イラク・レポート(その5)

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劣化ウラン弾廃絶!(→劣化ウラン(DU)とは)
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イマーム・アリ・モスク
ナジャフ・クーファ・カルバラー

5月7日(水)
朝4時、ファジュルの礼拝に行く。
まだ暗いけれど、すがすがしい朝の空気の中イマーム・アリ・モスクで礼拝して、モスクのまわりにいっぱいならんだ屋台のひとつでシャイ(小さなカップで飲む濃い紅茶)を飲む。
シャイ屋さんはまだ子供なのだけれど、とても上手に美味しいシャイを入れてくれる。

今日はナジャフ近郊のシーアの聖地、ク−ファとカルバラーに聖地めぐりも兼ねて被害状況を見に行く。


イマーム・アリの住んでいた家
ナジャフからタクシーで20分ほどで、イマーム・アリが預言者ムハンマド(彼に平安あれ)の愛娘ファーティマと暮らしていた家のあるクーファに着く。(写真)
質素なこじんまりした家なのだけれど、ここがイマーム・アリの生活の場だったのだと思うと、実際にこの地にきて、その時代に思いを馳せる機会を得ることができたことに、感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。
昔はクーファではなく、ネイとよばれていたそうだ。
それからカイイに変わり、今のクーファになった、という。
ネイの時代には、人口10万人の都市だったのだそうだけれど、今は人口1万人。

すぐそばにあるイマーム・アリが刺殺されたモスクに行く。
たくさんの信者が「ヤー・アリー!」と言ってモスクのドアやあらゆるところにくちづけしている。
シーア派の人たちはサジダ(頭を床につける礼)するとき、頭を床でなく聖地カルバラーの土を固めた小さな石につけて、お祈りしている。
お祈りの回数も1日5回でなく、3回だ。
でもこれはファジュル(暁の礼拝)、そしてズフル(お昼の礼拝)とアスル(午後の礼拝)を一緒にし、マグリブ(夕方の礼拝)とイシャー(夜の礼拝)を一緒にする、というふうにまとめただけで、3回しか礼拝しないというわけではないのだそうだ。

イラクはどこも灼熱の太陽に焼かれている。
石造りのモスクのなかでも、扇風機がたくさん回っている。
クーファのモスクの広い敷地の中に水のない池のように囲まれた一角がある。
聞くところによると、ここが預言者ヌーフ(ノア)の箱舟の出発地点なのだそうだ。
このクーファの地から、40日の間波にもまれ、そのあと150日間も水の上を漂い続けて、とうとう今のトルコのアララット山の頂上近くに辿りついた、という壮大な光景が頭をよぎる。

聖地の空気は、私にクルアーンや旧約聖書に記されているいろいろな場面をまざまざと描いてみせてくれた。
私は聖地巡り、モスク巡りをしようと思ってイラクにきたわけではなかったのだけれど、ここイラクはまさにクルアーンや聖書に記述された地であったから、ここでもまた偉大な神さまの御恵みを感じないわけにはいかなかった。


砲弾などがころがっている
清らかな気持ちになれたところだったけれど、爆撃の跡もきちんと見ておきたい。
ナジャフの市庁舎は跡形もないほど壊されている。
イラク軍の兵舎のあったあたりでは、激しい爆撃があったというけれど、今も真っ黒こげのトラックがそのまま放置され、まわりには、不発弾や手榴弾がころがっている。

集まってきた子供たちが「とっても危ないから、近づいちゃダメだよ」と教えてくれる。
子供たちは身近に恐ろしい例を知っているからこそこんな忠告ができるのかもしれない。
こんなものがイラク国内のあちらこちらでゴロゴロしているのだ。
片手や片足のない人をよく見かけるけれど、爆撃で手足をなくした人たちだけではなく、ここにころがっているような不発弾の犠牲者なのかもしれない。
こんなものをよその国にばらまいて、なんの責任もとらないどころか、その国の資源を盗っていくアメリカ。
イラクのひとびとの解放を声高らかに叫びながら、経済封鎖の時のほうがまだマシといえるような生活をイラク国民に強いているアメリカ。
テレビのニュースを見て、イラクが解放されたと本当に信じているすべての人たちに言いたい。
どうぞ自分の目でイラクの現状を見てから、判断してください、と。

