「中東の真珠」と呼ばれるだけあって、ベイルートはとても美しい町だ。
登りきった坂道から見下ろす見渡す限り真っ青な地中海はリゾート地の名に恥じない。
町並みはどこかパリに似ている。
フランスの植民地だったせいなのかもしれない。
1975年からの内戦状態の爪あとがまだ町のそこここに残っていて、むきだしのコンクリートのまま放置されている建物も数多くある。
今でもキリスト教徒とイスラム教徒は別々の街に住んでいて、あまり友好的な関係を結んでいるとはいいがたい。
ここでも列強の統治のツケを払わされているのを感じる。
レバノンのムスリマグループがイラクへ医薬品を運ぶ、というプランがある、ときいていたのだけれど、それはどうやら戦争が始まる前のことだったらしく、戦争が終わったばかりの混乱したイラクに医薬品を運び込むのは危険過ぎる、という話になっていた。
私たちがイラクのヴィザをレバノンでとるつもりだ、というのに答えて今レバノンでイラクのヴィザをとれる状態にはない、という。
うーん、やっぱりアンマンでとっておくべきだったのか・・・。
それどころか、今のイラクはジャハンナム(地獄)だから、行くのは見合わせた方がいい、と言う。
彼らは医薬品など救済物資を運ぶのは6ヶ月位様子を見てから・・ということにしたのだそうだ。
なんだか急に力が抜ける・・せっかくここまできたのに・・。
医薬品を運ぶといっても、戦前はイラク側の受け入れ先があったのだけれど、政府がなくなった今となっては、どこから手をつければよいのか・・という状態であるらしい。
私たちががっかりしているので、Dianaはイラクに入ろうとしている他のグループがあるらしいから、そちらを紹介しましょう、とさっそく連絡をとってくれた。
そのひとたちと話をしたのだけれど、どうもはっきりしないし、信用していいものかどうかもわからない。
シリアとイラクとの間の国境はまだ開いていない、ということだし、どうもイラクに入るとすれば、アンマンから私たち2人で行くしかなさそうだ。
ベイルートで活動しているムスリマの団体、Social Redemption SocietyのRanaという女性が彼女の車で市内を案内してくれた。
マクドナルドは武装警官にまもられていた。
マクドナルドを狙った爆破事件が続いているのだという。
ハンバーガー食べるのにも厳重なチェックをうけなければならないような時代をつくりだしているのは、ほかならぬアメリカではないか。テロを煽って世界中を危険地帯に陥れる覇権主義に改めて怒りを覚える。
Ranaが彼女のグループの事務所につれていってくれた。
建物の中に女性とこども専用の広いフロアーがある。
こどもたちは別室で遊んでいて、女性たちがゆっくり話ができるようになっている。
グループのメンバーとかわるがわる話をし、彼らの発行している月刊誌のインタヴューをうける。
パソコンがあったので、メールも出させてもらった。
彼女たちが近くのレバノンレストランでお昼をごちそうしてくれた。
帰り道は車で送ってくれたのだけれど、おもわぬハプニングがあった。
走っている車がいきなり激しくガタガタと揺れはじめ、びっくりしたRanaは道の端に停車した。
外にでてみると、右前のタイヤがパンクして、はずれかけている。
あまりに見事なパンクなので、みんな一瞬呆然とし吹き出してしまう。
ママジャミーラがひとこと、「私が食べ過ぎたからかしら?」
警官や通りがかりの男性の協力で、電話で呼んだ修理工の出る幕はなかった。
換えたタイヤで無事Dianaの家へ帰ってくつろぐ。
私は運転するけれど、いまだタイヤがパンクした経験がない。
ベイルートでは生まれてはじめてタイヤ交換の様子をみることができた。
4月30日(水)
レバノンのグループがうごかない、となればレバノンにいる理由はない。
私たちは朝はやく、乗合いタクシーでシリアのダマスクスにむかった。
ダマスクスでまたタクシーを乗り換えて、ヨルダンのイルビットという町へ。
今日はイルビットに泊まろうか・・なんて話していたのだけれど、イルビット郊外で安い乗合いマイクロバスの便があったので、それに乗ってアンマンへ・・というややこしい経路をたどる。
それというのも、ダマスクスで2台タクシーが止まっていて、1台はアンマン行き、もう1台はイルビット行きだったのだけれど、アンマン行きは30ドル、イルビット行きは20ドルだったので、アンマン行きも20ドルにして・・と交渉したのだけれど、ダメだという。じゃあいいよ、安いほうで・・ということで、イルビット行きにのったのだった。
イルビットからアンマンまでの乗合いマイクロバスは1JD(ヨルダンディナール=150Yen位)だったので、やっぱりお得・・だった、とはいえる。
ともあれまたアンマンに帰ってきた私たちは、今回は少しいいホテルに泊まって休息してからイラクに入ろうね、ということで、Best Western Arwad Hotel に泊まる。
