ大学付属病院の医師、アル・アリ先生に会いに行く。
病院はたくさんのひとでごったがえしていた。
アリ医師の話では、バグダードの病院が機能していないため、イラク全土からたくさんの患者さんたちがこの病院に集まってくるのだそうだ。
病院の医師たちに、今なにが一番必要ですか?とたずねると、「まず、セキュリティーが必要です」との答え。
どこでも同じなのだ。みんなまず安全に生活できることを望んでいる。
そして水・医薬品・安全な食べ物・・・。
ここはガン専門病院なので、アリ医師が必要だといわれた医薬品10種類はすべてガン治療用で、他の病院で不足しているものは各病院によってちがってくる。

ある病院では抗生物質などの薬がまったくなく、ある病院では点滴を固定するための棒がなくて、ダンボールをつかっている、という。
どの病院でも、電気がきちんと供給されないため、冷蔵保存されなければならないワクチンなどは、冷蔵庫のなかで溶けたり固まったりしている状態だそうだ。
アリ医師にリストアップされた、ガン専用の医薬品は非常に高価で、とても民間NGOの手におえるものではない。

本来なら、アメリカが劣化ウラン弾によるガン発生率の異常増加をきちんと認めて責任をとるべきなのだ。もっとも認めるものなら、湾岸戦争以来の、特にここバスラでのガン発生率に顕著にあらわれているのだから、今回の爆撃にだって劣化ウラン弾は使えなかった筈なのだ。軍の上層部は劣化ウラン弾のおそろしさについては、十分すぎるほど認めた上で使っているのだから、これは十分戦犯に値する。イラク国民に謝罪し、保証しなければならない筈なのだ。イラク国民だけでなく、アフガニスタンにも、ボスニアにも、コソボにも、そして自国民にも・・・。


アリ医師とイマードさん
3年前に発病して入院している、バグダードからきた工科大学の学生のイマード・マーリムさんという男性と話す。(写真)
彼は「今自分にはなんの治療もしてもらえない。インターフェロンが欲しい!」とかすれた声で訴えた。そばで彼のお父さんが懇願するような顔で私たちを見ているのがつらかった。前途洋々たる若い命を放射能汚染は容赦なく奪っていく。

この病院で事務員として働いていたというワーヒダ・フムードさんは原因不明の病気にかかって苦しんでいる。
以下はワーヒダさんの病状の所見を訳したものの抜粋。

       診療所見

フムードさんは1994年6月に、顔の腫れ、脚の腫れ、関節痛、脊椎痛、及び、貧血の症状で来院した。検査によって、彼女は急性腎炎と尿毒症を伴ったSLEにかかっていることが判明した。
彼女は集中治療室にて治療を受けることが許され、腎臓機能が通常に戻るまで数ヶ月の多量のコルチコイドが処方され、徐々に減らして通常のステロイド服用量を保つ今に至っている。
病気の間中、フムードさんは再発性の上顎洞、副鼻腔炎や気管支・肺の炎症が進み、抗生物質で治療を受けていた。
彼女が副腎皮質ステロイドを処方されていたので、予防的にイソニコチン酸ヒドラジドを日に300 mg を投与された。実際、CTスキャンによって彼女は右中肺葉の気管支拡張のために咯血に至っていることが判明した。
病気の間、フムードさんは左臀部の痛みと歩行困難でも苦しんだ。
CTスキャン検査により、左大腿骨頭壊死になっており、これにより歩行が困難になっていることが判明した。
現在、彼女はプレドニゾロンを日に10mg、利尿薬フルセミドを隔日に、抗生物質を時々投与されている。

サルキス K.ストラク博士(F.R.C.P)
立会内科医
医学部長
サッダーム教育病院
バスラ大学

*原文は英文でかかれていたもので、医学を専門的に学んでいないため訳に間違いがあるかもしれません。

彼女は彼女の病気の原因が劣化ウランによるものだということを証明して欲しくて、この所見を私たちに託したのだと思われる。
必要とされる高価なガンの治療薬、劣化ウランと原因不明の病気との因果関係の証明。これはアメリカが責任をとってやらなければならないことなのだ。日本政府だって復興援助を率先してやるというのなら、こういうところへも目を向けて欲しい。

