イラク・レポート(その6)

(その1) (その2) (その3) (その4) (その5) (その6) (その7)
劣化ウラン弾廃絶!(→劣化ウラン(DU)とは)
◆次(その7)のページに行く
モースルのスークにて
モースルへ

5月10日(土)
ファジュル(暁の礼拝)のあと、おにぎりを作って北部行きのタクシー・ターミナルへ。
北部への道は破壊されている部分が少なく快適なドライブだった。
時々イスラームシーア派の緑と赤の旗をなびかせたトラックとすれちがう。
トラックにはたくさんの男たちが乗っていて、手を振っていく。
これからバグダードに入って、政権造りに参加しようと思っている人たちらしい。

高い鉄塔がたくさん立っている発電所、続いて大規模な油田をとおる。
どちらも無傷でのこっている。
バグダード以南で、電気や石油の供給量が少ないのは何故なのだろう?

川向こうにサーマッラーのモスクのドームが銀色に光り輝いている。
帰りにはあそこに寄れるのだ、と胸がときめく。

こちらも南部で見たのと同じ旧式の小さな戦車が、土を盛った塹壕に残されたままだ。
この戦備で、本当にハイテク兵器を駆使するアメリカと戦うつもりだったのだろうか?
子供が巨人に向かっていくようなもので、ダーウード(ダヴィデ)がジャールート(ゴリアテ)に神さまの力で勝利したのとは訳がちがう。
湾岸戦争の時だって、無数のイラク戦車が劣化ウラン弾で破壊され焼き尽くされたのに対して、アメリカの戦車が壊さたのは同士討ちだけだったと思う。
バース党のトップは、この段違いの兵器について十分な知識があっただろうし、アメリカはイラク攻撃をするにあたってイラクに大量破壊兵器がないことなどわかっている上でその存在の確信を口実に使った。
今では、絶対に持っていて証拠まであるとアメリカが主張したイラクの大量破壊兵器について、あまり論じられていない。
サーダムフセインの生死や居場所について論じられることもない。
アフガニスタンを爆撃したときと全く同じように、戦争の必要ありきだけで攻撃開始の理由はどんどん変わっていき、終わった後にはその理由などあっというまに忘れ去られてしまう。

爆撃を始める理由などどうでも良かった、と誰が考えてもこれは明白ではないか。
結局戦争で苦しめられるのは、何時の場合も前線に送られ迎え撃つ兵士と爆撃をうける一般人だ。
日本では、ついこの間まで大騒ぎしていたのに、イラクのことなどもうすでに忘れかけている。
復興はとなえながら、亡くなったひとたちや傷ついたひとや病気のひとに思いを馳せているひとはほとんどいない。

また次の国に戦争をしかけられるまで、戦争についての記憶は彼方で待機しているということなのだろうか。

草原に羊の群れが現われては消えて行くのどかな風景が続く。
草原の中には、ぽつぽつとベドウィンの張る天幕。
彼らはずっと昔から、こういった天幕を張って羊たちを追い、転々と住居を変える遊牧生活をしている。

お昼すぎにモースルのガレージにつき、市内行きのタクシーに乗りかえる。
チグリス川に架かるニネヴェ橋はものすごい渋滞だ。
向こう岸には石造りの町が広がり、ところどころにモスクのミナレット(尖塔)が見える。

北部の被害状況は比較的マシだときいていたけれど、バース党本部・テレビ局・銀行などは爆撃をうけ破壊されている。
ただ、なぜか北部は電気がきていて、ホテルはお湯もでる。
給油を待つ車の列にはどの都市もかわりはない。
私たちを案内してくれたタクシーの運転手は、ガソリンを手にいれるのは不可能だから、ケラシン(灯油 )を使っている、と言っていた。
帰国してからひとに聞くと灯油で車は走らない、というのだけれど、ガソリンに混ぜるくらいなら走るのだろうか。
とにかく私たちのタクシーは、おそろしくゆっくりゆっくりだけれど、ちゃんと走っていた。

この運転手は「サーダムフセインは偉大な指導者だった。もし彼がいれば今わたしたちがこんなに苦しむことはなかっただろう。
湾岸戦争の後も大変ではあったけれど、サーダムがいたから、すぐ建て直しがきいたのだ。
給油に2日も3日も待ったり、電気がこなかったり、ということなどなかった。」とサーダムを称えた。