ナジャフ郊外には広大なシーア派イスラームのお墓が広がっている。
ここには神がアードの民に遣わされた預言者フード、サムードの民に遣わされた預言者サーリフのお墓があった。

私はドゥンドゥルマと呼ばれるトルコのアイスクリームが大好きなのだけれど、ヨルダンやイラク、シリアのアイスクリームもとても美味しい。
暑い、ということもあるのだけれど、行く先々でアイスクリームを食べるのが楽しみだった。
ここナジャフでも美味しいアイスクリームを食べて、身体を涼しくしてからカルバラーに向かう。

サッダームの精鋭、とよばれたフェダーインの拠点を通る。
予想通りではあるけれど、見る影もない。

カルバラーにはイマーム・フセイン・モスクがある。
殉教したイマーム・フセインは今でもシーア派の信者の間では絶大な人気があるらしい。
イマーム・フセインの廟の前では、涙を流しながらクルアーンを唱えているひとがたくさんいた。
私にもこみあげてくるものがあって、クルアーンを唱えながら涙ぐんでいた。

イスラームでは、偶像崇拝は禁止されているのだけれど、シーア派はその禁止がゆるいのか、イマーム・アリ、イマーム・ハサン、イマーム・フセインの3人の肖像画がたくさん売られていた。
つい私も一枚欲しくなったほど、3人ともイスラームのハンサムというのはかくありなん、といった風情なのだ。
彫りの深い整った顔立ち、顎ひげは長くもなく短くもなく、その瞳には深い慈愛が溢れている。
スンニ派イマームにお叱りを受けそうだけれど、長いことうっとり見とれてしまった。
偶像崇拝禁止・・という意味が少しわかったような気がした。
あれだけの美男を前にしたら、今の私のようにみとれてしまって、讃美の対象が神さまではなく現世の人間・・というようなことは本当に起こりうるのかもしれない。
それほどの神々しさを3人のイマームの肖像画はもっていた。

心残りではあったけれど、買うのはやめた。

アッバース・モスクでサラート(礼拝)をする。(写真)

アッバース・モスク

カルバラーでの戦闘は3日間であったという。
ほかの地域と比べると、被害が少なくてすんでいるようだった。
イラクではどこでも見かける荷車をひくロバがこの町では、こころなしか元気そうに見えた。
ナジャフでは2週間も戦闘が続いたというから、イマーム・アリ・モスクの近辺だけはかろうじて戦禍を免れているけれども、被害は甚大なものだった。

明日はバグダードに帰る。
心配しているSさんの顔が浮かぶ。
「私たちが元気で帰れば、許してくれるよね。」などといいながらバスラ、ナスィーリア、ナジャフ、クーファ、カルバラー...と見てまわったのだ。無事に帰らなければ...。
イラク南部は特に危ない、とは日本にいる家族も知っているだろうから、こちらもひどく心配しているのだろうな・・とまた申し訳なくなる。
毎日のサラート(礼拝)のあと、神さまにたくさんお許しを願っている私なのだった。

この日もナジャフの巡礼宿に帰ったのだけれど、なんとなく様子がおかしい。
私たちが部屋に入ってから、下のフロントのほうがひどくさわがしくなった。
たくさんの人が出入りしているようだ。
きのうは、私たちともう一組くらいしか泊まっていなかったはずなのに。
ホテルのスタッフが何度もノックして、「用はないか?」と尋ねにくる。
「どうしたんだろう。きのうは何か用はないか、なんて聞きにはこなかったのに」と思ったけれど、さして気にすることもなくベッドに横になってうとうとしかけたころ、ママジャミーラがいったん着替えた部屋着から外出着に着替えている。

