イラク・レポート(その3)

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劣化ウラン弾廃絶!(→劣化ウラン(DU)とは)
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バグダードにて 5月2日(金)

午後3時、バグダードの町の中心部に着く。
夜中12時半にアンマンをでて、14時間以上経過している。
バグダードの町はどこも無惨な爆撃の跡で溢れていた。
破壊され、寸断された道路。
バンカーバスターなどで爆撃をうけたと思われる、中が焼けこげた多くの建物。(写真)
あちこちに真っ黒にやけただれてひっくり返ったトラックやバスがそのまま放置されている。(写真)
中が焼けこげた建物
真っ黒にやけただれたバス


私たちが泊まろうととしているホテルは、ママジャミーラが戦争中滞在していたところだそうで、ありがたいことにキッチンがついている。
戦禍を免れ、自家発電装置をもっているので電気もきている。
イラクでこんな快適なところに泊まれると思っていなかったので、夢のよう。
(結局1泊しかしなかったので、ほとんど夢のままだったのだけれど)
2人で泊まると80ドル・3人で泊まると100ドルと安くはないのだけれど、とにかくチェックインすることにする。
ベランダが南に面していて外は広い空き地なので、電波の状態がよさそう。
ここならThuraya衛星携帯電話が問題なく使えるかもしれない。
祈るような気持ちで、東京に電話してみる。
すこし時間がかかったけれど、ちゃんとつながった。

「無事着いた?よかった。」というほっとした家族の声をきいて、私も心がなごむ。
毎日新聞の五味記者がイラクから持ち出したものがアンマンの空港で爆発した、というニュースを家族から聞く。
イラクには不発弾や、爆弾の破片がどこにでもちらばっている、ということは私もきいていた。
これから私もそのような爆発物を目にする機会がたくさんあるのだろう。

家族が受け取っていたメールからの情報で、常岡さんがマジャリス・アル・バグダリアというホテルにいるということを伝えると、神崎さんは、会いに行ってみます、とでかけていった。
私たちは、ママジャミーラの知り合いの家族の無事をたしかめにでかけることにする。

タクシーをひろって、町の様子を見ながらドライバーのはなしをきく。
私たちが外国人であることを意識しながらの話ではあるのだろうけれど、自分たちがいかに苦労を強いられているかを話したがっているようだった。
「戦争を始めてからずっといまでも、アメリカ軍はイラク人を殺し続けている。サッダームもいやだったけれど、アメリカはもっといやだ。」と言う。
「アメリカは人間を愛さない。愛しているのは石油だけだ。」と。
私たちが日本人であるのを知ると「日本は私たちを助けようとしないけれど、それはアメリカがこわいからだと私たちは知っている。日本人が悪いとは思っていないよ。」と続けた。
「ありがとう、そう思ってくれて。」といいながら心中複雑な思いだった。

マンスールにあるモニュメント
サッダーム・フセインが最後に姿を見せた、といわれるマンスールというところを通る。(写真)
ひとのよさそうなドライバーのおじさんは「給油してっていいかな?ちょっと時間がかかるけど。10分くらいかな。」というので、10分くらいなら、と私たちも「どうぞ」と答えて、車はガソリンスタンドへ。
ところがこれがたいへんなことなのだった。
ガソリンスタンドにはいったとたん、給油を待つ夥しい数の車のドライバーたちの順番をめぐっての怒鳴りあいの渦にまきこまれたのだ。私たちを乗せたタクシーの運転手もひとが変わったように、外にでるやいなや怒鳴り始めた。

たいへんなところにきてしまった・・・と思ったけれども後のまつり。
忍耐強く車の中で待つこと30分。
だんだん陽が傾いてくる・・だいたい私たちがホテルをでたのが既に6時ごろだったのだから、もう7時ちかい。
バグダードはまだ明るいとはいえ、無事かどうかわからない知り合いを訪ねるのに夜になるのはいやだった。 やっと車のそばに帰ってきたおじさんに、「私たちは時間がないので、もう待てない。」と告げる。
おじさんは「うん、わかった。」と、さして未練もなく、給油はあきらめて車の渦から抜け出してくれた。