午前10時半、病院を後にして、サンドイッチとジュースを調達してバスに乗る。
1時間ほどでウム・カスルに着く。
港に行ってドバイ行きの船便があるかどうか調べたかったのだけれど、がっちりと軍隊に封鎖されていて入れない。
これではやっぱりドバイから船でこちら側に来たとしても、入れないで追い返されたのだろうな、と思う。

タクシーでクウェート国境をめざしてみる。
もしかしたら、イラク側からなら入れるかもしれない。
国境を守っていたクウェート兵は、クウェートに入りたい、という私たちに「なんとかしてあげたいが、クウェートのヴィザがなければクウェート領内に入れることはできない。ここから17キロほどはなれたアブダリという国境地点でならヴィザの発行が可能かもしれないから、いってみるといい。」という。
ここのクウェート兵が親切だったものだから、希望をもった私たちはアブダリに向かった。

ところが、アブダリではイギリス兵に剣もほろろの対応をされる。
「ここでヴィザなど発行してないし、今おまえたちが立っているところはクウェートだ。はやくイラクに帰れ」というのだ。

クウェート国境

1メートル歩けばイラクとクウェートという違う国になる、と信じきっているこのイギリス兵がおかしくもあり、あわれでもあった。
とにかくこの言葉で「へえ、私たち今クウェートにはいってるんだ」となんとなく気を良くした私は、クウェートとイラクにまたがって立ってみたいなあ、なんて冗談半分に考えていた。(写真)

植民地主義者たちが無理やり作ったこの「国境」のおかげで、一体どのくらいの人間の尊厳が無視され、どのくらいの人間が難民にされ、どのくらいの人間が今も人並みの生活すら手にいれられないでいるか、このイギリス兵たちはきっと考えたことなどないのだろう。ただ上司から国境警備を命じられたから守っているにすぎない。

国境があなたにとってそんなに大切なのか、国境にどんな意味があるのか、と尋ねてみたかったけれど、彼にそんな余裕はなさそうだった。「質問があるのだけど」と話しかける私に「ここはクウェートだ、イラクに帰ってからにしろ」という。
この答えに私は我慢できなくなって吹き出してしまった。
だってそうではないか。目と鼻の先にある地続きの場所をこうもはっきりと分けて考えられるほうが不思議だ。
1メートル歩いてイラク側に帰って「やっほー、質問があるんですけどー!」なんてクウェート側のイギリス兵に叫んでる自分の姿を想像しただけで、おかしくて涙がでそうになってしまった。

ママジャミーラが写真撮ってもいいかしら、とカメラを向けたら、もうかなりその場の雰囲気にイライラしていたらしいそのイギリス兵は、だめだ!というなりもっているライフル銃をこちらに構えた。
本気で怒っているみたいだったので、私たちもおとなしくひきさがってタクシーにもどった。
タクシーの運転手は生きたここちがしないような顔をしていた。
もしかしたらひどい目にあった経験があるのかもしれない。敢えてきかなかったけれど。

このタクシーでそのままバスラへ帰ろうか、と「バスラまでだといくら?」ときく私たちに、運転手は「100ドル」と答える。
おもわず「100ドル!?」とおうむ返しに2人で合唱してしまう。
バスラからウム・カスルまで来るときバスに乗ったのだけれど750イラクディナール(約80Yen)だったのだ。
同じ距離をいくらタクシーだからって、12000Yen・・とは。
クウェート国境で命が縮むような思いをさせちゃったからかなあ。
100ドルは冗談だったのかもしれないけれど、とにかく250ディナール札3枚でのれるバスの魅力を思い出した私たちは、バスでバスラに帰ることにする。

結局バスを選んでよかったのだ。
帰りのバスで親切なご夫婦と知り合い、そのご夫婦が彼らの家に招待してくださった。
「どうぞ、私たちの家でサラート(お祈り)をなさってください。」と誘ってくださったのだけれど、(イスラム教徒の私たちは日に5回お祈りをするのが義務とされている)サラートさせてくださっただけではなく、食事も振舞ってくださった。
なにしろどこも埃っぽいので、ひんやりした土でできたそのお宅の部屋でサラートできたのはありがたかった。