「ん?今からおでかけ?」と聞く私に「夜中すぎたらね、盗賊がくるから、すぐ逃げられるように着替えてこの札束はおいてドルだけ持って逃げましょう。なんとかモスクに駆け込んで、ファジュルがすんだらすぐ発てばいいから」という。
いっぺんに目が醒めてしまった私は、夕方下が騒がしかったことを思い出す。
「何度もここの従業員が様子見にきたでしょう?私たちはかっこうのカモだから」と言われてなるほど、と思う。

なにしろ中東やアフリカを何10カ国も旅してきたママジャミーラのこと。
用心するにこしたことはない、との判断なのだろう。
すぐ逃げられるよう着替えながら、でも今まで気をつけて持ち歩いてきたイラクディナールの札束を、そのままあきらめるのはもったいないなあ、と思ってしまう。

今まで習ってきた忍法の技をいろいろ思い起こしてみる。
護身術もたくさん習ったのだけれど、実戦に役立つかどうか。
とにかく、相手を驚かせてその間に逃げる、というのが鉄則なので、どうやっておどかそうか、と考える。
でも私たちはすでに逃げる準備ができているわけだから、ことはそんなにめんどうではなさそうだ。
札束を渡すのは、どうしても逃げられない、と思った場合のことにして、とりあえずミネラルウォーターを相手に投げつけることにして、フタをすぐとれる状態にしておいた。
中に入ってきたとたんに水をかけられれば、大抵の人はびっくりするだろうから、そのスキに引き倒して踏みつけて逃げれば、札束持ってても逃げられるかなあ・・相手が複数の場合はどうしよう・・なんて考えているうちに眠ってしまったらしい。

なんということだろう!目が醒めると外はもう明るかった。
不覚にも・・というような類いのものではない。
忍法の技を思い出しながら、私はどうやらぐっすり眠ってしまったのだった。

寝ずの番をしていたらしいママジャミーラが「良かったね。なにもなく無事朝を迎えられて」と心底安心したように言った。
なにかあったらママジャミーラを守って・・なんて思っていた筈の私はとても恥ずかしかった。
なんのことはない。
彼女は寝ないで私を守っていてくれたのだ。

とにかく何事もなくよかった、よかった、とファジュルをすませて、昨日と同じコースでシャイを飲んでからバグダードへ向かう。


バグダードへ

5月8日(木)
ファジュルの礼拝で無事を感謝した後、バグダードへむかう。
ナジャフ市内から、市外行きの車が集まるガレージへ、昨日見たシーア派イスラームの広大なお墓の中の道を抜けていく。
あちこちにイラク軍の旧式戦車が使われないままのこっている。

銅像が引き倒された広場

バスで約2時間。また渋滞の町バグダードにもどってくる。
Saudi Arabia からの援助物資を配給しているところを通る。
たくさんの人が並んで配給を待っている。
アル・ラシッド・ホテル近辺はものものしくアメリカ軍が守っていて、タクシーも入れない。
パレスチナホテル近くの銅像が引き倒された広場にも、戦車が配置されている。(写真)
爆撃を受けた大統領宮殿は、私に広島の原爆ドームを思いおこさせた。(写真)

爆撃を受けた大統領宮殿


最初に爆撃を受けた教育省の側を通る。
なぜ教育省やバグダード大学などが攻撃対象になるのか、はなはだ疑問だ。
アメリカはイラクの頭脳を破壊することも目的なのだろうか。
ファルージャの小学校占拠といい、イラク人から教育の機会を奪って、考えることのできない人間を作っていきたいのだろうか。

削り取られたサッダーム・フセインの顔
それにしても、主要なメディア・省庁などの建物はことごとく破壊されている。 国会まで破壊して、どうやって戦後復興するつもりなのだろう。 それにしても、あちこちにあるサッダーム・フセインの顔は、よくもここまで、と思うほどどれもていねいに削り取られている。(写真)

ママジャミーラと交流があった「イラク婦人同盟」事務所に行ってみるが、そこには男性ばかり。
男性たちが「婦人同盟」は解体した、と言う。
今は「Liberal Democratic Movement」というデモクラシー推進団体の事務所になったのだときかされた。
女性たちを追い出してデモクラシー推進なんて、なんだかうさんくさい気もしたけれど、とにかく話をきいてみたかった。