電話が通じない、というのは本当に不便なことだ。
「ご無事でしたか?では今から伺ってもよろしいでしょうか?」なんてアポイントメントをとることは、ここバグダードでは不可能なのだ。会いたい人の消息を知りたければ、その人の家に行ってみるしか手がない。

めざす住所を探し出すのがまた大変なことだった。
書いてある住所のメモを運転手に渡して行ってもらうのだけれど、どうもはっきりわからないらしいのだ。
運転手はあちこちでいろいろなひとにメモを見せて住所を聞き、めざす場所にだんだん近づいてはいるらしいのだけれど、なかなかたどりつけない。
この近くらしい、と思われる家のひとにメモを見せると、「この地区内だけなら電話が通じるから、電話してみてあげましょう。どうぞ私たちの家でお待ちください。」と親切に庭におかれたブランコの椅子に案内して飲み物までだしてくださった。
カラカラになった喉に冷たいジュースが本当においしい。
ナツメヤシや木々に囲まれた手入れの行き届いた庭は涼しげで、疲れきった私たちを優しくむかえてくれた。
「連絡がとれましたよ。今からむかえにきてくださるそうです。」とその家のひとが知らせてくれる。
お迎えを待っているあいだ、この家の奥さまが娘さんたちを丁寧にひとりひとり紹介してくださる。
イスラームでは、旅人をもてなすことはとても大切なこと、とされている。
だからというわけではないと思うけれども、私たちが今回旅している間、たくさんのひとたちが「是非うちにお泊まりなさい。」といってくださったし、食事や飲み物をごちそうしてくださるかたたちもすくなくなかった。

ママジャミーラの知り合いのかたが迎えにきてくださり、私たちは待たせていただいた家のかたたちにお礼をいって外にでた。
外で待っていた男性たちが見送ってくださった。

バグダード郊外にあるそのお宅は、ちかくまでアメリカ軍がせまってきた、ということだったけれどもなんとか戦禍を免れていた。
家の中にはいってまず真っ暗なのに驚いた。
電気は1日に1・2時間しかこないのだそうだ。
私たちがチェックインしたホテルとはだいぶ事情がちがう。

非常用携帯蛍光灯をつけ、食事をだしてくださった。
「本当にひどいことになってしまった。でもサッダーム政権によって、すべての家庭に6ヶ月分の食料が配給されていたので、なんとか食べていけます。」と薄暗い光の中でその家のかたたちは語った。
ムスリムの家庭はたいていそうなのだけれど、このうちも大家族で、夫婦とお母さん、それに長男のお嫁さんとこども、まだ結婚していない次男・長女・次女・三女の10人家族だった。
夕食をいただいて帰ろうとする私たちに「今晩はもう帰れないから、ここに泊まっていきなさい。」という。
えーっ、せっかく居心地の良いホテルに部屋をとってあるのに。あそこは電気もくるから冷房もあるし、疲れてもいるからホテルに帰ってゆっくり休みたい・・・というのが私の本音であったのだけれど、その家のご主人は「今バグダードは大変危険な状態だ。
米軍が夜7時から朝6時までの夜間外出禁止例をだしていて、このあいだもファジュルの礼拝(イスラームが暁に行う一日の始めの礼拝)にモスクに行った男たちが銃撃されて殺された。夜は略奪者たちの天下だし殺されてもいいなら今から帰るというのもいいが、私は車で送っていく勇気はない。必ず車を強奪されるだろうからね。」とおっしゃるのだ。

タクシーだって条件は同じだろうし、かといって歩いて帰れる距離ではない。
私たちに選択の余地はなかった。
その日はふたりとも次女の部屋に泊めてもらった。
電気がこないので冷房もないし、扇風機も動かない。
ロウソクの光がこれほどありがたいと思ったことはなかった。
消えないように気をつけてロウソクをもって、ゆっくり歩いて洗面所に行き、顔を洗って歯磨きをした。
一晩中かかってバグダードにたどりついたところで、汗もかいていたのでシャワーを浴びたかったけれども、ホテルに帰れない今となってはどうしようもない。
もうなんにも考えないで寝ることにした。
あの快適なホテルを見た後だから、電気もなく水もすこししかでないこの状況にがっかりしているけれど、もともとその覚悟でイラクに入ったのだ。
蚊がうるさかったので、暑かったけれども頭からすっぽりシーツをかぶって眠った。
これからイラクでどんな経験をすることになるのかしら、と考えながら。