お祈りが終わると、ぞくぞくとその家の住人がでてきた。
これが半端ではない。
ご夫婦のお母さまに始まり、ご夫婦の子供たち、次男の夫婦とその子供たち、長女・次女・・と続き、一体誰が誰のこどもなのか訳がわからなくなってくる。
とにかくみんなでワイワイにぎやかに、焼いたお魚がのっかったアラビア米のピラフとサラダ、どこの家庭でもだされる、その家で焼いた平べったいパンをいただいた。
冷たい水をだしてくださったのだけれど、これは泥の味がした。
イラクにはちゃんとした浄化設備がない、ときいていたので、いつもミネラルウォーターを持ち歩いて飲んでいたのだけれど、せっかく冷やした水をだしてくださったのだから、とその水をいただいた。

食事のあと、ご夫婦のお母さまのお話をきいた。
彼女の一家は湾岸戦争の前、クウェートに住んでいたのだそうだ。
事情はよくわからなかったのだけれど、全財産をクウェートにおいたままイラクにきてそのまま帰れなくなってしまった。
ご主人をはやくに亡くして、彼女は大変な思いをしてこどもたちを女手ひとつで育てたのだそうだ。
今もクウェートに家があるはずだし親戚もいるのに、イラク人はクウェートに入れないの、と昔なさった数々の苦労が思い出されるらしく、話しながら苦労を刻み込んだお母さまの頬には涙がながれていた。
朝鮮半島の38度線にしてもそうだけれど、大国の身勝手な政策にもてあそばれているひとびとがここにもいる・・・。
ついいましがた見てきたイラクとクウェートの国境がまざまざと目に浮かんできた。

「泊まっていきなさい」といわれたのだけれど、明日早く出発しようと思っているので、とお断りして、暗くならないうちにおいとまする。
このあとスークに行ってみようね、と2人で話していたのだけれど、なんとこの家のご主人と長男が送ってくださる、という。
「私たちだけで大丈夫です」と何度も言ったのだけれど、女性だけで行かせるわけにはいかない、とばかりにさっさとタクシーをひろって一緒にのりこんでしまった。

あーあ、これでスークに行けない・・・もう陽がかたむいてきているし、これから2人でスークに行くなんて言ったら、やめなさい、というに決まっている。本当にイスラームの男性たちは心配性だ。
イスラームの男性にこんなにも大切に守られている女性たちがちょっぴり羨ましくもあった。
でも考えてみると、自由きままに女だけでこんな危ないところを旅している私たちみたいな女性は守られるに値しないわけだ。
それでも一旦自分の家に招いた客人は何があっても守ろうとするイスラームの教えに従っている彼らがとてもすてきに思えた。

途中ママジャミーラが写真を撮りたい、と止めてもらったところにユーカリのような樹が生えていた。
長男がちぎって指の間でもんだその樹のはっぱを差し出して、「これは薬になるんだ。お湯にいれて嗅ぐと喉にもいいし、飲むと胃腸にもいい」と言ってくださった。
彼らは私たちをホテルまで送り届けると、タクシー代まで払ってくださって振り向きもせず帰っていった。
彼らの後姿のなんと誇り高かったことか。おもわず「かっこいい・・・」とつぶやいてしまった。

わざわざ送り届けてくださった彼らの好意を無駄にしないため、私たちはその日スークに行くのをあきらめた。
私たちだってムスリマのはしくれなのだ。

夕方アル・アリ医師が訪ねてきてくださった。
アリ医師の自宅は戦禍を免れたのだけれど、ほんの500メートルはなれたご近所の一家は爆撃にあい、家族21人全員が亡くなったという。激しい爆撃に家が浮いたような感じがした、とおっしゃっていた。
アリ医師のこどもたちは、まだ爆撃の恐ろしさから精神的に回復できず、眠れない日々が続いているのだそうだ。
大きく報道されないけれども、イラクのひとたちは多かれ少なかれこのような経験をもっている。
これがアメリカでの出来事だったら、世界は大騒ぎするのだろうに。
また命の重さの大きな違いに心の底から怒りが湧いてくる。