リーダーのムハンマドさんは38歳。
サッダームの圧政のために家族を亡くした、という彼は「私たちには、サッダームが良い指導者であった、とはとても言えない。彼は確かに6箇月分の食料などを全イラク人に配給したが、それは戦争に備えるためだったからだ。今私たちは民主主義国家を作るチャンスを手にしている。しかし今の私たちには何もない。教育をきちんと受けたリーダーも、軍隊も、省庁も。そしてアメリカにさからう自由も。
今の私たちは0以下のところにいるのだ。選ぶ権利はない。
だから、アメリカに協力せざるを得ない。しかし、私たちはイラク人としての誇りを持っている。
アメリカのシステムではない、イラク人の政党で国会を作っていくつもりだ。
アメリカは友人だがそれ以上ではない、といっておこう。今アメリカにさからえば潰されるのだからね。」と淡々と語った。

イスラーム国家を樹立するチャンスだ、とは考えられないのか、という私の質問に彼はこう答えた。

「あなたはイラクの状況をわかっていない。イラクにはひとくちにイスラームといっても、あなたがたのようなスンニ派もいれば、私たちのようなシーア派もいる。キリスト教徒もいれば、サービア教徒、拝火教徒などもいる。民族的に言っても、アラブ人もいればクルド人もいる。アルメニア人もいればトルキスタンもいる。
そんななかでイスラーム国家なんて理想をかかげていたら、国をまとめることなどできない。
私たちがめざすのは、政教分離の民主主義国家だ。ただしアメリカ型民主主義ではなく、我々の民主主義だ。
そのために、全ての国からの援助が欲しい。我々は日本にはとても期待している。」

インタヴューの後、彼らは親切に車で私たちをSさんの家まで送ってくださった。


バグダードにて

5月9日(金)
お世話になっているバグダードの土づくりの家で一日その家の3人の娘さんたちと話をしてすごす。
外ではしょっちゅう銃声がしているので、彼女たちは恐ろしくて外にはでられない。

15歳の末の娘さんは今高校生。
彼女は自分の体験をこう語った。

「戦争が始まって、ここは危ないからって郊外の親戚の家に疎開することになったの。
姉たちは先に親戚の家に行ってたのだけど、私はすこし遅れて兄と行くことになってた。
私たちが外にでたとき、爆撃にあったの。私のすぐ側に爆弾がおちてすごく怖かった。
兄が私を押し倒して伏せさせたから助かったけど、もし一人だったら死んでた。
爆撃は長い間続いて、すごく怖かった。
靴がぬげてしまったから、はだしで泣きながら走って逃げ惑った。今でも毎晩夢にみるの。
私の従兄弟は、略奪者に車を渡せ、といわれて断って銃殺された。
アメリカは自分たちがよそから連れてきた人たちを雇って略奪させてるのよ。
バグダードの人たちは、みんなそのことを知ってる。
良心のない人は一緒になって略奪するようになったけど、一般のイラク人たちは略奪なんてしてない。

戦争が終わった、って聞いて、学校に様子を見に行ったクラスメートがいたの。
そのひとたちをアメリカ軍が連れていったって聞いてから、みんな怖くて学校になんて行けなくなってる。
彼女たち、帰ってきていないのよ。
どうして私たち、こんな目に会わなくちゃならないの?
どうしてアメリカ人はこんなこと平気でさせる大統領を選んでるの?
私はブッシュが、犬のように死ねばいいと思ってる。
こんなことする人間は人間じゃない。悪魔だとしか思えない。」

このような悲痛な叫びが日本で報道されているのだろうか?
彼女は涙を流しながら、叫びながら訴えていた。
私も彼女の話を聞いている間中、涙がとまらなかった。
私が日本で爆撃を止めて!と叫んでいる時、彼女はその爆撃の下で逃げ惑っていたのだ。