バグダードにて 2 

5月3日(土)
朝9時にSさん(万一ご迷惑がかかることを考えて名前をだすのは控えさせていただきます)が車で送ってくださった。
途中ひどい悪臭のする場所をとおりかかる。
これは死体の臭いだろう、といわれて戦地にいることをひしひしと感じる。
まだ放置されたままの死体がたくさんあるのだという。

ファルージャでアメリカ軍が、デモをしていたイラク人に発砲して死者をだした、というニュースは私もきいていた。でも、ファルージャで様子を見てきたひとの話を聞くと何ともひどいものだった 。
アメリカ軍が小学校を占拠してしまって、こどもたちに教育を受けさせない。それどころか、なんと、こどもたちにポルノ雑誌を配っている、という。

怒った父母たちが抗議のデモを行ったところ、発砲された。それだけでなく、デモに参加していたひとたちが民家に逃げ込んだところを、家のなかまで追いかけていって射殺した、という。民家の壁には生々しい血の跡が多数残っている、ということだった。

きくだけで身の毛もよだつような話なのだが、今もファルージャではものものしい警備のアメリカ兵と抗議するイラク人のあいだに一触即発の空気が流れている、という。

一旦フラワーズランドホテルに帰る。
ここは冷房がきいていて気持ちがいい。
マジャリス・アル・バグダリアホテルに移ります、という神崎さんの置手紙がある。
でかけたまま帰ってこない私たちのこと、心配だったかしら?
なにしろ電話が通じないので、連絡方法がなかったのだ。(神崎さんごめんなさい)

パレスチナ・ホテル
すこし休んでからパレスチナホテルに行ってみる。(写真)
ここもアメリカ兵がものものしく警備している。
鉄条網をはりめぐらせた一角に出入り口があり、ホテルに出入りしようと思うとそこでアメリカ兵のチェックをうけなければならない。私たちが「ホテルのロビーでひとと待ち合わせをしている」というと「ひとりずつなら入ってもいい」という。

しかたがないので、ママジャミーラに先にはいって様子をみてきてもらう。
「知ってる人はだれもいない」とママジャミーラがすぐ帰ってきた。
私もとにかく一度様子をみたかったので、交代でロビーに行く。
そのうち「入ってもいいって。」とママジャミーラもまた入ってきた。
最初からふたりともいれてくれればいいのに。

銅像が引き倒された広場
パレスチナホテルの前の広場は、日本でもサッダーム・フセインの銅像が引き倒された映像が何度もテレビで流された場所だ。(写真)
ちなみに地元のイラク人によれば、あの像はサッダーム・フセインではなく、その前の大統領だ、ということだった。

少し歩いてお昼にドネルサンドを食べる。
夥しい蝿が発生していて、払っても払っても追いつかない。
しまいには払うのをあきらめてしまう。
町のあちこちにゴミが散乱しそのままになっている。
これでは蝿だけでなく、ネズミも増えそうだし、これからますます暑くなるこの町はどうなっていくんだろう、と不安になる。

今なにが欲しい?とイラクのひとたちに質問すると、答えは決まって「安全が欲しい」だった。
特に南のバスラのほうでは、ひとびとは切羽詰ったようにそう答えた。

治安の悪さは私たちゆきずりの者にとっては、一時的なことで、たいしたことではないかもしれないけれど、そこから逃げられず、ずっとそこに住まなければならない身になって考えると大変なことだ。
特に若い女性やこどもをもつ母親の不安は計り知れないものがある。
彼らは百戦錬磨のつわものではない。
彼女たち自身が危険にさらされているし、母親たちは愛しい小さな守るものたちを持つ弱い存在だ。