夜走っていると車を強奪されるから、とアリ医師は早々に帰っていった。
きのうのタクシーの運転手が言っていたことはやっぱり本当のことらしい。

お昼をごちそうになってしまったので、朝ウム・カスルに行くのに調達したサンドイッチが残っていた。
炎天下を一日中持って歩いていたので、はさんだ野菜が傷んでいてちょっとおかしかったけれど、まあ大丈夫だろう、と気にも留めないで食べてしまった。
夜何度も停電になる。イラクに入ってからいつも持ち歩いているローソクが役に立つ。


ナスィーリア・ナジャフへ

5月6日(火)
きのうの夜食べた傷んだサンドイッチのせいかなんとなく2人ともおなかの調子がおかしい。
でも今日はナスィーリアとナジャフに行きたかったので、気にしないことにする。
小さな町ではドルが使えない、とママジャミーラがいうので、ホテルをチェックアウトした後バスラのセンターに行って両替する。
道端に止めたタクシーの中から、札束をもって歩く両替屋に声をかける。
ここで私たちは100ドル両替した。
こちらが渡すのは100ドル札たった1枚なのだけれど、イラクディナールにするとなんと250ディナール札800枚なのだ。

ごまかしていないかどうか私たちは必死で100枚ずつ束ねている筈の札束を数えた。
これが本当にいいかげんに束ねてあるのだ。
ある札束は98枚だったり、ひどいのは80枚だったり・・・。
101枚のもあったけれど。
長い時間かけて、やっと800枚数え上げてから100ドル札を1枚渡す。
両替屋はその100ドル札を太陽にすかしたりして、真剣に本物かどうか確かめていた。
そりゃそうだろうなあ、なにしろ800枚と1枚を交換するんだもの・・とどうしても枚数にこだわってしまう私。

10時半ごろ郊外行きのガレージに着き、ナスィーリア行きのバスにのる。
800枚も札束をもっていても、私たちはお札3・4枚でのれるバスの魅力から逃れられないのだった。

ナスィーリア行きのバスは、なんと冷房がきいていて、車内にはクルアーンの詠唱がながれている!
この2時間半の快適な旅はお札6枚(約160Yen)だった。

米軍の戦車の隊列とすれちがう。
彼らの隊列は一番前の戦車の銃口が正面を向いていて、2番目からは右、左というように交互に銃口をむけている。
最後尾の戦車の銃口は後ろ向きになっている。
どこから攻められてもいい、という態勢で移動しているのだろう。
占領地にいる彼らに安心なんてものはないのだろうから。
力ずくで占領しているのだから、たとえイラク人が友好的な顔を見せたとしても、それは表面的なもので、イラクのひとたちの心を占める深い悲しみと、占領者に対する憎しみをアメリカ兵たちは本能的に感じとっているにちがいない。

建物の残骸

午後1時、ナスィーリアに着く。
タクシーに乗り換えて、市内をひとまわりしてみる。
地元の青年が案内役をかってでてくれた。
ここは言葉もないほどすべてが目茶目茶に壊されている。(写真)
警察はもとより、病院、銀行、小学校にいたるまで破壊し尽くされている。
建物の残骸から、原型を想像することは不可能だった。

瓦礫の中にあった処方箋など
病院の跡に行ってみる。
みる影もなく爆撃され、瓦礫の中にカルテや処方箋がちらばっている。
震える手でちらばった処方箋などをいくつか拾って、持って帰ってきた。(写真)
ここにはたくさんの病人がいたはずなのだ、と考えて背筋が寒くなる。
なぜ病院まで爆撃しなければならなかったのか・・・。
イラクにきてあまりにもたくさんの悲惨な爆撃の跡を見た。
イラクのひとたちは否応なくこのなかで生きていかなければならないのだ。
安全もなく、十分な水もなく、薬もない、この破壊され尽くした瓦礫のなかで。

でも彼らは人間としての誇りを捨ててはいない。
少なくとも、ゆきずりの人間である私たちを暖かく受け入れるだけの心を持っている人たちに、私たちはたくさん出会った。
ここで案内役をかってでてくれた青年も、この瓦礫の山と化した町が激しい爆撃を受けた時の状況を私たちに語る時ですら、柔らかい表情を崩すことはなかった。