前泊まったアンマンパレスは、誰も泊まっていなくて、ゴーストタウンみたいだったので。
いよいよ単独でイラクに入る覚悟を決めなければならない。
ドバイでも、アンマンでも、レバノンでも、みんなに口を揃えて「危険だからやめなさい、あそこは地獄だ。」といわれてきたのだ。
ママジャミーラは「今イラクに行くのは気狂い沙汰だし、死にに行くようなものだ。どこから弾がとんでくるかわからないような状態なんだから。」と言い始めた。
そして「ヤスミンさんは日本でコンサートしたり、やれることが他にたくさんあるし、娘さんも成人していないし、レバノンのグループがうごかない今となっては、医薬品も運べないし、ここまでにしてイラクには行かないほうがいいと思うの。」といいだす。
「戦争前は受け入れ先があったけど、今は政府がないんだから、受け手もないし何が起こるかわからない・・」と心底心配そう。
確かに今のイラクは治安の悪さ・伝染病・電気や水の不便さなど、なにをとっても行かないほうがいいに決まっている。
でも私は、そんなことは承知した上で、イラクの人たちと会って、たとえすこしでも一緒に生活して、話をしたい、と思ってここまできたのだ。今更まわりの国の人たちに危ない、と言われたからって、イラクに入らないまま帰りたくはない。
ママジャミーラが、心配して私の帰りを待っているだろう家族のことなどを、深く考えてくださっているのはとてもありがたかったけれど、今帰国することなど考えられなかった。
「私に危険なものは、ママジャミーラにとっても危険なんだから」・・などと私は話を濁した。
5月1日(木)
イラク大使館にいくが、祝日でまたまたお休み。
一体ここの大使館はいつ仕事をしているのか、と思う。
もっとも政府がないのだからお給料もでないのだろうし、労働意欲なんてでるわけないだろうな、とは思ったけれど。
今日は木曜日で、アンマンでは金曜日・土曜日がお休みなのだから、ヴィザをとろうと思えば、日曜日まで3日も待たなければならない。
「どうしよう、パレスチナにでもいってこようか」・・などと話しながら歩いていて、そういえば、ムスリムのジャーナリストのシャーミル常岡さんがメールをくださっていて、確かインターコンチネンタルホテルに泊まっていらっしゃる、と家族からメールがはいっていたことを思い出す。ご連絡ください、というメッセージをいただいていたのだけれど、あんまりゴチャゴチャ動いていたので、すっかり忘れていた。(常岡さんごめんなさい)
インターコンチネンタルホテルはこのすぐ近くだ。
じゃあ行ってみましょう、ということでインターコンチネンタルホテルに行ってみる。
残念ながら、常岡さんたちは一足ちがいで昨日チェックアウトしていた。
豪華なホテルで居心地がいいので、ロビーのソファでのんびりしていると、人間の盾でイラク入りしていた神崎さんが通りかかった。
戦争中の爆撃を一緒に経験したママジャミーラと神崎さんは、なつかしそうに話に花を咲かせていたが、私たちがこれからイラク入りしたいのだけれど、イラク大使館がお休みでヴィザがとれない、という話をすると、プレスカードがあれば、ヴィザなしでも大丈夫みたいですよ、と教えてくださった。
プレスカードというのは、要するにジャーナリストである証明書のようなもので、在住地でのジャーナリストであることが証明できれば、どこの国でもそのカードを見せれば取材OKという便利なものであるらしい。
神崎さんは日本の運転免許証をみせて「私はジャーナリストです。」と言ってカード発行の申し込みをしたのだそうだ。
「昨日申し込みをしたので今日発行される予定なんですが・・・。」とご本人も半信半疑のご様子。
あたりまえだ。運転免許証を見せて私はジャーナリストです、という話が通るのなら、運転免許をもっているひとはみんなジャーナリストになれるってことになるのだから。
ところが・・これが問題なく発行されたのだ。
「嘘みたいですねえ・・こんなに簡単にプレスカードが手にはいるなんて。」とにわかジャーナリストに変身した神崎さんは、嬉しそうにちゃんと水色のプレスカードを手にして発行カウンターから戻ってきた。
これにはあきれてしまったけれども、私たちにとっては救いの主が現われたようなものだった。
即座に「チーフ、私たちを助手にしてください。」という話がまとまり、3人でイラク入りすることに・・。
アンマン郊外でイラクに入るタクシーを探して、夜中の12時に出発するということになった。
それというのも、夜のあいだはイラクとの国境はアメリカ軍によって閉鎖されるので、夜国境に着いても次の日の朝まで車の中で待たなければならないのだそうだ。それにイラクに入ってからバグダードまでの道には、日本大使館での情報どおり盗賊がでる、ということで、夜走るのは大変危険なのだそうだ。