私たちが出会った人たちのサーダムに対する意見は二通りに分かれていた。
ひとつは、サーダムも嫌だったがアメリカはもっと嫌だ、という人たち。
それから、サーダムは偉大だったという人たち。
どちらにしろ言えるのは、アメリカの支配を望んでいる人などいない、ということだ。
アメリカが言っているようにイラクの人々の解放のためにこの戦争をしかけたのなら、一日も早く軍隊をひきあげ、爆撃で傷ついた人々に補償し、復興の資金援助をするべきだ。
人々の解放のための戦争などあったためしはない。
殺された人はかえってこないのだ。

町のあちこちにあるアメリカの戦車のまわりには、子供たちがガムやアイスクリームなどを売るために群がっている。
運転手はこどもたちの近くに車を止めると厳しい表情でなにか言った。
アラビア語だったのでよくわからなかったけれど、「米兵に媚びなど売るんじゃない。誇りをもちなさい」と叱ったように思われた。
彼の表情には、慈愛と誇りと悲しみが入り混じっていた。

ここモースルの郊外には、忘れ去られたようにかつての超大国アッシリア帝国の首都ニネヴェがある。
ユーヌス(ヨナ)が神からの啓示を伝えて人々が改悛したという、あのニネヴェだ。

崩れかけた城壁の中には、町の跡やくずれかけた城門などが広々とした草原のあちらこちらにたたずんでいる。
風になびく背の高い草ぐさや野あざみに、それらはうずもれるように何世紀もこうして歴史の忘却の中にいる。
ここがかつては人口10万とも12万ともいわれる活気溢れる都市だったなどと、誰が想像できるだろう。

石造りの荘厳なユーヌス(ヨナ)のモスクへ行く。
このモスクは小高い丘の上にあり、町中が一望に見渡せる。
あまりの美しさに息を呑む。
ここも略奪にあったけれど、すぐ修復されたのだと運転手が言っていた。

今回私はイラク入国を再優先したので、カメラを持たないで家を出た。
カメラなど持っていて、入国拒否されては・・と思ったからだ。
成田で待ち合わせていたママジャミーラがちゃんとビデオとデジタルカメラを持ってきているのを知り、とりあえず使い捨てカメラを買うことにした。
そういう事情で写真はわずかしかなく、使い捨てカメラのフィルムを使いきってしまったので、ニネヴェの遺跡やユーヌスのモスクからの景色を写真に残すことはできなかった。
そのかわりせっせとスケッチして一生懸命景色を脳裏に焼き付けたのだけれど、残念ながらここで映像をご紹介することはできない。

運転手は彼の敬愛するサーダムフセインの宮殿に連れていってくれた。
車を走らせながら、「日本の天皇は宮殿をもっているか」と聞く。
「皇居というのが宮殿ならもっているけど」と答えると、「広いか」と聞く。
「皇居はとても広い」というと「サーダムの宮殿も広い。どこの国でも皇帝や大統領は広い屋敷をもっている。あたりまえのことではないか。なぜ、サーダムフセインだけがこんなに非難されなければならなかったのか。」と本当に口惜しそうに言った。
「ここはとても美しかったけれど、全部壊されてしまったよ。もっともそのおかげで、前は入れなかったのが今は入れるようになったけどね」と言いながら、運転手は宮殿のまん前に車をつけてくれた。

なんだかドキドキしながら宮殿に入る。
中はよくもここまで、と思うほどめちゃめちゃに壊され、なにもない瓦礫だけの空間はガランとしていた。
壁に使われている石まで剥ぎ取られていた。
ママジャミーラが写真を撮っているのを見て、宮殿の中にいたらしい若者たちがどこにこんなにいたの?というほどたくさん集まってきた。
イラクの人たちは子供から大人にいたるまで、みんな写真を撮って欲しがる。
ママジャミーラが撮ってあげた写真を見て、(デジタルカメラはすぐその場でみられる)みんな大喜びしていた。