彼は自分の家がこの近くだから寄っていくように、と誘ってくれた。
ここナスィーリアにはホテルはないから、自分の家に是非泊まっていくように、とも言ってくれた。
青年といってもまだ10代だとおもわれる彼は、もうしっかり大人の風格だった。
今日のうちにナジャフまで行きたいから、と彼の申し出を断わると、彼は本当に残念そうだった。
タクシーを降りてその青年と別れる時、案内してくれたお礼に、といくらかの紙幣を渡そうとしたのだけれど、彼は受け取らず、ニコニコしながら手を振って行ってしまった。

破壊され尽くしたこの町で仕事などあるはずがないのに・・・。
何時間かを私たちのために町の案内のために費やしたのだ。
当然いくらか請求するのがあたりまえのことだった。
彼が自分の家に泊まっていくように、と申し出てくれた時、私は持ち歩いている800枚の札束のことが頭に浮かび、出会ったばかりの青年の家なんかに泊まったら、彼はともかく、家族がどんな人たちかわからないし、危ないかもしれない・・などと考えていた。

今私は自分の狭量な心を恥じていた。
もとよりナスィーリアに泊まるつもりはなかったけれども、私は彼を信じきることができなかったから、彼の家族を信じることもできなかったのではないか。
きれいな心をもった誇り高い人間を疑った自分がとても卑小に思えた。

午後2時半にナスィーリアからナジャフ行きのバスに乗る。
すでに疲れていたし朝からおなかの調子が良くなかったところに、今度のバスは冷房もなく、おまけにナスィーリア・ナジャフ間の道は破損がひどく、舗装されていない、でこぼこの道をガタガタと揺られること3時間半。
バスの中はうだるような暑さだし、かといって窓をあければひどい砂埃がはいってくる。
背中と胃がひどく痛くて、ほとんど失神状態みたいになって眠る。
でもバスの振動がよかったのか、ナジャフに着くころには背中と胃の痛みは大分マシになっていた。

イマーム・アリ・モスク

ナジャフはイスラームシーア派の聖地だ。
夕方6時ごろ、イマーム・アリ・モスク(写真)の近くの巡礼宿におちつく。
巡礼宿だから大変質素で、そのかわりひとり3ドルと安い。
私はスンニ派イスラームなのだけれども、まだ聖地マッカへ行ったことがない。
シーア派の聖地にこられた、というだけでなんだかとても嬉しい。

イマーム・アリ・モスクから流れるアザーン(礼拝への呼びかけ)に胸がときめいて、背中や胃の痛みなど完全にどこかへ行ってしまう。
ママジャミーラも同じ症状でバスの中では死んだように眠っていたのだけれど、やはり聖地の空気で甦っているようだった。
イマーム・アリ・モスクでマグリブ(夕方)の礼拝とイシャー(夜)の礼拝をすることができた。
ここでは女性はアバーヤ(黒い長衣)を着なければモスクに入ることはできない。
アバーヤのない女性のためには、モスクの入り口でアバーヤを貸し出している。

イマーム・アリの廟

金箔をふんだんに使ったモスクはものすごく立派なものだった。
モスクの中には、銀細工があちこちに施されたイマーム・アリの廟がある。(写真)
ここには、恍惚状態でイマーム・アリの廟にくちづけしているたくさんのひとたちの姿がある。
遠くから、一生に一度の巡礼をと、ここナジャフに来るシーア派イスラームのひとたちにしてみれば、今自分の目の前に偉大なるイマーム・アリが眠っている、と考えると廟の前を去りがたいものがあるのだろう。

お金のないたくさんのひとたちが、モスクの敷地内に寝泊りしていた。
私たちにとっての3ドルはなんでもないけれど、彼らにとっては、それでも大変な額なのだろう。
堅いベッドがふたつあるきりの質素な巡礼宿、などと言ってはいられない気がしてくる。
でも電気がこないので部屋のなかは暑くて、ローソクをもって暗い洗面所にいかなければならない。
やっぱりとうてい快適、とは言えない。
同じ階に泊まっている家族が廊下の端っこで携帯ガスバーナーを使って夕食を作っていた。

私たちは少しケバブを食べるが、あまり食欲がなく、あっさりした日本食がなつかしい。
この日は強行軍の後でもあり、疲れていたので、ファジュル(暁の礼拝)までぐっすり眠る。

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