私たちは抱き合って一緒に泣いたけれど、経験したものと経験しなかったものとの溝はうめられるものではない。
でもその情景は私の脳裏にまざまざと描かれた。

私が小学生のとき、始めて原爆ドームを見に行き、苦しみ悶えて死んでいった人たちの写真を見た。
そのあと長い間私は不眠症になった。
眠ろうとすると、閉じた瞼に地獄絵が浮かんできて、その人たちのうめき声まで聞こえてくるのだった。

私の娘と同じ年頃の多感なこの少女は、悪魔のなせるわざを身をもって体験させられたのだ。
彼女たちは、私の娘が日本で享受している水や電気や便利な生活を手にすることはできない。
今は教育の機会も奪われている。
精神的に、どちらが幸せであるかは誰にもわからないけれど、少なくとも戦争が彼女たちの望んでいる生活を奪いとってしまったことはあきらかだ。

一瞬にして全てを焼き尽くす原爆のかわりに、今はじわじわと劣化ウラン弾を使った、巧妙でもっと長い世代にわたる、より残酷な殺戮が平然と行われている。
彼女の目に憎しみの炎を見て、またここでも憎しみの増幅が繰り返される・・と絶望的な思いがした。
あたりまえだろう。なにも危害を加えたこともない相手に爆撃で殺されかけ、愛する従兄弟を殺され、友人を連れていかれ、すべてを支配され、外にでることすらかなわない生活を強いられているのだ。
父親の仕事も兄の仕事も奪われ、生活の保証も、自分の未来の保証もないのだ。

彼女は医者になりたくて、一生懸命勉強していた、という。
学校がいつ再開されるかわからない今、自分の描いてきた夢は一体なんだったのか、という。

彼女は、この思いを日本の人たちに伝えて欲しいと言った。
私は必ず伝えると約束した。

重い気持ちをひきずりながら2階にあがると、20歳になる次女が、私がバッグにつけて持って歩いている赤い造花のバラをめざとく見つけて、「どうしたの?それ」と聞く。
ほとんど忘れていたのだけれど、最初バグダードに入った時に泊まったホテルのマネージャーらしき男性がくれたものだった。
黒いビニールバッグに赤い花がよく映えたのでつけていたのだった。
彼女はその男性の話にひどく興味をおぼえたらしく、根掘り葉堀りききだそうとする。
私にとっては、ホテルのスタッフというだけなのだから、ちゃんとした記憶がない。
それなのに彼の背の高さはどれくらいだったか、目の色は?髪の色は?歳はいくつくらい?花をくれたとき情熱的だったか?・・と質問ぜめ。

年齢は20台前半だと思うけど、そういえば出会って2日めだったにもかかわらず、結婚したい・・なんて言ってたなあ、と言うともう大騒ぎ。
結婚が必要なのは、私なのよ。彼の写真を見せなさい、という。
そんなものもっているわけがない。
するとホテルにもう一度行って、彼の写真を撮ってきて、などと言い出す。
「そんなことしたら、ややこしくなるじゃない。」と私が言うとガッカリしている。

友達というと同性に決まっている彼女たちの生活パターンのなかでは男性は未知なる存在で、だからこそ会話の中だけでもこんなに楽しめるのだろうな、と日本での男も女もゴチャゴチャの友人関係を思い出しながら、なんだか彼女たちが羨ましくなった。

彼女たちにとって、結婚はとても神聖で大切なものだ。
彼女は自分の部屋に大切にしまってある新しい服や寝間着、宝石や下着にいたるまでのたくさんの結婚のための品物を次々と見せてくれた。
たくさんの衣装や下着や宝石を花嫁が持っていくと、結婚相手のお母さまが花嫁を尊敬して大切に扱ってくださるのだそうだ。
私たちから見るとなんだかゲンキンな話で、そんなものかなあ、と思うけれど、彼女たちにしてみれば重大事らしい。
事実のほどはわからないけれど、少なくとも彼女はそう信じていた。
結婚の話から彼女はお砂糖とレモンと水だけでつくる除毛剤を見せてくれた。
イラクの女性は結婚する時、身体中をこの自家製の除毛剤でピカピカにするのだそうだ。
結婚してからも、もちろん旦那さまのためにいつも綺麗でいなくちゃね、とはなんと涙ぐましい女心なのだろう。