15歳の高校生の女の子にきいた話。戦争が終わってすぐのこと、ふたたび登校しはじめた女生徒たちの何人かがアメリカ兵に連れていかれたまま帰ってこない、という。
その話が伝わってから、こわがって誰ひとり登校できないどころか、家をでることさえできずにいる。
このようなことは、日本で報道されているだろうか。

衛生面にしても同じことで、私たちは日程をこなせばそこから逃げ出せる。
でも彼らのほとんどは生きている間ずっとそこで暮らすのだ。
私たちがお世話になったお宅の7箇月の赤ちゃんは原因不明の発疹が身体中にあらわれて苦しんでいた。
若いおとなしそうなお母さんは本当につらそうだった。

私にも、私の娘が肺炎になったとき、私の命にかえても守りたい、と思った経験がある。
原因がわからない病気にかかったこどもをもつ母親ほどあわれなものはない。
おとなはある程度免疫があるから、どんな環境にもある程度耐えられるけれど、こどもや病人にとっての非衛生的な環境は、我慢できるかどうか、という問題ではなく、生死にかかわることなのだ。

マジャリス・アル・バグダリアホテルに行ってみる。
常岡さんや神崎さん、ほかにも何人かの日本人のかたがたがいてなんだかなつかしい。
私たちのところにはキッチンがあるので、今夜はおにぎりとラーメンパーティーをしましょう、ということになり、ママジャミーラと私は用意のため一足さきにホテルをでる。

ところが・・キッチンはあるのだけれど、ガスがきていなかったのだ。
地下のシェルターに運び込んであった食料を部屋に運びあげているうちにみんなが来てしまった。

ホテルのレストランのキッチンを使わせてもらうことができ、おにぎりはつくれなかったけれど、ラーメンとヨルダンからもってきたハムをみんなで食べることができた。

私はレストランにおいてあった古いピアノを弾いた。
トルコでもチュニジアでもピアノ弾いたけれど、まさかイラクでピアノを弾くチャンスがあるとは思わなかった。

夜中に外で銃撃の音、時々ドン!という爆発音もきこえる。

でもシャワーを浴びてすっかり気持ち良くなった私はひさしぶりにぐっすり眠った。
思い返せば、このホテルでの一日はイラクで過ごした日々のなかで最上の時だった。
冷房があって、電気が明るくて、水がふんだんに使えて(なぜ地区によって、電気や水の供給量にこうも差があるのか、いまだに謎なのだけれど)近くに仲間がいる。

明日から南のバスラ・ナジャフ・ナスィーリア、もし可能ならクウェート国境まで行く予定。


バスラへ 

5月4日(日)
朝7時半にホテルをチェックアウトする。
ホテルのマネージャーらしい若い男性が「もう行ってしまうのか?」となごりおしそうに、造花のバラの花をくださった。
後でバグダードに戻ってきたときお世話になるS家の娘たちとこの男性の話で盛り上がることになる。
戦時下だって占領下だって、結婚前の若い女性たちにとって、やはり若い男性は興味の対象であるらしい。

大きな荷物をかかえてイラクを横断するのは大変だし危険なので、私たちはSさんのお宅に荷物を預かってもらいに行った。
朝早くから大荷物をもってとびこんできた私たちが、事情を話して「これからバスラに行きたいので荷物を預かって欲しい。」と言うと、Sさんは「やめなさい。あそこは地獄だ。」という。ん?どこかで聞いたなあ、このセリフ・・・と思い返してみる。
そう、ベイルートでイラクに行く、という私たちに、Dianaたちが言ったのとおんなじだ。
ベイルートのひとたちから見ると、イラク全体が地獄で、バグダードのひとたちから見ると、バスラは地獄・・ということになるらしい。

Sさんの言うことには、南に行くほど状況はひどいということらしい。
それなら余計いってみなくちゃ・・・という私たちに、Sさんは執拗に説得を繰り返す。
「だいたいあなたたちは女2人だ。守ってくれる男もなしにそんな危険なところに行くなどとんでもない。私は歳もとっているし、脚が悪いので、一緒に行ってあなたたちを守ることはできない。バグダードで十分イラクの様子はわかるではないか。しばらくここにいなさい。お願いだからそんな無謀なことはしないでくれ。」・・・と半分怒ったように言うSさんの剣幕に私たちは顔を見合わせて黙ってしまう。