そのうち宮殿の一角で、彼らの持ち込んだカセットプレイヤーから流れる音楽に合わせてみんな踊りだした。
「これはクルディッシュダンスだよ」という。
めずらしそうに眺めている私に彼らは一緒に踊ろう、と誘う。
せっかくのチャンスだからと思い、手をつないだ踊りの列に私もいれてもらうと、みんなまたまた大喜び。
いろんなステップのダンスを続けて踊り、疲れを知らない。
なんにも考えないで、時の流れを感じながらただただ踊りのリズムに身をまかせているのは気持ちが良かった。

といっても、いつまでも踊っているわけにはいかないので、「ありがとう」と言って行こうとすると、彼らはコーラをごちそうしてくれた。
この若者たちの、爆撃で廃虚となった宮殿の中でなんと元気だったことか。
でもみんなサーダムが大好きだった、というのだった。
略奪者たちがやったことは本当にハラーム(イスラームでやってはいけないこと)だった、と悔しそうに言いながらそれでも宮殿の瓦礫の中で楽しそうにダンスを踊る若者たち。

私は私の知識で彼らの心理分析しようとするのをやめた。
彼らには忌まわしい爆撃の日々があった。
彼らの敬愛するサーダムの宮殿は爆撃され、略奪された。
爆撃の終わった今、彼らは宮殿の瓦礫の中で楽しそうに踊っている。
彼らにはほかになにができるだろう。

この若者たちは、敗戦にうちひしがれて卑屈になったり、自分の存在の意味を問うたりしてはいなかった。
あるがままの現実を受け入れ、その中に自分の居場所をちゃんと見つけているのだった。
どんな境遇にあっても笑いをわすれない、彼らの自然な偽りのない強さは、私にとっては驚嘆に値するものだった。

爆撃の危険もなく、物に溢れ、食べたいものを選んで食べることができる日本。
おそらく何不自由ない生活をしている、原宿で思い思いのコスチュームに身を包んで踊っている若者と、物質的に豊かな生活などのぞむべくもない、でも自然体で瓦礫の中で踊っている若者。
一体どちらが幸せなのだろう。
なんだか複雑な思いがずっと心に残っている。


ティクリット・サーマッラーへ

5月11日(日)
チグリス河畔の気持ちの良いホテルで朝5時まで眠った。
ファジュルの礼拝をすませて、ウェハースの朝食を食べてでかける。
モースル郊外は一面草原地帯。
イラクは自給自足できる農業国だと聞いていたけれど、しっかりうなずける。
タクシーの運転手にバグダードに帰るのだけれど、途中ティクリットとサーマッラーに寄っていきたい、と言うとOKというので、少し高かったけれど50ドルで話がついた。
ちなみに来る時は30ドルだった。

ところが、運転手はやたら急いで一路バグダードへ向かっているように見えた。
ティクリットに寄ってね、と念の為に確かめると「ティクリットはイラク軍が守っていて、行くと銃撃されて危険だから行けない」と言う。
どうしてイラク兵が守っているのだろう?
アメリカが制圧したと聞いていたけれどミスインフォメーションだったのだろうか?
まだティクリットにはサーダムが生きていて、共和国防衛隊が守ってるってこと?
・・・などといろいろ考えてみるが、考えれば考えるほど行って見るほうがはやいじゃないかと思う。
それにそんなの話がちがうじゃない、と私たちは気分が悪い。
「寄り道するから、50ドル払ったのだから危なくても行って。だいたいイラク軍がどうして私たちを攻撃するの」といくら言ってもだんまりを決め込む運転手。

とうとうバグダードとティクリットの分かれ道に来てしまった。
どうしよう、と焦る私。
突然ママジャミーラが前の運転手席のシートをバンバン叩きながら「ティクリット、ティクリット、ティクリット」と繰り返す。
時々ママジャミーラの底力と言おうか、押しには驚かされるのだけれど、この時も運転手がその迫力に押されたらしい。
停車してはくれなかったけれど、ティクリットを通っていってくれた。

サーダム宮殿と省庁は爆撃されていたけれど、そんなに被害を蒙っているようにはみえない。
他の都市ではイラク軍の軍服を着たイラク兵をみかけることはなかったけれど、ここでは軍服を着たイラク兵たちが堂々と道を歩いている。
やっぱりここは陥落してなかったのかしら、と思ったのもつかの間、アメリカ軍の戦車隊とすれちがう。
なんだかよくわからなくて狐につままれたような気がした。