「この自家製除毛剤(ちゃんと名前があったのだけれど、どうしても思い出せない)でヤスミンも綺麗にしてあげる」とめんどう見のいい彼女は除毛サロンよろしくさっそく仕事にかかったのだけれど、かつて薬品かぶれなど一度もしたことのない私の腕が、なんとかぶれて真っ赤になってしまった。
これには彼女も驚いて謝ったのだけれど、私の身体は化学薬品に慣れてしまって、自然のものにアレルギー反応を起こすようになってしまったのかしら、となんだかガッカリしたのだった。

この日は台所仕事を手伝っていたのだが、日本の食べ物について聞かれ、そういえば人間の盾の人たちがホテルに残していったソーメンを持ってきたことを思い出す。
さっそくこれを出してきてゆでた。3人娘に食べさせると、みんなまずそうな顔をしている。
次女にいたっては、喉をつまらせてむせていた。
昨日のナジャフでの盗賊?さわぎで、寝ずの番に疲れきったママジャミーラは一日中寝ていたのだけれど、ソーメンを作ったから、と起こして食べてもらう。
「美味しいわねえ。やっぱり日本食はいいわね」とつるつる美味しそうに食べるママジャミーラを、不思議そうに見つめる3人娘だった。

イラクで暮らす人たちは、私たちと同じ人間だ。
遠く離れた場所で暮らす宗教のちがう、理解し難い人たち、などと思わないで欲しい。
私たちが爆撃にあえば、泣きながら逃げ惑うにちがいない。
ステキな異性のことを考えれば、胸がときめくにちがいない。
同じ感情をもち、同じように喜び、悲しみ、悩み、愛し合う人間なのだ。

そのひとたちは、私たちが日本でなんの苦労もなく水を飲み、おなかいっぱい食べているときに、その水のために伝染病にかかり、食べ物のために争わなければならないのだ。

人間にとって忘れてはならないことは、相手を受け入れ、理解しようとすることだと思う。
相手からなにかを得ようと思うことなく、神さまから創られた同じ人間として相手を見ることのみが人間同士の絆を深めることができる。

イラクの人たちを理解することは、自分自身を理解することであると思う。
彼らに人間という同朋としてなにかできれば、それは自分自身に対してすることになると思う。
ちなみに私は、なにかしたい、と思ってイラクにいったのだけれど、私のほうが彼らに励まされ、もてなされ、元気をもらったのだ。
彼らは、私たちをもてなすことで、彼ら自身を幸せにしているのだった。

夜は長男と長女と遅くまでイスラームについて話す。
「今アラブのムスリムたちは、眠っているような状態で努力をしようとしない。
イラクがこんな目にあってしまうのも一つの例だけれど、これはイスラーム自身の責任だ」と長男。
「今私たちはきびしい試練を受けている。
イスラーム全体が目を醒ましてひとつにならなければ」と彼は真剣に訴えていた。

イスラームだけの問題ではない。
理性をもつ人間として、みんなが目を醒ます時期だと思う。

パレスチナにしても同じことが言えると思うけれど、この憎しみの連鎖をわざわざ作りだして利用している悪魔とでも言えるような力が、今の世界経済を意のままに操っていることに気づいている人はたくさんいると思う。
おかしいな、と思っている人はもっと多いだろう。
人々が今力を合わせて立ちあがらなければ、この勢力が世界を完全に掌握してしまう日はそんなに遠くないだろう。

Sさんの家の庭(スケッチ)
バグダードの夜はアラビアンナイトの世界だ。
電気がきていないことが、よけいその神秘さを増している。
暗闇に慣れてきた目に、月明かりの下おぼろげに映るアラビアの家々。
気温がやっと下がり、ひんやりした風にそよぐナツメヤシの木。
この美しい風景に平和が戻ってきますように、と心から祈った。

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