しばらく飲み物をいただいたりしていたけれど、そばで心配そうに見ていた奥さまに「ありがとう。じゃあそろそろ行きます。」と言って立ちあがる。奥さまは「神さまがあなたたちをお守りくださいますように」と言ってくださった。
Sさんはあきれたように首をふりながら、それでも私たちにバスラ行きのタクシー発着所への行き方を教えてくれた。
「必ず帰ってくるんだよ。」と悲しそうに言うSさんの姿に私たちは胸がつまった。
「荷物預けないで、黙っていけばよかったね。」道々そう話しながら、なんだか私たちは父親を悲しませる放蕩娘のような心境だった。

とにかく身軽になって南部に旅立つことができるようになった私たちは、バスラ行きのタクシーのりばをめざした。
市内はどこもひどい渋滞だ。交通信号は動いていないし、警察はいない。交通ルールもなにもあったものではない上に、ほとんどのひとが失業状態のなか、他に仕事がなく、車を持っているひとは無免許タクシーに早代わりしているので、車の台数が膨れ上がっている。おまけにガソリンスタンドで給油を待つ車の列はおそろしいほどの数になっている。まわりの道路はあふれた車に占領されてしまい、通ることができないので、迂回しなければならない。
ほとんどの車はガソリンスタンドのはるか遠くからすでにガソリンがきれていて、ひとびとは忍耐強くすこしづつ自分の車を押している。後できいた話では、給油できるまでに2日か3日かかるそうだ。
1日中待って、夜は家へ帰って、また次の日に車のところまで通ってきて給油を待つのだという。
しかもそれだけ待っても25リットルという給油制限があるのだそうだ。
産油国のイラクでなんということだろう!
劣化ウランを含んだ砂埃りと、今にも壊れそうな古い車の群れの大渋滞による排気ガスがバグダード市内に充満している。とても息苦しい。

バスラ行きの乗合いタクシーに、やっとのれたのは、もう昼の11時ちかかった。
いままでバグダードで乗ったタクシーは、ドアがつぶれていたり、座席のソファーがなかったり、埃だらけだったり・・とさまざまで、フロントガラスに穴や、ひびのはいっていない車は稀だった。
アンマンからバグダード入りした時のタクシーのフロントガラスはひびだらけだった。
今回のタクシーは座席に埃が積もってはいたけれども、今までで一番マシだった。なによりもフロントガラスが割れていない!
これからバスラまでの長い道のりをいく私たちにとっては、少しでも快適な車で移動できることほどありがたいことはない。
それに、乗合いタクシーの運転手や一緒に乗り合わせた乗客は、時には私たちにとって頼もしいボディーガードでもある。
運転席と助手席の頼もしそうな2人のイラク人男性のおかげで、バスラまでの500キロの道のりを、私たちは安心してふかぶかと後部座席でくつろいでいることができた。

バグダード市街の渋滞を1時間かけて抜ける。途中悪名高い(?)どろぼう市のそばを通る。
どろぼう市では、アメリカ軍占領下のイラクで好き放題の略奪が許され、いたるところから略奪された品物がなんでも売られている。
東京のフリーマーケットの比ではない。
それこそおおきな家具から、貴金属から、古美術品、動物にいたるまで、なんでも堂々と売られている。
盗品のパスポートを買っていた人たちも何人かいた。
どろぼう市はアメリカ軍の戦車に守られ、町のどこよりも活気に満ちている。
ここでは盗んだものを自由に売りさばく権利を守ることが、アメリカの民主主義であるらしい。
地元のひとからの情報によれば、まずアメリカ兵が必要なものを略奪し、そのあと彼らがクウエートやヨルダンから連れてきたひとたちに略奪させた、ということだ。
それから、機を見た貧しいひとたちのなかにも略奪行為はひろがっていった、という。
要領の良いひとは、この混乱に乗じた公然の略奪で大儲けしているのだそうだ。
盗みをするのは悪いこと、というあたりまえの善悪の尺度を持つひとびとは、このアメリカのもたらした民主主義を見て、恥ずかしさに唇を噛んでいるという。