これだけアメリカ軍の戦車が堂々と行き来しているということは、やはりティクリットは陥落しているのだろう。
でも何故イラク兵も堂々と軍服を着てアメリカ兵と一緒にここにいるのだろう?
よくわからないままタクシーはティクリットの町を通りすぎた。

もうひとつの目的地サーマッラーに向かう。
来るとき、遠くに光り輝いていたモスクのドームが見えていた所だ。
サーマッラーは全く爆撃を受けていなかった。
アッバース朝がこのあたりを支配していた時一時的に首都になっていたこともある活気溢れる町だ。

ママジャミーラの日本での知り合いに、サーマッラーに行ったら自分の家に是非寄ってください、といわれていた方がいる。
その人の家を訪ねようとしたのだけれど、電話網はどこの都市も同じで寸断されていて通じない。
ママジャミーラはその方の電話番号を知っているだけで、アドレスは知らない。
その方の名前と弁護士であることを運転手に伝えて、道にたむろしている人たちにきいてもらう。
そんなことでは到底見つけ出すことはできないだろうと思ったのだけれど、驚いたことに時間はかかったけれど、その方の家を見つけ出すことができた。
これはイスラームの国だから可能だったのだと思う。
なにしろちょっと道を尋ねると、わっとまわりの人が集まってきてああでもないこうでもない、と相談しているうちになんだか目的に辿りつく、というお国柄なのだ。

とにかくママジャミーラの知り合いの家には辿りついたが、今度は当人がいない。
今本人は遠くに行っている、という話だった。
でも本人がいようがいまいが、そんなことはお構いなしにもてなしてくれるのがイスラーム。
彼らの家でたっぷりの朝食をごちそうになってしまう。
タクシーの運転手はモースルを発った時からずっとガソリンが足りないと心配していたのだけれど、ここの家族にどうすればガソリンが手に入るかと相談していた。
なにしろガソリンを手に入れるには2日も3日も並ばなければならないのだから。
大抵のタクシーは前もって手に入れておいたガソリンを車に積んでいるのだけれど、このタクシーにはどうやらその予備のガソリンがないままバグダード行きを引き受けてしまっていたらしいのだ。
ちゃんと私たちをバグダードまで連れていってくれるかどうか不安になる。

ご家族を紹介され朝食をごちそうになってから私たちはその方の家をおいとました。
バグダードまでのガソリンが気になったが、運転手はいままでの心配そうな顔が嘘のようになんだかご機嫌になっている。
どうやら今お邪魔していた家の方からなにか書きつけのようなものをもらったらしい。
彼はガソリンスタンドに並んでいる列を横目に通りすぎ、なんと前から逆に入って列の一番前に車をつけたのだ。
これにはびっくりしてしまったけれど、運転手がその書きつけを見せると、スタンドの人たちは最初に彼のタクシーにガソリンをいれはじめた。

さっきお邪魔した家はサーマッラーでは名士なのだとママジャミーラから聞いて謎が解けた。
この運転手は、ガソリンのストックがないにもかかわらず仕事を引きうけたものだから、さっさと行けるところまで行ってしまいたかったのだ。
ティクリットによるのを嫌がった理由のひとつもそれだろう。
ところがサーマッラーの名士からもらった書き付けのおかげで、おもわぬことに苦労することなくガソリンが手にはいったのだった。

私は長々と並んでガソリンを待っている人たちの一番前に堂々と入っていってガソリンをいれてもらっていることに、ひどく恥ずかしい思いがした。
タクシーの中で小さくなって、外を見ることができなかった。
ところが、このタクシーの運転手はあろうことかこのチャンスを利用して、ストックのガソリンまでいくつか入れさせていた。
いつの時代も、この占領下のイラクですら、地元の名士というのは特権を持っているのだった。
私だって長々と並んでガソリンを待つのは嫌だったけれど、こういう特権を使うのも嫌だった。