とにかく結局ヴィザはとれなかったけれど、イラクに入る準備は整った。
あとは国境で追い返されないことを祈るだけだ。
ダウンタウンに戻って、インターネットカフェへ行く。
イラクに入れば、もうインターネットはできない。
家にメールしながら、これが最後のメールになるかもしれない・・と思ってしまう。
「私の思うようにさせてくれて本当にありがとう。自分の目でイラクを見てきます。なにが起こっても、私は世界一幸せです。」と家族に書きながら涙がとまらないのが恥ずかしかった。万が一帰れないとしても・・とは、家族がどんな思いでいるかを考えるとどうしても書けなかった。
戦争中爆撃の下にいるひとたちのことを考えて眠れない日が続いた私だったけれど、今戦後の無政府状態で、なにが起こるかわからないイラクにはいることは、あのときの私の状態に家族を追いやることになるのだとわかっていた。
もっとひどいかもしれない・・家族なのだから。
それでも私はイラクに行きたいのだった。
自分がとてもエゴイストな人間に思えて、心から家族に申し訳ないと思った。
アメリカがこの理不尽な戦争をはじめてから私はずっと苦しんで、いろんなことを考えてここまできた。
でも神さまのお導きがなかったら、今私はここにいないはずだ、ということを疑ってはいなかった。
どんなに悲惨なことでも、ちゃんとこの目で見なくては・・。そして、創られた画像からではない、本当のイラクのひとたちの声をきいて、伝えたい。
私にできることは、ほかにはないのだから・・・。
私の家族は私のこの思いを深く理解してくれたからこそ、私が「イラクに行きたい。」と切り出したとき、「行かないで欲しい。」という懇願するような顔はしたけれど、言葉にはしなかったのだ。
涙を瞼の裏で乾かして、無理やり笑顔をつくって送りだしてくれた家族の「これからイラクにむかいます。」というメールを読む時の身を切るようなつらさを考えたとき、「感傷にひたってる場合じゃない。私がしっかり見てこなかったら家族の忍耐も無駄にしてしまうことになる。」と真剣に思った。
家族も私もすべて包んでくださる神さまの慈悲深さを強く感じて、クルアーンを唱えていた。
5月2日
メールの送信がうまくいかず、出発が遅れ、むかえにきたタクシーのドライバーを怒らせてしまったり、イラクに入るドライバーが最初に請合ったヨルダン人はでなくてイラク人にかわっていたり、手数料のことでもめたり・・・といろいろ問題はあったけれど、とにかく夜中12時半にはアンマンを出発。
車も昼間見たのとちがって、なんだか古くてガタガタ。
ん? 大丈夫かなあ・・と思ったけれど、もう出発した後なのでどうしようもない。
口の中で小さくクルアーンを唱える。
これ以上スピードがでないのか、ずいぶんゆっくり走る。
何度もイラク入りしているママジャミーラも、こんなひどい車ははじめて・・という。
なんだか心配になってくる。
このスピードでは、一体何時間かかるかわからない・・と半分あきらめたような気持ちで寝入ってしまった。
目がさめると、暗闇のなか車は止まっている。
なにがおこったのか・・と思ったけれど、単にドライバーが休憩しているだけだったらしい。
800キロの長い道のりをすこしでもはやく行きたい私たちは、はやく車をだしてくれるよう頼む。
するとドライバーは車の前のボンネットを開けようとする。
ところがボンネットが開かないらしく、バンバンたたきはじめた。
やっとボンネットがあいたのだけれど、車に対する私たちの不信感は最高潮に達していた。
そんなことにはおかまいなしに、ドライバーはくわえタバコでラジエーターの点検。
あーっ、長距離を走ったガタガタに古い車のラジエーターをくわえタバコで点検するなんて!
・・・爆発したらどうするの!
アンマンでコンボイを一緒に組みましょう、という毎日新聞の記者がいたのだけれど、彼のチャーターしたGMは800ドルもした。4人で割ってもひとり200ドルもする。
私たちのタクシーは3人で100ドルだった。
多少の危険はしかたがないかもしれない、などと変に納得する。
もう嫌、我慢できない!国境に着いたらタクシー替えようね・・と話していた私たちだったけれど、途中ペットボトルの水をたくさんストックしてなんとか無事国境についた頃には、ボロボロ車にも慣れてしまい、車を替えることなどすっかり忘れてしまったのだった。
明け方5時ごろ、ヨルダン側の国境に着く。
ヨルダン出国がうるさい、と聞いていたので、ここで追い返されては・・と身構える。
職業は?・・・ときかれるのに、ジャーナリストです、と答える。
証明書は?・・というのに、神崎さんが堂々とプレスカードをさしだす。
さしたる問題もなく出国できて、ほっとする。
プレスカードなしだったらもめたのかどうかは、今となってはわからない。
とにかく神崎さんのプレスカードはありがたかった。