どこまでもまっ平な地平線が続くなか、ところどころに涌き水で小さな池ができている。
イラク南部には荒地と砂漠しかないと思っていたので、意外な気がした。
黒いアバーヤをすっぽりかぶった女性たちが汲んだ水を頭の上にのせて運んでいる。
旧約聖書の世界だ・・と胸がときめく。
預言者ヤアコーブ(ヤコブ)が羊に水を飲ませているラケルを見初めたのも、こういうところだったのだろうか・・・。太古のロマンに思いをめぐらせる。

ヨルダンでもイラクでも、こどもの頃に読んだ聖書の描写がいたるところで目に浮かんだ。
聖書を読むひとたちがこの地を訪れると、もっと聖書を身近に感じられるにちがいない。
チグリス・ユーフラテスを抱えるこの肥沃な大地での壮大な歴史、そのひとこまひとこまに刻み込まれる、尽きることのない絶対者の慈悲をこんなに身近に感じることのできる機会を与えられた幸運を神さまに感謝しながら、太古からの時の流れのなかに身をゆだねる。
言葉ではあらわせない幸せを感じて心が感謝の気持ちでいっぱいになる。

なぜひとにぎりの人間たちが世界を煽動して、この偉大な力にさからおうとするのだろう?
なぜ無理やりに歴史を書きかえようとするのだろう?
この雄大でもあり、過酷でもある自然を目にして、超越者にすべてをゆだねようという気持ちはごく自然なことに感じられるのだった。


アメリカ軍の戦車
アメリカ軍の戦車はいたるところで目にした。(写真)
ところどころに土を盛ったバリケードがあらわれ、そのなかにイラク軍の小さい戦車(アメリカ軍の戦車とイラク軍の戦車は段違いに大きさがちがう)がのりすてられている。
祖国を守ろうとするひとたちが、巨大な軍事力に踏みにじられていった痕を今私たちは遡っているのだ。
アメリカ軍の戦車

午後3時半ごろと4時半ごろ、検問所を通る。
アメリカ兵とイラク人両方でチェックしている。
5時ごろバスラ方面からバグダード方面に大量の物資を運ぶアメリカ軍の長い隊列とすれちがう。
コンテナなので、なにを運びこんでいるのかはわからない。


休憩したレストラン
途中一度食事のために休憩したけれど、一気にバスラまでとばしてきた。(写真)
バスラの郊外で給油する。
ここまでくると、バグダードでみたように給油を待つ長い行列はない。

6時、バスラに到着する。
郊外用のタクシーはここまでなので、市内行きのタクシーにのりかえてホテルに連れていってくれるよう頼む。
バスラでたいていのジャーナリストたちが宿泊するシェラトンホテルはアリババ(イラクのひとたちは略奪者をそう呼んでいた)に放火され全焼したという。
ここなら大丈夫だろう、とタクシーの運転手はアル・マルバッドというホテルに連れていってくれた。
TVと書かれたジャーナリストたちのチャーターした車が何台か止まっている。

7時すぎていてすでに陽が暮れはじめていたけれど、換金したかったしおなかもすいていたので、町にでかけてみた。
スーク(市場)に行ってみたけれどほとんど閉まっている。
ここバスラは英軍に占領されていて、イギリスの戦車が通りのつきあたりに陣取っている。
換金している時、いきなり停電して真っ暗になる。
通りにでると、おじさんが近づいてきて「女性だけで夜出歩くのはとても危険だ。はやく帰りなさい。」という。
ごもっともだと思い、素直に「ありがとう」と言ってタクシーにのった。
なにか食べ物が欲しかったので、帰る途中に見つけた屋台で果物を買った。
途中イギリス兵がイラク人の車を止めて、なにか尋問している現場をとおりすぎた。
「イギリス兵たちはいい車を没収して、自分たちのものにするんだ。」と、ここでもまた運転手が信じられないようなことを言う。
イラクにきてから信じられないようなことをたくさん聞いたので、もう慣れてしまったけれど。

この日は、果物とホテルのフロントに頼んで買ってきてもらったアイスクリームで夕食をすませる。

とうとうバスラまでくることができた。

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