上機嫌で出発した運転手と反対に私はとても気分が重かった。
それまでガソリンのことが心配で落ちかなかった運転手は、人が変わったように自身満々になって鼻歌を歌っている。
気持ちに余裕ができて、なるべく早くバグダードまで急いで行こうなどとは思わなくなっていた。
そしてあろうことか道端で売っている闇ガソリン売りのところにひやかしに寄って値段をきいては、自分は簡単に安いガソリンを手に入れたんだ、と自慢している。
何軒めかの冷やかしのとき我慢できなくなった私たちは「いい加減にして!」と運転手を怒鳴りつけた。

どこでも同じだろうけれど、人間としての誇りを失わないでずるいことをしない人間と、要領良く立ちまわって他人をだしぬくことに優越感を覚える人間がいる。
今この占領下のイラクで、こういうずるい人間だけが生き残っていくのだろうか、それではアメリカの思う壷ではないか、と思うとやりきれない思いだった。
バグダードにつくまで私たちは彼と口をきかなかった。

やっとバグダードに着いて、この運転手と別れられるというほっとした気持ちが私たちを油断させていた。
通りの向こうに止まって客待ちをしていた見栄えの良い車に、私たちは何も考えないで乗ってしまったのだった。
今度の運転手はニコニコと私たちのまわりたい所に連れていってくれたのだけれど、Sさんの家について支払いをしようと料金をきくとべらぼうな金額を言う。
聞き間違えたのかと耳を疑ったのだけれど、「今ガソリンがものすごく高いのだ・・・」等いろいろとまくしたてる運転手にはさっきのニコニコした表情はなく、その顔は怒気をおびていた。
私たちは今まで時々やってきたように、このくらいだろうと思われる額を渡してさっさと逃げようと思ったのだけれど、不覚にもママジャミーラのビデオなどを入れたキャリーバッグを助手席にのせているのをまだ出していなかった。
荷物をとろうとする私を見て、彼はさっと車に鍵をかけてしまった。
ビデオやパソコンの入った荷物をあきらめるわけにはいかない。

仕方なく交渉にはいったのだけれど、全く交渉にならない。
バグダード市内を何箇所かまわっただけなのに、彼は30ドルを要求したのだ。
30ドルといえば、私たちがバグダードからモースルに行ったのと同じ額だ。
市内だけとはいえ確かに1時間余りいろいろまわってもらったので、私たちは15ドル払おうと思っていたのだった。
ふつうに考えると2ドル位ですむ距離だった。
でも、なにを言っても運転手は「ガソリンが高い」の一転張りで話にならない。

仕方なくSさんに仲介をお願いすることにした。
Sさんは困り果てながら仲介に入ってくださったが、運転手は頑として主張を変えない。
私はこれ以上もめるのもSさんにもご迷惑だし、もう払ってしまおうと思ったのだけれど、ママジャミーラがこれもまた頑として「ノー!ガリー!(高い!)」と譲らない。
双方にらみ合っていたのだが、とうとうSさんが「わかった。私が払おう」・・・と言い出した。
これにはママジャミーラもあわててしまい、結局言い値を払うことになってしまった。

この後私たちがたっぷりSさんからお説教されたことは言うまでもない。
「だから言っただろう。特にあなたたちは女性2人だけで動いているのだから、タクシーに乗るときは最初に値段交渉をして高いと思ったら乗ってはいけない。なぜ最初に交渉しなかったのだ?今イラクではガソリンがひどく高くなっているし手にいれにくいのだからなおさらだ。彼が私に何と言ったかわかるかね?彼は私にナイフをもってこい、と言ったのだよ。」
えっ、決闘でもしようというつもりだったのかしら?・・とびっくりした私にSさんは続けた。
「彼はナイフで自分を刺して、警官にあなたたちが彼を殺したと訴えるといったのだ」

料金交渉決裂で気分が悪かった私たちではあったけれど、これには笑ってしまった。
もちろん運転手にとっては笑い事ではなかったのだろうけど、それにしてもナイフで自分を刺すという考えもさることながら、今イラクに警察はいないのだ。
それに殺された後、どうやって訴えるというのか・・・等々あまりにもめちゃめちゃな運転手の言葉を理解しているように真剣に語っているSさんを見ていると、その土地にはその土地の考え方があるのだろうな、と思えてきたのだった。

それにしてもママジャミーラの「ノー!ガリー!」はSさん一家の語り草になってしまったのだった。

◆次(その7)のページに行く

◆目次へ戻る


Top pageへ戻る